第3話

 ノアールことノアの横に座り込んだ魔女は、ノアの血と泥に汚れた黒髪の頭を撫でる。

 魔女の尖った爪に一瞬怖がりながらも、その手がとても優しい手つきであることに気がついたノアは、初めて感じる人肌の暖かさに幸せそうに目を細めた。


 ———僕なんかを撫でてくれる人がいるなんて思わなかった。


 頭を撫でてもらうというとっても特別なことは、やっぱり特別な暖かさがあった。

 今までに感じたことのない動悸を感じる。


 どきどきふわふわと幸せに浸りながら、ノアは僅かに身体を横に揺らす。


 ふわっと森特有の土と葉っぱの匂いが混じる森の中で、ノアは眠気に任せてとろんと若葉のような瞳を閉じる。


 ———今なら、死んでもいいかも。


 ノアは欲しいものを十分に手に入れた。

 愛してもらえなかったし、抱きしめてももらっていない。


 けれど、もう十分だ。

 この美しき魔女に、ずっと夢に見てきた愛称で呼ばれることとと頭を撫でてもらうことを達成してもらえた。

 それだけで、ノアの人生は満たされるし、満たされた。


 ぱっと頭を撫でる手が止められたノアは、頭がもの寂しくて魔女のことを見上げた。

 ずっと撫でてもらえるなんて傲慢なことは思っていなかったけれど、いざ辞められるととてもさびしい。


「ノアはぁ、どうしてこんなところにいるのぉ?」


 魔女の問いに、ノアは引き攣った笑みを浮かべる。

 本当は王子教育で培った完璧な笑みを浮かべようと思ったのに、見事に失敗してしまった。


「………お家騒動」


 しっかりと声に出せたと思ったのに、ノアの声はみっともなく震えてとても小さかった。


「そっかぁ。———ノアは頑張ったねぇ」

「え………、」


 魔女が何気ないことにように穏やかに告げた言葉に目を見開く。


「僕は………、僕は逃げたんですよ?」


 相変わらず歪な笑みを浮かべたノアは、その深い隈が刻まれた濁った若葉色の瞳に、絶望を灯す。


「僕は、僕の責務を放棄した。僕にはみんなを守る義務があるのに………!!」


 ———王子さまの、王族の命は特別。その首1つでたくさんの人が死んでしまう戦争さえも、簡単に終わらせることができる。………僕の命は、将来たくさんの人の命を救うであろう騎士たちの命を救うために散らされるべきであった。


 ノアの咆哮に、心の絶叫に、魔女はさびしそうにその妖しい輝きを持つ黄金の瞳をゆっくりと隠す。


「ノアぁ、お前はいくつなのぉ?」

「? むっつ、です」


 今にも泣きそうな顔で告げたノアに、魔女は諭すように微笑む。


「6つかぁ。お前はちっこいわねぇ」


 けらけらと笑う魔女に、ノアはむぅっとくちびるを尖らせる。


「むっつは十分に大きいですよ?公務にも出られるとしです」


 ほんの少し胸を張ったノアの頭を、魔女は再び優しい仕草で撫でてくれる。

 優しいお手々が心地いい。


「そうなのぉ?でもぉ、わたしからしたら6つなんて赤ちゃんよぉ?」


 永遠を生きる魔女らしい言葉に、ノアは自分と彼女の間にある圧倒的違いを、種族としての大きな隔たりを感じた。


「にんげんの子供からすると、むっつは十分に大きいんです。貧乏なお家の子供や、将来重要な職業に就く子どもは、もうお仕事や見習いを始めています」


 かく言うノアもそのうちの1人である。


「できないとダメなんです。頑張らないとダメなんです。義務を、責務を果たさなけられば、ダメなのです。………それに、そうしなければ僕に生きる資格なんて、意味なんて、ない」

「ノアぁ?」


 ふるふると何事もなかったかのように首を横に振ったノアは、にっこり笑う。


「僕は、悪い子なんです」


 ———そう。僕は、義務を、責務を、投げ出したとっても悪い子。


「そんなことはないよぉ。ノアはねぇ、一生懸命に頑張って生きているわぁ。それだけでぇ、十分に尊いことよぉ?」


 魔女はぎゅっとノアのことを抱きしめた。

 今までに感じたことのない距離で人肌というものを実感したノアは、頬が熱くなるのを感じた。


「ノアはとぉーっとも頑張り屋さんでぇ責任感の強い良い子。いいこいいこ」


 変なリズムで頭を撫でられているはずなのに、変なリズムで優しく背中を叩かれているはずなのに、ノアの目頭はびっくりするぐらいに熱くなった。

 視界がうるうると歪み、口がはふはふという意味のなさない声をあげる。


「人生はねぇ、いっぱい、いーっぱい逃げてぇ、後悔してぇ、そして学んでいくものなのよぉ。可愛い可愛い頑張り屋さんなノアはぁ、まだ90年ぐらいは生きるでしょう?だからぁ、まだまだたっくさん失敗して良いのよぉ。逃げても良いのよぉ。大丈夫。わたしは何があってもノアの味方だものぉ。ノアの言うことをぉ誰よりも先にぃ、誰よりも深くぅ信じてあげるわぁ」


 魔女の言葉に、声に、仕草に、ノアの涙は増した。

 今までどんなに願っても、こいねがっても、絶対に手に入らなかった憧れほとんど全てが、今この瞬間、ノアの腕の中にある。


「………ありがとう、ございます。———魔女さま」


 若葉の瞳を涙に濡らし泣き笑いを浮かべたノアに、魔女はにっこりと笑った。


「どういたしましてぇ」


 もう1度ノアの頭を撫でた魔女は、その紫の紅が塗られたくちびるをあでやかに舐めて笑いながら首を傾げる。


「それでぇ?ノアはこれからどうしたいぃ?」

「僕は———、」

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