第2話
▫︎◇▫︎
ぴー、ちちち、
鳥の鳴き声で目を覚したのなんていつぶりだろうか。
白く霞む視界に顔を顰めながら、満身創痍となったノアールは痛む身体を起こした。
深い深い森の奥深く。
ノアールはたくさんたくさん逃げた末に、ここに辿り着いた。
あの緊急避難経路を使用した直後、ノアールは僅かな時間気を失っていた。
だが、どのくらいの時間かは分からないが、明け方に矢で射られた激痛によって朝には目覚め、それからは長い長い時間、襲撃を受けた次の日も夜通し逃げ続けるほどの逃走劇を繰り返していた。
今まで自分に媚びを売っていた人間や意地悪ばかりをしてきた人間たちがあっという間に敵に周り、ノアールに弓矢や剣を突きつけてきた。
何度も何度も死にかけ、血だらけになりながら必死になって逃げた。
王族を守り死んだ1人の騎士の言葉に感化され逃げた。
けれど、ノアールには逃げた先何をすれば良いのか分からなかった。
ここには褒めて欲しいと願う父王も、愛して欲しいと願う母妃も、ノアールの日程を組み常にギャンギャン吠えている世話係も、ノアールにありとあらゆるお勉強を教えてくれる教育係もいない。
ここには本当に誰もいない。
———誰も、僕のことを愛してくれない。
王子としての責務も投げ出してしまったノアールには、もう本当に何も残っていない。
人々がノアールを羨み続けた理由たる、家柄も、財力も、将来手に入れるはずだったモノも、一夜と1日にして、ノアールは今まの人生で得たモノ殆ど全てを失った。
———こんなふうになってしまった僕に、生きている意味なんてあるの………?
血だらけになったパジャマ姿で三角座りをしたノアールは、ぎゅっと膝を抱きしめ、膝に顔を
今のノアールに残っているモノは、元王子という肩書きと、王子としての教育で手に入れた知識や身体の使い方、そして周囲をよく見る観察眼だけ。
手に入れていたはずの交渉術は、全ての人間が怖くなってしまったノアールにはもう使いようのない代物だろう。
「うぅー………、ひっく、ひっく、」
目からぼたぼたとこぼれ落ちるものを真っ赤に染まったズボンが吸い込んでくれる。
一昨日の晩までは綺麗だったパジャマは、あちこちが破け、血に染まり、泥に染まり、草の汁に染まり、見るも無惨になってしまっている。
とっても小さい頃に読んだとある小説の
『悲しみでお洋服は汚れないし、靴も壊れない』と。
どんな逆光に立たされようとも、服が汚れようとも、靴が壊れようとも、心は決して折れることはないと。ノアールはそんな主人公が格好いいと思った。
ノアールがそんな格好いい主人公みたいになったら、父王も母妃もたくさん愛してくれると思った。
けれど、現実ではそんな夢物語は実現しなかった。
それどころか、父王と母妃はノアールを盾にして自分だけ生き残ろうとした。
———僕の人生ってなんなんだろう………、
悲観に暮れているノアールは、けれど次の瞬間耳に拾った音に絶望した。
人為的に立てられている草擦れの音だ。
———もう追っ手がここまで………っ、
裸足で走り続けたことによってノアールの柔らかい足の裏にはたくさんの石が刺さり、もう立ち上がることすらも難しい状況だ。
そんな状況でこんな間近まで近づかれてしまえば、ノアールにできることなんてもう何もない。
諦め。
その極地にたどり着いたノアールにとって、殺されるという現状はもうどうでもいいこととなっていた。
———最後に、誰かに抱きしめて欲しいな。
ぎゅっと抱きしめて、ふわふわと頭を撫でて、『偉かったね』、『頑張ったね』、『愛している』と声をかけて欲しい。
『おやすみ』のキスも体験してみたい。
手を繋いでお散歩もしてみたいし、『パパ』、『ママ』と言って、両親に甘えてみたい。
———でも、そんなの、可愛げのない僕には無理なお話だよね。
王子として相応しい人間でいられるように、一生懸命に生きてきた。
人間としての、子供としての自分を押し殺して、人々に求められる姿であろうとした。
そんな苦しい生活の末に行き着く先がこんなものであったとしても、ノアールにはそれしか道がなかった。
選ぶ選択肢なんて持ち合わせていなかった。
がさっ、
大きめな音が響いた次の瞬間、ノアールの視界にはこの世のものとは思えない美しい人が佇んでいた、否、浮かんでいた。
白銀のもこもこチリチリの腰まで伸びた髪、吊り上がった怪しい光を灯す黄金の瞳の周囲には漆黒の蔦を描いたメイクが施されている。
全く光に当たったことがないかのように真っ白な肌と長く尖った耳はその者が『ヒトナラザルモノ』であることを否応なしにも叩きつける。
「あらぁ?どうしたのぉ、坊や」
大きな胸、細くくびれた腰に、大きなヒップ、深くスリットが入った漆黒のドレスに大きな雫型のピアスを身につけた女性は、ふわふわと浮かんだままノアールの方にやってきて、やがて地面に膝をつけて、ノアールに視線を合わせて話しかけてきた。
あまりにも非現実的な出来事に目を見開いて固まってしまったノアールは、そのまま美しい女性に身体を優しく揺さぶられるまで意識をお空の遠くに飛ばしてしまった。
「はっ、」
「あらぁ?気がついたぁ?」
のんびりとした口調の女性は、にっこりと紫のリップが塗られたくちびるで笑う。
「わたしはこの国に住む魔女でぇ、
「とわの、まじょ………、」
なんだかしっくりする名前を聞いたノアールは、もじもじと口を開いては閉じてを繰り返し、怯えたような表情のまま魔女を見上げ、ぎゅっと拳を握り込んだ。
「あ、アイゼン王国第1王子、ノアール・フォン・アイゼン」
「ノア———………?ごめんねぇ、もう1回言ってくれるぅ?」
微笑みのまま固まり、ゆっくりと首を傾げながら顎に人差し指を当てて瞳を泳がせた魔女に、ノアールはこくんと唾を飲み、そして上目遣いに魔女を見つめた。
「………ノアでいい、です」
「ごめんねぇ、わたし、人の名前を覚えるのが苦手でぇ………、」
「構いません」
魔女は本当に困り果てたように、神さまが直々に書いたように美しい眉毛を八の字にした。
「———ノア」
ふっと瞳を閉じたノアールは、くちびるをもにょもにょと動かし、頬を幸せそうに緩めた。
———僕がずっと、ずぅーっと欲しかった響き。僕の、僕だけの———愛称。
人外の美しさを持つ魔女は不思議そうに首を傾げる。
「ノア?」
ふっと笑ったノアールは心の中に僅かな空虚を隠し、自分は幸せなのだと言い聞かせる。
「なんでも、ありません」
チリチリの白銀の髪を尖った耳にかけた魔女は、ノアールに優しい微笑みを浮かべていた。
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