1章 幸せの花園
第1話
▫︎◇▫︎
ノアール・フォン・アイゼンはアイゼン王国の第1王子として生を受けた。
———人々は僕を幸せ者だと言った。
家柄に、財力に、智力に、運動神経に、顔立ちに、そして何より将来手に入れるであろうモノに恵まれている、ノアールを幸せ者だと言った。
———けれど、僕は本当に幸せ者なのだろうか。
父王はノアールに無関心だった。
たくさんの妾?に構うのに精一杯で、1度もノアールのことを見てくれたことなんてない。
みんなは父王はノアールのことをちゃんと愛してくれていると言っていたし、ノアールのことをちゃんと気にかけてくれていると言っていたが、そんなものは嘘と偽りに塗れていることぐらい、しっかりと理解している。
母妃はノアールのことを憎んでいた。
ノアールが生まれて自分が美しくなくなってしまったために、父王は母妃のことをいないものとして扱うようになったからだそうだ。
みんなはあんな無能な女は捨ておけという。
けれど、どんなに憎まれようとも、どんなに嫌われようとも、あの人がノアールの母親であることには変わりない。だから、母妃に見てもらえるように、愛されるように、たくさんの努力を積んだ。
でも、母妃は決してノアールのことを見てはくれなかった。
ノアールの周囲にはノアールに媚びを売る人間か、僕に殊更厳しく接する人間しかいない。
誰もノアールそのものを見てくれないし、ノアールを通して違うモノを見つめている。
それが大層憎くて、悔しくて、苦しかった。
今日もいつも通りの生活が流れていく。
太陽が昇る前から起床して、お勉強をして、走り込んで、剣を習って、お勉強をして、ダンスを習って、お勉強をして、大臣との会談に参加して………、1秒単位で刻まれた過密スケジュールに慣れきってしまったのはいつのことだっただろうか。
夜の12の刻を過ぎたあたりで、やっと今日の分のスケジュールを終えたノアールには、これから明日の予習が待っている。
「………あと、ちょっと………………、」
うとうとする眼をゴシゴシと擦りながら、目の下を真っ黒に染めたノアールは若葉色の濁った瞳で帝王学の教本を読み込む。
———眠い、辛い、苦しい、さびしい。
父王に『よくやった』と言って頭を撫でて欲しい。
母妃に『愛してる』と言って抱きしめてほしい。
———僕の人生はそれだけで、たったそれだけで満たされる。
迫り来る眠気によって霞む視界で、ノアールは必死にペンを握る。
———頑張らなくちゃ。だって僕は、………王子さまなのだから。
ぱちんという音を立てて両頬を軽く叩いたノアールは、もう1度本に向かい、教本を頭の中に叩き込む。
「敵襲!!敵襲ーッ!!」
ゴンゴンという大きな鐘の音と共に怒声が耳を振るわせる。
震える両手で身体を抱きしめたノアールは、真っ白なパジャマの上に手触りの良い群青チェックのカシミヤストールを羽織り、部屋の外に出る。
「あ、あの………、」
部屋の前で番をしている衛兵は険しい顔をしている。
「………警備の関係上、国王陛下と王妃殿下と共に固まって動いていただこうと思います。構いませんか?」
「大丈夫、です」
漆黒のふわふわとした髪から覗く若葉のような瞳を不安にゆらめかせながらも、ノアールは毅然とした態度を保つ。
周囲はそれだけで、僅かながらも安堵を抱くことができることを、ノアールは習っているからだ。
それからノアールは父王と母妃が集まっているという玉座の間へと向かった。
そこには、既に父王と母妃、そして父王が囲っているという十数名の妾?がいた。
誰も何も話さなかった。
6歳とまだ幼さを残すノアールにも、現状は理解できていた。
———
胸元に大きなリボンが括られた真っ白なリネンのパジャマの裾をぎゅっと握りしめたノアールは、そこにきて初めて7部丈のズボンを入った足の先に何も身につけていないことに気がつく。
どうやら自分が思っているよりも、ノアールの気は動転しているらしい。
激しい鐘の音と、叫び声、そして金物が擦れ合う音がノアールの耳に響く。
鼻腔をくすぐるのは錆びた鉄の匂い。
何十、何百人もに人に命が失われていくのを、耳で、鼻で、感じ取る。
この状況でなお妾?たちと楽しくおしゃべりをしている父王の感覚が、感性が、………分からない。
「………助けて、助けて………」
めそめそと部屋の端っこで泣いている母妃がノアールの目に映った。
ノアールは数年ぶりに近くに寄ること叶った母妃の方に、ふらりふらりと近づく。
———今なら王妃殿下も、僕のことを………、
弱りきった相手に入り込み、付け入ることは簡単だと学んだ。
同時に、弱りきった相手に付け入ることは悪いことであると学んだ。
でも、ノアールには、これしか方法はないと思った。
今ならば、母妃がノアールの方を向いてくれるかもしれない。
今ならば、母妃がノアールのことを受け入れてくれるかもしれない。
今ならば、母妃がノアールのことを———愛してくれるかもしれない。
薄桃色の繊細なレースの装飾が美しいネグリジェを身に纏いうずくまっている母妃の前に立ったノアールは、ゆっくりと母妃の方に向けてふっくらとした子供らしい色白な手を進める。
「王妃殿、」
「触らないでッ!!」
パンッという乾いた音と共に、ノアールの手の甲が熱くなる。
ヒリヒリとした感触に目を見開いたノアールは、震える叩かれた手をもう片方の手でぎゅっと抱きしめた。
「ご、ごめん、なさい………」
釣り上がったエメラルドみたいな涙に濡れた瞳が、ギロリとノアールのことを睨む。
ふわふわと波打った黄金色の髪を耳にかけながら、母妃はそっぽを向いた。
———王妃殿下は、僕の顔すら見たくないんだ………。
若葉色の瞳にうっすらと幕が張り始めるのを感じたノアールは、慌ててパジャマの袖で目元をごしごしと擦った。
打たれて赤くなった手の甲がヒリヒリした。
「お逃げください!陛下!!」
廊下から叫び声が聞こえた瞬間、玉座の間の扉が大きな音を立てて開かれた。
扉が開いた瞬間に見えたのは、ノアールの叔父の姿だった。
漆黒の腰まであるストレートな髪を首の下で括り、瞳の色と同じ赤いモノをたくさんかぶっている叔父は、いつになく険しい顔でノアールたちのことを睨みつけていた。
「おぉ!我がイトシの
空気が読めない父王は嬉しそうな声をあげた。
でも、ノアールには分かってしまった。
今回の
漆黒の剣を横に振り血を払った叔父は、涼しい顔で父王とその側に侍る妾?、そして母妃を睨みつけた。
———逃げなちゃ、逃げなくちゃ………、
分かっているのに足が震えて動かない。
母妃は現状に気がついたのか、ノアールのことを盾にした。ノアールの後ろに隠れて、ぶつぶつと何かを呟いている。
何を言ったのか、本当は分かっているし、はっきりくっきり聞こえている。
けれど、ノアールの頭は理解することを拒んだ。
「………あなたが私のことを『愛おしい』と思ったことなど、1度としてなかったでしょうに。愚かですね、義兄上」
冷たい表情で淡々とした物言いをする叔父は、いつ何時も自他に厳しい人だ。
ノアールも何度も何度も叱られた思い出がある。
だからこそ分かる。
叔父は本当に、心から、この国を案じているのだと。
たとえその瞳の端に妬みや恨みが滲んでいるのだとしても、叔父はこの国のために動いている。
それに対してノアールはどうだろうか。
———僕は、王子さま失格だ。
ノアールは父王の所業を知っていた。
たくさんの女の子が父王のせいで苦しんでいるのを知っていた。
でも、父王に舌打ちをされたくなくて、自分のことを可愛い可愛い息子だと言って欲しくて、見て見ぬふりをした。
ノアールは妾?の所業を知っていた。
多くの民が汗を流して納めた税金を、宝石やドレスのために使っていることを知っていた。
でも、ノアールに直接関係するわけではないから、時間がないからと言い訳して、見て見ぬふりをした。
ノアールは母妃の所業を知っていた。
いつも不機嫌で、たくさんの人を傷つけているのを知っていた。
でも、母妃に愛して欲しくて、良い子でいたら愛してくれるかもしれないと思って、見て見ぬふりをした。
「——我が異母弟?」
父王の不思議そうな声がやけに大きく耳に響く。
ノアールはすぐに走り出さなければならないのに、なぜかこの場から動けなかった。
なんとなく、動かないことが正しいと思った。
「いぎゃあああぁぁぁぁああああ!!」
父王の断末魔のような叫び声と共に、ぼとりと親指が落ちた。
背筋がひんやりとする。
肺がガチガチに凍ってしまったみたいに呼吸がうまくできない。
———叔父、さま………、
剣術を習っているからこそ分かる。
自分と叔父の間に聳え立つ大きな隔たりに。
「わ、我のかわ、変わりに、のあ、ノアール、を………!!」
父王の言葉は無視され、1本1本、丁寧に、時間をかけて父王の指が切り落とされていく。
その度にひんやりとした空気が氷のように極寒へと変化し、空気が磨き上げられた鋭利な刃に変化してしまったかのような錯覚を覚える。
手の指が終わったら足の指、足の指が終わったら腕、腕が終わったら足、………だんだんと、着実に、父王の身体が小さくなっていく。
痛みで気を失うことさえも許されない父王は、もはや絶叫を上げるだけのゼンマイ仕掛けのお人形のようだった。
父王の首が落とされ、妾?が父王と同じことをされ始める。
ノアールはただただぼーっとその状況を放心したように眺めることしかできない。
母妃は随分と前から気を失い、もう何も言わなくなっていた。
———僕は、どうすれば良いの………?
呆然と、漠然と、時間は流れていく。
誰も助けてくれない悲惨な状況で、ましてや誰にも愛されないノアールが誰かに助けてもらえるわけがない。
自力で逃げるしかないと分かっていても、どこかで自分はここで殺されておくべきなんだと叫ぶ自分がいる。
部屋の端でお腹から夥しい量の血を流す騎士が、最後の力と言わんばかりに口元を動かす。歪で読み取れないような拙い動き。
けれど、ノアールには彼の言いたいことが痛いほどに伝わってきてしまった。
『に、げ、………ろ、』
ノアールは目を見開いた。
こんな自分でも生きていて良いんだと言われたような気がした。
ノアールは知っている。
この部屋に、隠し扉があることを。
ノアールは知っている。
隠し扉のその先に、緊急避難通路が存在していることを。
ノアールは知っている。
この部屋に、自分が助けるべき人間が存在していないことを。
「ごめんなさい、王妃殿下、………国王陛下」
小さく呟いたノアールは、パッと駆け出す。
目指すは玉座の真後ろの床。
ノアールが特定のリズムで踵を鳴らすと、床が抜けてベシャっと身体が地下に落ちた。
———いたい、
受け身を取ることもなく地下水路に落ちたノアールは、霞む意識の中で涙を流した。
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