231 グライルの掟
「よかろう」と、レイマールは言った。
「どちらかの死をもって決着とする決闘を行うことを許す」
「ありがたき幸せ!」
二度にわたって無様をさらした女騎士は、今度こそ一切の油断をなくして、シャリンという音も
まるで神々が見物に現れたかのように、遠くで轟音が鳴った。
「ベレニス・ラファラン、参る。お前も抜け、フィン・シャンドレン」
剣を構えるベレニスの背後で、ディオンが複雑な顔をしている。
彼女は気絶していたために、自分とフィンとの戦いを見ていない。自分が全力で斬りつけたのに全てかわされるというとんでもない状況が発生していたことを知らない。
ゆえに、実力では明らかに自分に及ばない女騎士が、剣聖にかなうはずは――という
その一方で、フィンはやる気がないから逃げに徹したのであって、自分の攻撃がかわされ続けたのはそのせいで、フィンの攻め手についてはまったく見ることができておらず、フィンが受けると表明したこの決闘ならば剣を抜き実力を見せるのでは……と多大な興味を持ってもいる。
そのあたりの思念にはまったく気づかず、そもそもそういう風に見られていることすら気づく余地もないまま、女騎士ベレニスは殺気をみなぎらせ……。
最強たるディオンほどではないにせよ、技量も気迫も充分に一流の剣士と言っていい女騎士相手に、フィン・シャンドレンは。
「い…………いけませんっ!」
ぼろ布が地べたから持ち上がり始め、同時に冷え冷えとしたものが漂ってきたのを感じて、カルナリアは反射的に叫んでいた。
取り返しのつかないことが起きる。起きてしまう。
フィンが負ければもちろん、勝ったとしても、それはカルナリアにとって最悪のものかもしれない。その予感。
そもそもどちらかが死ぬまでの決闘などとは――今決意したばかりの、自分が王となる新しい国では、そんな馬鹿げたことは……!
どちらかが傷つくようなら即座に治して、いつまでも決着がつかず疲れ果てるようにしてやる。今の自分にはそれができる。その覚悟をもって、二人の間に割って入ろうとした。
「…………あ?」
脚がもつれた。
視界が歪んだ。
体が重たくなる。
血の気が引く。いやもっと体温が失われていって、呼気が冷たくなり、心臓が巡らせる血流も冷え冷えとしたものに……空腹、いやもっとひどい飢餓、栄養不足、生命不足。本能的にそうとわかる。
フィンに何か薬を使われたのかと思った。眠り薬の前科が二度ある。あるいはトニアなりガザードなりの毒針。先ほどレンカが吹き矢と言っていた。昨夜、裏切り者たちに
「おっ、おやっ、おやめっ……」
そこまでは言ったものの、それ以上は口すら動かせなくなって、ぼろ布の上に倒れこんでしまう。
そこで、麗しい腕に支えられた。
「……………………」
先ほど袋が破れて漂った香辛料の匂いと共に、カルナリアだけにしか聞こえない、小さく低いささやき声が耳に流れこんできた。
(それは……どういう意味……)
しかしもう口が回らず、訊ねることができず。
「この子を頼む」
言って、ぼろ布はするすると離れてしまった。
代わりに、周囲に人影が集まってきた。
見知った面々。
「魔力切れだね。初めてで、みさかいなしに全力でぶちまけて、完全に空っぽになっちゃったんだよ」
ファラの声がした。セルイ、ゴーチェ。レンカと、多分グレンだろう背中も見えた。
フィン以外の、まだ生きている、この場では味方と言っていいだろう者たちが集結している。
固まるのはまずいことだとわかっているのに、ほっとしてしまった。
仰向けにされ、口に小さな容器があてられ、とろりとした、青臭い汁が注ぎこまれてきた。においに
これが魔力切れか。死の汚泥から救出された後に散々洗浄魔法を使わせられたファラがぐったりしていた、あれはこういう感じだったのだ。
「魔力を
よくわからないことを言われたが、確かに、きわめて不味い汁を飲みこんだ直後から、乾ききった体に水分が染みこんできたような心地がし始めた。
「あ、あの……今、ご主人さまから、こっそり言われて……」
口もちょっとだけ回るようになったので、急いで言った。
「壁の向こうに気をつけろ、穴を見つくろっておけ、と……」
「壁? 穴?」
聞き返されても、カルナリアにもわからないのだから答えようがない。
壁というのは、あの館の壁か、それともこの砦の城壁のことか。
穴とは。
確かにあちこちの岩塔には自然の穴が開いており、魔獣よけの煙が
ひそかに告げてきたということは、レイマール側の者には聞かれたくないのだろう。
「わかった。頭に入れておく」
レンカが背中を向けたまま言った。
周囲には相変わらず屈強な精鋭兵たち。
ファブリスとジスラン、あの二人はどちらもとても強かったが、どの一人をとっても彼らと同じくらい強い者たちが、百人近くいるという絶望的な状況。
カルナリアには、貴族階級に属する彼らがそれぞれ魔法具を携えていることも感じ取れる。
武具に、あるいは防具に、ふところに、魔力の気配。
砦に入って最初に見た時には感じなかったが、戦闘態勢に入って、身につけたり作動させたりしたのだろう。
元から強い者たちがそれでさらに強化されている。
そういう者たちに完全に取り囲まれた上で――ファラに匹敵する大魔導師バージル、忍びの者で様々な裏技にも通じていそうなグレンに対応できるガザード、同じくレンカの戦闘力に匹敵するだろうトニア……。
しかもその全員が、自分がレイマールに代わって王になると宣言した瞬間から、カルナリアを現王の地位を狙う反逆者として扱うようになっている。
もう一切、傷つけることをためらうまい。
この絶体絶命の状況がどうにかなるとすれば、何もかもまだまったく得体の知れない、ぼろぼろ、フィン・シャンドレンの行動のみ……。
「………………!」
また山が震え、それに重なって、人間たちの異様などよめきが湧き起こった。
女騎士ベレニスとの決闘が始まったのか。
「わ……!」
ファラの声。
「っ!」
セルイの、緊迫したうめき。
「え…………えええええええっ!」
ゴーチェ。
ものすごい驚き。動揺。
完全に周囲への警戒を忘れて、横を向いている。
だが回りの兵士たちも――精鋭のはずなのに、同じように声をあげあるいは愕然として、ゴーチェと同じ方向へ顔を向けていた。
むしろファラとセルイが例外だった。
「さっき、切られたからっすね……!」
「覆いきれなくなったのですね」
「あ、あの、なにが……!?」
カルナリアも、皆が見ている方を見たいが、体に力が入らない。
「あ、あの方が…………フィン様の、お顔が!」
ゴーチェが、その方向から一切目を離すことなく、言った。
「あれほどに…………お美しい……とは……!」
「!!!!!」
そうか、ぼろ布の、頭があるはずの部分が先ほど切り取られたから、立ち上がり同じように身にまとったら、首から上が丸出しになるのだ!
つまりフィンが、素顔を、出している!
すぐそこに、顔を出して、立って、みなに見せている!
カルナリアは再び炸裂した。
全身全霊をかけて、何としても起き上がりそれを目にしなければと狂奔した。
しかし、悲しいかな、カルナリア自身が理解している通り、どれほど強い思いを抱いていようとも、だめなときはだめ、魔力が枯渇し衰弱状態となった体は狂おしい切望にもかかわらずほとんど動いてくれず……。
「おおおっ!」
レイマールの声が響いた。
「それが! そなたの素顔であったか! なるほど、合点がいった! すべてを許す! その美しさならば、男どもの邪念を防ぐためにも、無数のいさかいを避けるためにも、できる限り隠そうとするのは道理というものである!」
上ずったその声音は、あの兄もまた、これまでの男どもと同じく、フィンの素顔を見て――魅入られたということ……!
「我が妹を守り通してくれた女剣士、フィン・シャンドレンよ! カラント国王たる余、レイマールが命じる! 我が元に来るがよい! これまでの
「~~~~~~!!!」
憤激のうめきが聞こえた。
ベレニスだ。
激怒は当然だと、男女関係の機微はよくわからないカルナリアでも即座に理解できた。
バルカニア側からでも、この恐るべき
第二王子であろうと貴族ぞろいであろうと一切容赦してくれない場所なのだ。
第四位の貴族令嬢、つまりはエリーレアと同じような恵まれた環境で過ごしていただろう彼女は、ひたすらレイマールに尽くし、愛し、レイマールを心の支えにして過酷な旅路を乗り越え、こんな所まで来ただろうに。
その相手が、つい先ほど出会ったばかりの女剣士に魅了され、自分の側に置くと言い出したのだ……。
(殺さなければおさまりませんね)
その気持ちだけはわかってしまった。
人の命は何よりも大事なものであるはずなのに。
言い出したレイマールではなく、言われたフィンに憎悪を向ける感覚も。肌レベルで。
「うあああああ!」
ベレニスの絶叫。
剣を振るった!
濃厚すぎる殺気、剣呑すぎる気配!
「………………」
次の瞬間。
剣と剣とが激突したり、あるいはどちらかの肉に刃が入ったり、傷ついて、血が流れて…………というようなものではない、妙な空気が流れた。
そちらに見入っている誰もが、今まで以上に集中し……精鋭のはずの兵士たちも見入り――そしてなぜか、強く集中しているのに、殺意が消えた。
何が起きたのか。
起きているのか。
「うわあ…………」
ファラが、死闘を見てあげるにはおかしな、間の抜けた声を漏らした。
他の者たちも、雰囲気が
――カルナリアには、何もわからない。
音もほとんど聞こえない。
ただ、肌で、いや五感を超えた何かで、どこかで経験したことはある、しかし決して許してはいけないことが行われていると知覚できてしまった。
具体的には思いつかない。
一体何が。
「いけません。子供には毒です」
「同感っす」
ファラの手の平が目にあてがわれ、視界を封じられた。
子供、つまり自分に毒、見せてはいけないもの。
何なのか。
「ベレニス」
その声は、ぼろ布越しのものではない、フィンの肉声だった。
小声だが、カルナリアの全身が耳になって、それを聞き取った。
「私は、お前の、敵ではない。わかったな」
決闘に臨んだはずなのに妙なことを言う、しかも妙に粘っこいフィンの声に――。
「は…………………………はいぃ……!」
ベレニスの、あの女騎士の声ではあるのに、殺気も敵意もすべて消え失せた、甘い、とろけた声が応じた……!
カルナリアの脳裏に、閃光のように、情景がよみがえった。
ラーバイ。
あの色街で。
鞭を駆使して少女たちに残虐なことをいくらでも喜んでやるだろう居丈高な元貴族令嬢、オティリーが。
自分以上の存在である
どうして、こんな絶体絶命の死地で、あのような淫らきわまりない記憶がよみがえるのか。
まったくわからないまま――目もふさがれ体は動かせないまま……。
がちゃり、と金属音がした。いくつか連続で。
甲冑を装着した人物が、地面に崩れ落ちたような。
そこでもまた、カルナリアはずるずると崩れ落ちていったオティリーを思い出した。
ああ、という声未満の音が、男たちからいっせいに漏れ出た。
そして、フィンの声がする。
「……レイマール、だったな」
自分が知っている通りの、けだるげでやる気のないものだったので、心底ほっとする。
ただそれは、やはり肉声だった。
ぼろ布越しではなかった。
顔が丸出しになっているのは間違いない。
「ベレニスの、この甲冑は、実に美しい。見事な作り、名匠の手になるものだ」
「あ、ああ……さすがに常にそれを着用していたわけではないが、従士たちに細心の注意をはらって運ばせていたものだ。ラファラン家の者にふさわしい逸品だ。そういうものが望みなのか? あるいは女騎士のような者が好みであるというのなら、それはそれで後にいくらでも手配を――」
上ずった声で妙なことをレイマールは言ったが。
「いや、それはいい。相手は自分で見つける。そうではなく――気になった」
フィンは、どこまでも淡々とした、カルナリアが一番よくなじんでいる声音で語った。
「グライルは、とにかくめんどくさい場所だ。そこを、こんな美しい甲冑や様々な道具などを持ち運んできたお前たちは……どれほどに、苦労した?」
さらに空気がゆるいものになった。
困惑しつつも、レイマールが答える。
「苦労、だと? 我らが何事もなく到着したとでも思っているのかね。
事前に様々な情報は得ていたが、聞きしに勝るとはまさにその通り、恐るべき場所であったぞ。
朝に踏みこみ、日が落ちるまでひたすら歩くより手のない、休むことのできない浅い沼地。そこを無数に這い寄ってくる
あるいは崖の上から流れおちてきた、洪水も同然の
レイマールの声には本物の戦慄や恐怖が感じられ、周囲の者たちからも同意のうめき声が漏れて、事前に情報を集め多くの物資を用意し屈強な者たちを数多く連れてはいても、やはりグライル踏破は危険かつ困難であったことが想像できた。
しかし、フィンがここでそれを訊ねる意味は……?
「石人、というものにも遭遇した。岩を乗せて動く、あらゆる攻撃が通じぬ、恐るべき存在であった」
カルナリアはもちろん、周囲の者たちが身を固くした。
一般人であるゴーチェが喉でうめく。
『あれ』を思い出せば当然のこと。
そしてレイマールは言った。
「一体だけでも恐ろしすぎるそれが、五体『も』現れてな。通り道にあたってしまい、逃げ損ねて踏みつぶされてしまった者が出たよ……痛ましい事件だった。あんなものがいるとは、ここは実に恐ろしい土地だ」
「…………」
カルナリアたちは、ほぼそろって、息をつき肩を落とした。
突然、周囲の兵士たちが、大した脅威に思えなくなってきた。
「なるほど。答えてくれて感謝する」
フィンが言った。
「大体わかった」
「何が、だね?」
「とても大事なことが」
「それは何だね?」
「お前たちについた案内人も、同じことを警告していたはずなのだが……」
「持ってまわった言い回しをせずともよい。
「お前たちが、なぜあのようなことをしたのか、わかった」
フィンが何かを指し示したらしく、少しの間が空く。
「む? 理由は先ほど告げたはずだが。国の財産に手をつけ、余が許したそなたに劣情を向けた、その罪により、と」
その返答により、フィンは山賊たちの死体を示したのだとわかった。
「そこではない。なぜ、あのようなことが『できた』のか、だ」
「できた? 我が配下の者たちが、鍛え抜かれた
「違う。
お前たちは、強きゆえに、案内人たちを、言葉通りの案内人としてしか見なしていなかったのだな、ということだ」
ああ、とセルイが小さく言った。
そういうことですか、と。
「このグライルにおいては、この地をよく知る彼らこそが貴族。我々、無知なる下界の者は、外ではどのような身分であろうとも、ここでは貴族に従う立場にならねばならない……そのように思うことはなかったのだな」
「……当然ではないか? 山を越える道を教えるだけの案内人ごときに、なぜ王族たる余や、いずれも高貴な家柄の者たちが身を屈せねばならぬのだ」
「その通りだ。お前たちは、自分を強く、高貴だと思っていて、言われたことを、本当の意味では受け入れていなかった。警告も注意も聞き流した。
……ゆえに、あのようなことができた」
フィンは言った。
「あれほどに、人の血を流した」
『できた』、とはそういう意味だ。
人の血を流すことができた。
血が出ないように絞め殺すのではなく、刺し、斬り、大量の血を流させながら殺すことができた。
グライルを恐れていないから。
案内人の警告を重視しなかったから。
真の脅威を知ることがなかったから……!
――気配が変化した。
フィンが、何かをした。
周囲の兵士たちが、一気に緊迫した気配に戻る。
「ザグレス……」
セルイが戦慄してつぶやき、ファラがヒッと喉を鳴らした。
ザグレス。
死神の剣、という意味だろうか。どこかで聞いた。そうだ、タランドンの街を散策していた時に。剣聖は死神の剣を抜き、振るったと。
剣……もしかして、フィンが剣を抜いたのか!?
それが、「知っているというだけでめんどくさい連中が寄ってくるから」と一切教えてくれないままだった、フィンの剣の名か!?
「なんだ…………その剣は……!?」
レイマールの声で、正解だとわかった。
体が動くようになってきた。だがまだ少しだけ力が足りず、目をふさぐファラの手を引きはがせない。見たいのに、こんなに見たいのに!
「まさか、その細腕で、女ひとりで、この人数を相手にするつもりかな? その妙な剣にどのような力があったところで――」
「先ほど、私がここにいるからお前の望みはかなわない、という評価を受けた。私が、これで、お前たちの行く手を阻むだろうと期待された」
フィンは――殺気をまったく感じさせない声で言い。
剣を収めたのか、少し硬い音がして。
鋭い雰囲気は失われた。
「だが、そんなめんどくさいことをする必要は、最初から、なかったのだ」
小さくため息をつき、どこまでもけだるげに、めんどくさげに、フィンは言った。
「…………どういう意味だね?」
「血を流しすぎたな。
魔法も遠慮なくぶちかまして。
私たちはこの地の掟に従い、あんなに気をつかい、めんどくさいことをしながら進んできたというのに。
グライルに生きる者たちを
――――来たぞ」
強い地響きがした。
山が煙を噴いたのか。
…………違う!
先ほど、フィンに何とささやかれたか。
壁に気をつけろ、と。
背後で。
城壁が、突然、吹っ飛んだ。
そして、すさまじい震動と共に。
巨大な――巨大すぎるものが!
誰かが叫んだ。
「グンダルフォルム!」
【後書き】
知らなくても、忘れていても、無視していても、やつらは来る。それがグライル。人間は山ねずみとして逃げ隠れながら生きるしかない場所。
ちっぽけな山ねずみどもの、思いも、願いも、計画も、歴史も、国も、夢も、何もかもどうでもよく、全てを喰らうためにそれは来た。
次回、第232話「究極の魔獣」。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます