176 霧



 出発した。


 いつも通りの、偵察隊、牛獣人たち、荷物班、客という順番。


 客は――第一班、モンリークたち、アランバルリと従者、他の客たち。以前に貴族藩につけられた強面こわもての案内人がつく。


 第二班。アリタ、ミラモンテスたち三人、亜馬に母子をまたがらせたライネリオと一家。これにエンフがつく。


 その後ろを、客としては第三班の、ライズ班が続いた。

 それですべてだ。


 初日は女性班が組まれ、貴族班もあったことを思うと、そら恐ろしくなる。


 こんなに犠牲を出しているのに、まだグライルの半分も乗り越えていないのだ……。


 安全な野営地を出る時、カルナリアは周囲を見回した。

 どこにいるのかわからないフィンに、今日の安全を、無事を祈った。





 動き始めてすぐに、深い足跡につまずきそうになった。


 楕円形から三つのひづめが出ている、獣のものである。さすがにあの石人ほどの広さはないが、小柄なカルナリアなら身を丸めればその中にすっぽり入ってしまいそうなほど。


 先を行くゾルカンたちが、その回りに集まって何か言い合っているのが見えた。


鎚矛犀ダリテウムの足跡……ですよね?」


 昨日と同じ、色々な魔獣の話をしてくれた案内人に訊ねる。

 ちゃんと親指を立ててから答えてくれた。


「ああ。食うのは木だし、でかくて硬くて、大抵の獣より強いから、ゆったりしていて、割と安全なやつではあるんだが…………」


 彼もまた、ゾルカンたちと同じように、怪訝そうな顔をしている。


「普通は、もっと低い所にいるはずなんだ。高い所の木は、硬くて、葉っぱが少ないからな。来る時はバルカニア側の森で見かけた。別にエサになるものが減ってる風でもなかったんだが……なんで、こんな所に登ってきたんだか……」


「ここでは、初めてなのですか?」


「この辺で出くわすのはな。少なくとも俺は初めてだ。おかしらたちもあの通り、気にしてる…………まあ、どうであっても、進むしかないわけだが」


「この先に、何かあるのでしょうか……」


「カルス様、どうか、おやめください」


 口にすると、そのことが起きる。

 ゴーチェの諫言かんげんを受け入れ、カルナリアは口をつぐんだ。


 そこからは、鎚矛犀ダリテウムがやってきた道を逆に進む形になり、地面にはずっと足跡が刻まれ続ける山肌を進んでいった。


 つまずきそうになるのが困りものだが、あれだけの巨体の群れが通りすぎた後ということもあって、それ以外には特に困難が現れることもなく、黙々と、淡々と足を動かし続ける。


 途中、あの長く太い鼻でへし折られたらしい木が道をふさいでいた。


 牛獣人たちと人間が総出で、取り除いたが……そのようなものをあっさりへし折るあの獣の力にぞっとした。


 確かに、あれが怒って暴れ出したら、人間たちに抗う方法はない。

 呼び寄せてしまった親子を処刑しようとする心情も、あらためて理解できてしまった。





 ゾルカンは、今日は少し登って、下って、また登ると言っていた。

 その、少し登った――登り切った、すなわち峠にさしかかる。


「うわあ…………!」


 行く手がひらけて、声が出た。

 誰もが足を止めて見入った。


 白銀の山嶺が、連なっていた。


 巨大なものがまばゆく輝く。

 最初の頃の、遠くに見えていたのとはまるで違って、その根元の方まで見えるようになっている。

 ついにここまで来た。


 白い壁。白銀ののこぎり

 鋭く蒼穹そうきゅうを切り取る刃のような純白の峰が、いくつもいくつも、きらめきながら無数に連なって、地平の向こうまでずっと続いている。


 その足元を、自分たちはこれから通過する。


 人智の及ばない、神々の住まいを、通らせていただく。

 自然に、そういう感覚をおぼえていた。


 王国だのなんだの、そういう人間の小さな営みによるものをはるかに超えた、絶対的な存在がそこに鎮座していた。


 これが、天竜山脈グライルの背骨。

 最も高く、最も険しい、その隙間を、自分たちはこれから、許しを得て、通らせていただくのだ。


 その敬虔けいけんな心地と共に、下り坂を進み始めた。

 一歩ごとに、神々の足元へ。




「……グンダルフォルムはな、これくらいのところから、見えるんだぜ」


 昨日その話をしたこともあって、案内人は、怖がらせるように言ってきた。


 災厄の大蛇。グライルの支配者。


「あの白い峰の半ばあたりを、うねって、動いてるところが、見えるんだ」


「そんなに大きいのですか!?」


「ああ。あの鎚矛犀ダリテウムを簡単にかじって、食べちまうそうだからな。そんなのが、ものすごく長くて、強くて、知恵があって、魔法さえ使ってくるんだ。どうしようもないだろう?」


死神ザグル退散」


 思わずカルナリアはやくけを口にしていた。


「……本物と夜を過ごしてる人が何か言ってるっす」


 ファラがぼそっと言ったが、聞き取れなかった。






 何一つ異変は起こらないまま――今のカルナリアの感覚では異変に入らない程度のことしか起きないまま、無事休憩場所に到着した。


「くっそぉぉぉぉ!」


 案内人たちの何人かが叫んだ。

 ミラモンテスたちがやらかさず生き延びたことで、賭けの負けが確定した者が出てきたらしい。


「やられたーーーーー!」


 ファラも、巨乳を腕で隠して身悶えた。


「これで、少なくともあたしの負けはなくなったねえ」


 エンフがニヤニヤして言う。


「魔法で、ものすごく感じるようにしてから、だったよねえ?」


「まっ、まだっ! 五日目ですよねっ、お姉さまが賭けたのは!? その前にやらかしたら、引き分けですっ!」


「おう、楽しみにしてるよ? まさか、魔法に手を抜いたりはしないだろうね?」


「それは、絶対に、誇りにかけてっ! ……でもっ!」


「安心しな、他の連中に声が届かない場所を見つけて、じっくりやったげるよ。この先、丸一日休むところがあるから、そこでだねえ。いやああんたみたいな、揉み甲斐のある相手は久しぶりだよ」


 エンフの手が一度だけ、大きく丸く豊かなものを揉みしだくような動きを示し――そこにカルナリアは達人の技を見た。


「やっ、やばっ…………!」


 同じものを感じ取ったらしいファラも、青ざめた。


「……お前らやっぱり、同類だ」


 レンカの言葉にまとめて貫かれた。





「やだーーーーー!」


 甲高い声がして、パストラの声が重なる。


 見れば、亜馬の背中にカルリトがしがみついて、降りようとしないのを親が叱っているようだった。


 心がやられていたのを、犬獣人バウワウの毛並みで復活したあの子供には、一度は本当に殺された後の回復に、また獣の毛並みが必要なようだ。


「聖女様が生き返らせた相手だから我慢しますが、お望みなら、すぐ黙らせますよ」


 案内人がさらりと言い、ぞっとした。

 自分自身も油断ひとつ、運の良し悪しひとつであっさり死ぬこのグライルに生きている者たちだから、命の扱いも軽いのだろうと理解はできる…………が、やはり直接態度に出されると血の気が引いてしまう。


「私じゃないんだけどねえ…………あ~、剣聖さんが、自分が名乗ってないのにやたらとそう呼ばれる気分、やっとわかったわ。そりゃ顔とか名前とか隠すよねえ」


「………………」




 そのフィンがまだ追いついてきてくれないまま、移動が再開された。


 ただ、その前に、ギャオルはいないが、他の犬獣人ふたり、バウワウとガンダが、ゾルカンに何か言っているところを目にした。


 前の時は――雨が降りそう、ということを告げていた。


 また、天候が崩れるのか。


「客ども、聞け!」


 ゾルカンが大声で告げた。


「この先、霧がかかる! 道に問題はねえが、足元も、前を行くやつも、見えなくなるかもしれねえ! そういう時は、こっちに行けばいいかもしれねえなんて、勝手に考えるな! 動くのをやめて、その場で止まってろ! いいか、まずいと思ったらとにかく止まる、だ! お前らのにおいは、この二人がかぎつけてくれるからな!」


 左右に立った犬獣人を示した。


「合い言葉を忘れるなよ! 霧の中は、一番危ねえからな!」


 その警告を受けつつ、出立し――。


 少しだけ平坦なところを歩いてから、木々の間を縫う、登り道になって。


 そこに、白い塊が押し寄せてきた。


 雲、だった。


 自分たちが飲みこまれる前に、純白の壁のようなそれがこちらへ突進してくるところが見えた。

 木々が次々と飲みこまれて消えてゆく。


 幼い頃、空に浮かぶ白い雲、あれに飛びこんだら一緒にふわふわと空を飛べるのではないかと夢想したものだったが。


 実際にその中に入ってみると――何も見えない、しっとりする、ただの霧だった。


 フィンと手をつないで飛翔し、突き抜けた時には、とにかく白いものだったとしか思わなかったそれが、こうして包みこまれてみると、とにかくとなり、何も見えなくなり、心身すべてが重たく冷えてゆくだけの、ろくでもないものだった……。


 視界がほとんど白いものに埋まり、ゴーチェやレンカ、亜馬にまたがる後ろのファラはまだ何とか見えているが、先を行く班の姿がよくわからなくなってきた。

 少しでも目を離してしまうと、前方にあるものが人体か、太い木なのか、見分けがつかなくなる。


「ホォーーーーウ!」


 前方で、吠え猿バウンキーのような声がして。


 到る所から、ホウホウホウホウと似た声があがった。


 まだ見えている前方の班についているエンフも。

 色々話してくれた案内人も、その声を張り上げた。


 前の者の居場所を知り、自分たちの居場所と無事を認識してもらうためだろう。


「一列に!」


 前方から指示の声が伝わってきて、カルナリアたち客は、縦一列に並ぶよう言われた。

 すぐ前の者だけを見て進め、と。


 これ以上霧が濃くなったら、前の者の肩に手を置いてひとつなぎになって、その場で待機。


 最も背の低いレンカが、先頭の案内人の腰に巻いたロープを握り、その後ろにカルナリア、その後ろにゴーチェ、亜馬とファラ、セルイたちという順番に。


 その状態で、足元に気をつけて、ゆっくりと進んでいったが……。


 霧はさらに濃くなってきて。

 先頭の案内人が見えなくなって、レンカの姿すら朦朧と霞むほどになってきた。

 物音も霧に吸収されるのか、ほとんど聞こえなくなって、耳の奥でじんと鳴る感覚がしてくる。


 前方から叫び声らしい音がした。誰かが転んだのではないか。

 自分の時のことを思い出したらしく背後でゴーチェがうめいた。カルナリアも戦慄した。何事もなければいいが。


「停止! 番号!」


 案内人の声がして、レンカが一と声をあげたのでカルナリアはすぐ二と言った。ゴーチェ、ファラ、セルイ、ファブリス、ジスランの声が続けて数字を口にしていった。全員無事。


 あの「学校」を思い出した。鞭打たれた手の甲の痛みも。

 ミオたちは無事という話だったが、今頃どうしているだろう。「学校」が再建されまた色々と教えこまれているのだろうか。

 あそこにいた子たちは、ちょっとだけ一緒にいた火傷の女の子「リア」が、実は王女であるどころか、後に、今は恐るべきグライルの中を傷だらけになって旅しているなどとは、想像すらできないだろう。


 ……ほとんど何も見えない中でそういうことを考えていると。


 横合いに、何かが動いた。


 人。毛皮の服、つまり案内人の格好。


「よお。子供か。ということは、女は、後ろだな?」


 顔を近づけてのぞきこんでくると、親指を、話しかけてきた。


 カルナリアの心臓が跳ねた。


「……大丈夫ですか。どこかやられたのですか!?」


 短剣をこっそり握りしめ、前のレンカ、後ろのゴーチェたちに聞こえるように、声を張り上げる。


 合図をせずに話しかけてくる、案内人の格好をした者。

 それも女性の所在を真っ先に訊ねてくる。


 ゾルカンやエンフが何度も「くそったれ」「ろくでなし」などの言葉で表現していた相手に間違いなかった。




【後書き】

いくつかの小事件は起きたものの、全体的には平穏に進んだ。いよいよ万年雪をいただく最高峰すなわちグライルの中枢にさしかかる。だがあれが出た。どんな魔獣よりも厄介な――「人間」が。

次回、第177話「ろくでなしども」。暴力描写、残酷な展開あり。



【余談】

「何事もなく」・・・

カルナリア「何か獲物を見つけたのでしょう、舞い降りてきたあの大きな猛禽に、これも待ち受けていたのでしょう大きな獣が飛びかかって、ものすごい争いをしていたのですが、遠い場所だったので私たちは気にせず通りすぎました。あと空にとても大きな雲のような丸いものが浮かんでいて、それは糸のようなものを垂らしてきて触れたものをくっつけ持ち上げて食べてしまうそうなので、フードをしっかりかぶって急いで通りすぎるように言われました。まあそれくらいで、誰も怪我することもなく、割と楽に進めました」

レント「姫様、慣れすぎです」

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る