145 蟻津波


※残酷な表現あり

 苦手な方は注意







 人間が走る、走る、走る、走る、逃げる。


「山へ! 山! 山へ逃げこめ!」


 案内人たちのものすごい叫び声。


 彼ら自身も全力で逃げ惑っている。


「戻れ! 戻れええええ!」


 ゾルカンの大声。村に近いところにいる者なら、水に囲まれたあの村、あるいは湖へ逃げこめばまだ生存の道はある。


 カルナリアは左右を見回し距離を目測した。

 自分は村よりも、山に近いところにいる。では山へ!


(こういう時が一番危ない)


 ふと、カルナリアの脳裏にフィンの声がよみがえった。

 夜の山道で、野営地を見つけた時の忠告。


 今にもそこらじゅうから黒い波が湧き出てきそうに思え、しゃにむに全力疾走しそうになる体を、何とか押しとどめて、気を配りつつ進む。


「!」


 ……草の中に、あの『とげ』があった。

 いつ設置したのか、明らかに今回の自分たちを狙ったのではない、古く朽ちかけたものだが、踏めば血が出る可能性が。


 戦慄しつつも避けて、急ぎ、どうにか斜面のはじまりに達して、幅広い岩の上に登り、へたりこんだ。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」


 心臓が破裂しそうだ。滝のような汗。


 とりあえずここは安全だ。

 だが――!


「わああああああああああ!」


 悲痛な叫び声が聞こえてくる。


 それにように跳ね上がり――荷物を安全な場所に置いてから木に駆け登った。


 草原がある程度見渡せる。


 北方から迫り来る石人の壁。

 川の中にもいる。


 その最前列のものたちの、下半身が、黒い波に埋まっていた。


 黒い波は、今はまだ、石人に群がるだけで、眼下の大半は緑色――だが。


 それまでは緑だった場所から、突然、黒い染みが広がりはじめて、凄まじい叫び声が聞こえてきた。


 誰かが、『とげ』を踏んだか、転んだか、とにかく血を流してしまったのだ。


 その染みが、広がって。


 他のところからも湧きだしてきて。


 草原が、緑と黒のまだら模様になってゆく。


 その緑の上を、人々が逃げ惑う!


「こちらへ!」


 カルナリアは叫んだ。


 山の方が近いのに、村へ逃げ戻ろうとしている者がいる。

 その者と村の間に、黒いものが湧きだし始めている。


「そっちはだめです! こちらへ! 山へ!」


 高く、よく通る、そして人の心をつかむ声音。


 王女の声、この地にはほとんど存在しないの声を、人々は本能的に聞き取った。


 カルナリアは、登った木の枝の先、行けるところまで進んで、フードを外し手を振り回して自分の存在をアピールした。


 気づいたか、走る向きを変えた者が何人かあらわれた。


「エンフさん! こっちです!」


 彼女の姿が見えたので両手を口に添えて呼ぶ。


 割と山に近いところにおり、恐らくシーロとアリタだろう二人を引っ張り、猛然と村の方へ走っていた。


 気づいてもらえたようでこちらへ向きを変え――夫婦だけを山へ追いやり、自分は別方向へ……。


 ライネリオ、パストラ、カルリトの親子の方へ行ってしまった。


「ああっ………………っ!」


 悲鳴を上げかけたが、こらえた。

 他にもまだ、呼ばねばならない人があちこちにいる。


 村の方では――堀の水が、盛り上がった。


 透明な水が大量に盛り上がり、壁となった。

 ファラの魔法に違いない。


 水の壁が前進する。

 堀より先へ、じわじわ進んでゆく。


 逃げ戻った人々や亜馬隊がそれに突入して、びしょ濡れになって向こう側へ転がり出る。

 血吸チスイアリは水を嫌がる。あれを通れば離れてくれる。

 あちらは大丈夫だろう。


 だが、水の壁という目立つものを発生させたために、せっかく山に近いところにいたのに、そちらへ逃げようとする者が出てしまった。


「いけません! 間に合いません! こちらへ!」


 一頭の亜馬とその回りの数人。

 貴族班。


 亜馬は頑丈だが、動きの速い動物ではない。

 すぐに見捨てて、バルカニア貴族ふたりと従者たちが村へ走り出した。


 モンリークは――。


 呼ぶ声を耳にしたらしい従者のアルバンとオラースは、ゴーチェを乗せた亜馬を引っ張り山へ向かおうとしたのだが。

 水の壁を諦めきれず、またカルナリアの声とわかったため、奴隷に従うのがいやなのだろう、従者たちを怒鳴り亜馬を村へ向けさせようとし始めた。


 そこに黒い染みが迫ってきた。


 ……虫に襲われ、たかられ、喰われるといっても、すぐ死ぬわけでは――わけではない。


 一匹一匹は小さく、噛まれても体のごく一部を千切られるだけ。

 たかられた者が死ぬのは、体内に入りこまれて気管を噛みちぎられて窒息したり、太い血管をやられて出血多量に陥ったりといった状態になってようやくだ。

 その救いを得るまでの間、到るところを細かく食われながら――皮膚も肉も食われ血みどろになり骨が見えてすらまだ死ねず、歩き、もがき、転がり、這い……。


 本能的に、助けを求めて、他の人間のいる方へ向かう。


 すなわち、その分、黒い波も近づいてくる……!


 さらには、興奮し、それでいてまだ獲物にありつけない血吸チスイアリたちが、近くにいる獲物を察知し、群がってくる。


「うわあああああ!」


 モンリークたちも迫る黒い波に気づいて――。


「いけません!」


 カルナリアは木から飛び降り、草を踏んで、突っ走った。


 予想した通りのことが起こった。


 まわりの地面からも黒い粒が現れ始めたのだろう、下を向いてみな慌て出す。


 そしてモンリークが――亜馬にまたがる怪我人のゴーチェを、引きずり下ろして。


 自分がその上に飛び乗った。


 またがるのではなく、両足とも布の鞍に置いてしゃがみこみ、少しでも地面から遠ざかろうとする。


 オラースがひとり、走って逃げる。


 アルバンが、亜馬の手綱をかかえこんで、全力で引いて離れてゆく。


 ゴーチェだけが残された。


 引きずり落とされたので杖もない。

 身を起こすが、苦悶の声、立ち上がりかけた途端に足首がガクッと傾きまた倒れてしまって。


 その体に黒い粒が……!


 そこへカルナリアは駆けつけた。


「左へ!」


 叫びつつ、飛びつく。


 地べたにいるゴーチェにはわからないだろうが、上からは見えていた。


 すぐ近くに石人の足跡、丸くへこんだそこに、水がたまっている。


 文字通りの死に物狂いで、動かせる手足全てを使って這うゴーチェと力を合わせ、その中に転がりこんだ。


 ゴーチェに張りついた黒い粒は、水を浴びるとすぐ離れて、乾いた地面の方へ移動していった。

 衣服のおかげで、肉は食われていない。血も出ていない。


 しかし、周囲に黒い波が広がってきた。

 もうここから出られない。


「ぎゃあああああ!」


 モンリークの悲鳴。

 亜馬は亜馬で必死に走り、激しく揺れて。

 その上にしゃがんでいた彼は、落ちてしまったのだ。


 アルバンは――逃げ出した。

 オラースと同じく、亜馬の綱も手放して、全力疾走。

 自由になった亜馬がその後を追ってゆく。


「待てええええ! ひぃぃぃ! た、助けて、助けてくれえええええええ!」


 まだ間に合う。


「こちらへ!」


 水たまりの中からカルナリアは叫んだ。


 気づき、顔をぐしゃぐしゃにしたモンリークが、黒い粒に飛びつかれつつ、四つん這いで向かってきた。


「…………ここです!」


 その間にカルナリアは別な方へ大きく手を振る。


 無策、無鉄砲に、この水たまりに逃げこんだ後のことも考えずに飛び出したわけではないのだった。


 村から、緑の輝きが飛び出してきた。


 一歩、二歩だけで到着。


『流星』を輝かせたレンカ。


「待っていました!」


 今の状況では、並外れた剣技は何の役にも立たない。

 カルナリアの持つ『王のカランティス・ファーラ』を失うわけにはいかない。

 ならば、主であるセルイから離れることを許されるだろうと読んでから、カルナリアは飛び出したのだ。


「ふざけんなよお前!」


 都合良く利用されることを怒られ罵倒されても、今はどうでもいい。

 使えるものは何でも使うべき。生き残るために。


 カルナリアは怪我人を示した。


「この人を山へ! その後に私を!」

「お前が先だ!」


 任務。『王のカランティス・ファーラ』。レンカからすれば当然の判断。


「じゃあ一緒に!」


 カルナリアはゴーチェにしがみついた。


「ばか!」


 怒鳴ったレンカは――ゴーチェを殴り倒して自分だけを助けるのではないかと危惧したが――『流星』ではない魔法具を作動させて、かがみこんでゴーチェの肩の下に入りこみ、軽々とその体を持ち上げた。


「お前も!」

「はい!」


 声を輝かせ、カルナリアは反対側のレンカの肩にしがみつく。


 ゴーチェの腕の上から、レンカの首に腕を回す。レンカの腕もカルナリアの体に巻きつく。


「離すなよ!」


 もちろん、と答えようとして、『流星』が発動し、舌を噛みそうなのでやめておいた――そこへ。


「うおおおおおおおお!」


 モンリークが飛びこんできた。

 逃げようとする自分たちに飛びついてきた。


 もちろん、レンカは察知し、予期していた。

 この程度の相手に不意を突かれるような間抜けではない。


 山へ向かおうとした姿勢から、山ではなく後ろへ一歩。


 わずかに身をひねって、かついでいたゴーチェの頭を、モンリークの頭に激突させた。


 ごつっ。


『流星』も使った勢いでの激突である。

 一瞬でモンリークの意識は飛んだ。


 貴族どもが血を流そうと知ったことか。むしろ死ね。

 そういう判断。


 ――ただ、若いというよりまだ幼く、大抵の相手を「斬る」か「刺す」ことで即死させてきたレンカが、ひとつだけ、そして致命的に読み違えたことは。


「ぐああああああ!」


 死に物狂いの人間の、しぶとさだった。


 モンリークは気絶せず――あるいはしているのかもしれないが。

 頭部から血をしぶかせながら。


 カルナリアにつかみかかってきた。


 本能的に、レンカにしがみつけば助かると判断し、空間のあるこちらを選んだのだろう。


 その手が後ろからカルナリアの顔にかかり、爪が肌をえぐった。


「くうっ!」


 レンカも即座に失敗に気づき、その場で回転。

 モンリークを横へ吹っ飛ばした。


 だが、それにより血が周囲にまき散らされ。


 黒い波が、一瞬で盛り上がり、レンカの身長を超えた高さで水たまりを取り囲んだ。


「!」


 レンカが硬直する。

 その高さのせいで、助走して斜めに飛んで逃れることができなくなってしまった。

 このわずかな水たまりの中でせいぜい一歩二歩だけ助走し角度をつけたところで、人体ふたつをかかえてなのでそう遠くへは飛べず、この虫の集まりようでは周囲はすべて黒い海、安全な場所にたどりつくのは不可能、落ちたところでおしまい……。


 しがみつくカルナリアにも、レンカのその状況判断と絶望が伝わってきた。


 黒い波が押し寄せる。

 この量と勢いでは水たまりなど何の意味もない。


(ご主人さまっ!)


 カルナリアの心が恐怖だけになった。

 終わりの時が来た。


 いや――。


「つかまれ! 飛ぶぞ!」


 レンカが、をした。

 カルナリアの体をかかえていた腕が離れて、一瞬だが、激しい動きを。

 何らかの魔法具も発動した。


『流星』が輝く。


 衝撃と共に、カルナリアの体は宙に飛んだ。

 軽々と。

 


(…………?)


 衝撃で閉じた目を、風を感じて開いたカルナリアは、見た。


 空中にいる自分。

 緑と黒のまだら模様の地面を、見下ろしている。


 自分を支えるレンカ。


 自分「だけ」を支えるレンカ。


 その、反対側の肩には――


 赤いものが噴き出し、空中に尾を引いていた。


 自分の腕の下にあるゴーチェの腕が、抜けて、これも赤いものを引いて、落ちていった。




 レンカは――。


 ゴーチェの腕も一緒に斬り落とし、ゴーチェを捨てて…………、飛んだのだった。






 そしてまた、別なものが見えた――感じた。




 とてつもない恐怖。



 それをまき散らす存在。





 が、山から、飛んできた。



 自分の足下に。



 出現した恐怖は、レンカと入れ替わるように、今までいた場所に突っこんでくると――。




(!!!!!!)




 何かをした。




 が広がった。

 波のような。地面に。空中にも。魔力、いや違う。


(ひっ!)


 瞬時に、恐怖、死の予感、死の確信が。


 カルナリアはそれを知っていた。

 昨日、体験させられたばかりだった。


 死の魔法!


 だがそれは、通り抜けただけの、ほんの一瞬で終わり……。


「………………」


 自分たちの上昇が、下降に変わった。


 その先は緑色。草。安全だ。


「うまく転がれよ……」


 レンカがかすれた声でそれだけ言うと、着地して、同時にカルナリアを転がした。


 覚悟し、準備して、まだ空中にいる間に体を丸めた。


 衝撃を受けるなり、ごろごろごろごろ……と転がり、速度が落ちてから手足を伸ばし受け身を取って停止した。厚手かつ高品質のマントや衣服が体を万全に守ってくれた。


「!」


 すぐ飛び起きる。


 自分を投げ出して着地したレンカは――血みどろ!


 片腕を失い、まだ赤いものが噴き出し、よろめき、周囲には到るところに真っ黒な盛り上がり!


「あああああああああ!」


 カルナリアは絶叫しながら突っ走った。


(何てことを! 私を助けるために! !)


 ファラなら治せる!

 レンカの足から『流星』を外して自分がつけて、村へ飛びこめば、虫にたかられても、まだ間に合う!


 唯一の生き延びる道へ突進し――。


「…………大丈夫だ」


 レンカが、何らかの魔法具を発動させ、噴き出る血を止めて。


 駆け寄ってきたカルナリアに、蒼白な顔色でだが、言った。


「こいつら、


 レンカは、最も近いところにある黒い盛り上がりを、蹴った。


 ざあっと音がして、砂利のように、無数の黒い粒が飛び散ったが――。


 どれひとつとして、動くことはなかった。


 見える限りの血吸蟻、そのすべてが、死んでいた…………。






【後書き】

死地から、かろうじて生き延びた。赤い光ということはフィン・シャンドレン。何が起きたのか。次回、第146話「治療と避難」。今回と同じような残酷な描写あり。



【解説】

※血吸蟻

書いているとき頭にあったのは、楳図かずお「漂流教室」に出てくる「怪虫のこども」。たかられたらあっという間に食いつくされガイコツにされてしまう、エグすぎるやつ。退治方法もあれのオマージュです。もちろんフィンは死にませんが。(知らない方にはすみません)

なお毒は持っていません。毒を持つと獲物がすぐに死んでしまってその場から動かなくなり、一体一体がそれほど量を食えるわけではない血吸蟻にとっては不都合になるからです。獲物がすぐに死なずより広く逃げ惑ってくれた方が結果的により多くの同族が獲物の血肉にありつける機会が増えるという残酷な自然の摂理に基づき、毒を持つタイプは淘汰されました。


オマージュ元ついでに……逃げ惑う人々にカルナリアが声をかけるところは「風の谷のナウシカ」アニメの、トルメキア軍が襲来した際にナウシカが「みんな、城へ!」と叫んで回るところをイメージしながら書いていました。

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