133 死魔法始末
重労働、いや猛労働の末に動けなくなった二人を落ちつかせると、フィンはファラの泥を、小枝を使ってかき落とし始めた。
メガネを外し、顔の泥を取る。
雨にあたっても、汚泥は粘っこくまとわりついて、じわじわとしか流れていかない。
それでも、徐々に落とされてゆくことで、泥まみれの丸太状態から人間の形になってきたファラの格好は――全裸だった。
少なくとも、それまで身につけていた衣服や装備が残っている様子はなかった。
「あの………………何が、起きたのですか…………?」
「説明する前に、動けるか。ここは危険そうだ。もう少し離れた、上の方へ」
フィンは何かを取り出そうとしたが、指先についた汚泥を気にして、やめた。
「すまない、お前たちに飴か蜜でも舐めさせようと思ったが、この泥を体に入れるのは良くない。洗ってからでなければ」
「大丈夫……です…………レンカも、ほら、がんばって……」
「ん…………」
二人は互いを支えながらのろのろと起き上がった。
フィンが危険だというのなら、その通りにしなければならない。
レンカは自分の双剣を拾い上げた。
鞘に戻す力が出ないようで、握ったまま腕をだらり。
カルナリアはその肩を支えて、斜面の上へ、何とか足を動かしていった。
フィンは、まだ泥まみれのファラの腰を抱え上げて、こちらはしっかりした足取りで続いてくる。
ぼろ布ごしで、直接泥に触れてはいない。
布を大きく持ち上げているせいで、動かす足、こちらも泥の付着した靴からふくらはぎの辺りまで、布の中身が見えていた。
「ありがたい」
少し上のところに、しっかりくくられた、大きな荷物が見えた。
亜馬に積まれていたもの。
亜馬もそこにいる。
先ほどのすさまじい恐怖感で、暴れて、飛び出して、転げ落ちてきてしまったものらしい。
その亜馬は横倒しになって、空中に四肢を動かし、悲痛な声をあげていたが。
フィンが荷帯を外してやると、すぐにいななきながら斜面の上へ戻っていった。頑丈で、怪我をした様子はない。
「申し訳ないが、使わせてもらう」
雨に濡れる荷物の封を解き、中身をあさる。
布――衣服がいくつも出てきた。
「木の枝や木の葉、石でもいい、とにかくまず、触らずにできるだけこの泥を落としてくれ」
横たえたファラの体に、フィンがそのようにし始めた。
周囲のもので泥を落とし、素肌が大体あらわになってから、最後に荷物の中にあった布で拭ってきれいにする。
カルナリアとレンカも途中から参加した。
「この泥は、触れるだけならまだしも、体に入れると良くないことになる。気をつけろ」
「はい…………でも、これは、一体?」
下半身はレンカにまかせて、胸回りの泥をかき落としながら訊ねる。
「死滅魔法――死の魔法――あらゆる『いのち』を奪う魔法を受けたあとの……そうだな、いわば、世界の残骸だ」
「世界の残骸……?」
「死んだものは、放っておけば腐る。そうする小さな生き物がいるからだ。
ただの土や泥からも草は生える。そこにはいのちの元があるからだ。
これは、そうした、人の目には見えないものすらもすべて死に絶えた、完全に死んだもの。
生きるために使えるものが一切存在しない、究極の汚物と言ってもいい代物だ」
「究極の…………汚物…………!」
恐ろしい表現に、かき落とした後のものが雨でやわらかくなった、それすらもおぞましく感じた。
この泥は、どれだけ放置しても、草の一本たりとも生えることがないのだろう。
この泥に覆われた土地は、どれだけ風雨が繰り返されても、完全な不毛の地のままであるだろう。
「どうしてそんなものが……いえ、この人がやったのですね……?」
すさまじい魔力爆発。
あの異様な感覚は、これだったのだ。
激しい炎や爆音ではなく。
死、という結果だけを広げたもの。
あの恐怖は、その余波、副産物。
爆発に際して周囲に流れた轟音のようなもの。
「ああ。まさか、もう治療費を支払うことになるとは思わなかった」
「治療費……」
考えて、思い当たった。
モンリークの治療を頼んだ時の。
『本当なら斬るところでも、一度だけ、見逃してやる』……。
つまり、ファラを斬って止めることができたものを、斬らずにすませようとしたために、こんなことになった……。
(はったりではないのですか!?)
タランドン城でも、ほとんどはったりと事前の仕込みで切り抜けてきたのがこのご主人さまだ。
しかし今の言葉は、これほどに物凄い魔力を持ったファラを、その気なら簡単に斬り捨てることができたように聞こえた。
確かに動きはすごいが――実際の剣の腕前は、本当にここまで、ただの一度も見ることができていない。
この状況でカルナリアに対して見栄を張る意味が……いや、逆にカルナリアに対してだからこそ見栄を張っている可能性も……。
「気をつけろ! 揺れてる!」
レンカが怒鳴って思索は途切れた。
確かに、地響き、地震――足の下が、おかしな具合に揺れていた。
先ほど踏みこみ、駆け抜けてきた汚泥の世界が、揺れ動いていた。
目の届く限りの範囲すべてで泥がどろりと動いて、少しは残っていた起伏が、ほとんど消滅する。
「……こいつを中心にした、広い、球体の空間内、全てが死に絶えたんだ。山のかなりの部分がこの泥になって――雨水で、ゆるんで、普通の部分も崩れていって、これからどんどん山の形が変わっていくぞ」
ズズズズ、と音を立てて地形が変わってゆくさまを、カルナリアは目の前で見る羽目になった。
先ほどまで自分たちがいた場所が、歪み、ねじれ、形を変えて、泥の上へ崩れ落ちてゆく。
何一つ形あるもののない、泥だけの、海のような空間は、雨降る中でむしろ明るく見えており。
かなり広いその中に、あらゆる意味で「生きるもの」が皆無だという事実が、とてつもなく恐ろしく感じられた。
そしてまた。
それほどのことをひとりの人間がやったということ。
それを止め、生き残った人間がいたということに――言葉にはできない驚異と恐怖と興奮と感動をおぼえた。
人は、いったい、どれほどのことができるものであるのか……!
――意識を失っているファラの、体に付着した汚泥はかなりかき落とされて、人の肌、裸身が露出する状態になってきた。
やはりその胸はすばらしいものであった。
フィンはその上から、水を通しにくい布をかぶせて保温した。
顔も、雨滴が当たらないように覆いをかける。
「こいつが起きるまで、ここで待つ。起きたら、私も含めて、全部洗わせる。普通の水じゃ落ちきらない。魔法が必要だ」
「はい……」
「あの、一体、フィン様は、どうやって…………?」
ファラの体を拭い続けていたレンカが問うた。
これほどの死の魔法の、爆心地にいたのであろうフィンが、どうやって生き延びたのかということだろう。
「そうだな……この状況で言うのも何だが、死の魔法であってくれてよかった、というところか」
「?」
レンカもわからないようで、少しだけ安心した。
「死の魔法――あらゆるものに死を与えるというのは、魔法というよりは、呪い側のものだ」
「あ! じゃあ、あの護りのおかげで!?」
すぐわかったことで優越感を得て、カルナリアは声を弾ませた。
「ああ」
フィンは、鞘の下半分が泥に汚れた長剣を天へ伸ばした。
「これが、守ってくれた。ものすごい力だったので、それでもぎりぎりだったが。死の魔法じゃなかったら、焼き尽くされていたか、粉々に吹っ飛んでいたか、凍りついていたか――とにかく、終わっていただろう」
「ひぃぃぃ……!」
「何とか持ちこたえた、その後は――」
温風が吹き、魔法具の作動を感じた。
「乾かして硬くして、足場を作って、水気を弾いて、耐えていた」
フィンの表現通りなら、あの場所が球体の中心だから――最も泥が深いところでもあったわけで!
「お前たちが来てくれなかったら、沈まないようにひたすら耐えて、流れ落ちて浅くなるのを待って……そうだな、脱出するまでに、三日ほどかかっただろう」
その言葉に、カルナリアはレンカと一緒になって、心底からの安堵の息をついた。
自分たちが駆けつけ、感知し、助けることができなかったら、ずっとこの場に残ることになったのだ。
フィンを見捨てて先へ行くという選択肢は、自分には絶対に選べないのだから。
「……動けるなら、どちらか、上へ行って、ゾルカンか誰か、山に詳しい者を呼んできてくれ。
あの休憩所は大丈夫だとは思うが、あの山肌のえぐれ具合では、影響が出てもおかしくない。
あとこいつに服を着せるので、女性も誰か」
「はいっ!」
「自分が行きます!」
カルナリアとレンカはほぼ同時に言って。
お互いをにらみあって、これもほぼ同時に、斜面を登り始めた。
くたびれきっていたはずなのだが、フィンの言いつけに従うためになら、わずかな休息の間に戻ってきた力をいくらでも発揮できることに我ながら驚く。
元々の身体能力は圧倒的にレンカの方が上。
だが――返すのを忘れていたのだが、カルナリアは『流星』をつけていた。
「あ! ずるいぞ!」
レンカに飛びつかれ、腰にしがみつかれた状態で、引きずりながら斜面を駆け上がった。
高速移動したので、雨滴が顔を強く叩く。
岩屋根の下に転がりこんだ。
もちろんすぐ『流星』は止めて、きちんとレンカに押しつけて返す。
休憩所の人々は――。
「うううううう…………」
「たすけてくれぇ……」
「やだ、もう、いやだぁぁぁ……うちに帰してくれええ……!」
誰もが倒れ、うめき、泣き叫び、あるいはおびえきって身を丸めて。
戦の後の、負傷者たちが集められた治療所のように、
【後書き】
地形が変わりあらゆる生命が滅した。これを人に、城に、街に向けられたらどうなるか。魔導師が貴族となり魔法が貴族のものとされる理由である。次回、第134話「洗浄」。やらかすのは一瞬、片づけるのは一苦労。
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