132 滅びの泥


「ぐべっ!」


 ほとんどタックルを食らったのも同然のカルナリアは、内臓が潰され濁った悲鳴をあげた。


「ばかやろぉぉぉぉぉぉぉぉっ!」


 レンカの声をすぐ側で聞く。


 自分は飛んでいる。

 雨の中に飛び出している。


 何が起きたのかまだ理解できない。


 後ろ向きに飛んでゆく、視界の端で、異変。


 雨降る向こう、岩屋根の外、下の方。


 薄暗い中に、赤く鋭い光が流れる。


 それが長く飛んで、いや落ちていった先で。


 何かが猛烈にふくらんだ。


(魔力!)


 一瞬のことでまだ何一つわからない中、それだけは体で感知する。


 雨の向こうで、瞬間的に魔力が膨張し。


 とてつもなく巨大なものとなって。


 レンカが着地。

 岩屋根の下から飛び出て、雨の中。


 巨大なものが炸裂した。


『波』が、来た。


「ぐあっ!」


 カルナリアもレンカも、苦鳴をあげた。


 殺気。

 恐怖。

 絶望。


 自分は終わった、死んだ、滅んだという確信に襲われる。


 カルナリアはこれを味わったことがあった。


 タランドンの屋敷で。

 憑依されたオーバンに捕らえられた時に。


 岩屋根下の空間からも、無数の悲鳴が、絶叫があがった。


「ひぃぃぃぃぃぃぃっ!」


 あの時と同じものに襲われ、カルナリアは何も考えられずに、とにかくそこにある体にしがみつく。


 同じようにしがみつかれる。


 そこにだけ生があり、お互いの体以外のものはすべて死に絶えた。


「ひぃぃ、ひぃ、ひぃ…………」


 震えて、しがみつき続けて。


「…………」


 ようやく、恐怖の中で、ものを考えられるようになった。


 一度経験しているせいか、カルナリアの方が立ち直るのは早かった。


 雨がフードを叩いている。

 音が聞こえる。息ができる。

 自分はまだ生きている。


 まだ生きていて、しがみついている相手もやはり、生きている!


「レンカさん。…………レンカさん…………レンカ!」


 強く呼ぶと、ガクガクと震えるばかりだったレンカが、目の焦点を取り戻した。


「しっかり! 起きて! レンカ!」


「う…………あ…………あ……あっ……」


 ようやく、目の前にいるのがカルナリアだと気づいた様子。


「私です! 大丈夫ですか! 動けますか!?」


 レンカはガチガチガチと音を立てて歯を鳴らし、体が震え続けてどうにもできないでいる。


 カルナリアは――自分がしてもらったことを思い出して。


 真正面から、しっかりとレンカを抱きしめた。


「よし、よし。大丈夫ですよ。大丈夫。もう怖いものはない。何もない。こわくない、こわくない」


 フィンにしてもらったように、背中を撫でさすり、ぽん、ぽんと優しく叩いた。


「う…………う………………うう…………」


 レンカの震えがおさまってきた。


「……い、いつまでやってんだ……いい加減にしろ!」


 いきなり、抱擁していた体に力がこもり、腕が払いのけられた。


「大丈夫ですか」


「何ともない! 余計なことすんな!」


 よく整った顔が、ぷいっと横を向いた。


 二人を雨滴が包みこむ。


 フードをかぶり直し、あらためて周囲を見回した。


 岩壁と、そこにできている岩屋根を、自分は見上げている状態。


 あそこから飛び出して、斜面の少し下にある岩場に飛び降りたようだ。


「何が起きたのでしょう?」


「……ファラのやつが、やったんだ」


「ファラが? 何を?」


「前に言われてた。あいつがいきなり黙ったら、とにかく逃げろ、離れろって。お前の様子からも、ファラが何かやりそうな気はしてた。だからとっさに……」


「私を助けてくれたのですね。ありがとうございます!」


「そこにいたからと――お前と、お前の持ってるものを、なくすわけにはいかないからだ。勘違いすんな!」


 レンカは怖い顔をしてカルナリアを睨んだが、その顔は幾分赤らんでいるように見えた。


 しかし、それを楽しむどころではない。


「……『流星』を使ったのですね」


「ああ。これでなきゃ多分死んでた」


「死……!」


「ファラは、これまで三回やってるんだそうだ。怒り顔とか不機嫌な気配とか怒鳴り声とか、そういうのまったくなしで、いきなりの魔力放出。回りにいたやつらは皆殺し。これで四回目か」


「なっ…………!」


 先ほどの巨大魔力の意味がようやく理解できた。


「じゃあっ…………他の人たちは…………あの光は!」


 カルナリアは視界にとらえたものをあらためて認識し、途端に一気に血の気が引いた。


「オレはこっちへ飛んできたから、後ろで何が起こったか見てねえ。どうなった? 全滅か?」


「私たちが飛ぶのとほとんど同時に、反対側へっ、あっ、赤いものが飛び出していきました!」


 赤い光。赤い『流星』。

 すなわち、フィン!


「あのひとが!?」


「それが落ちていった先で、魔力が、きわめて強力な、ものすごい魔力が爆発しました!」


「どこだ!?」


 レンカは雨中の、カルナリアが示した斜面下方に激しく目をこらした。


 よく見えないが――あの巨大魔力が炸裂したあたりの、地面の色が変わっているような気がする。


「あのあたりです!」


「行くぞ!」


「お願いします!」


 当たり前のようにレンカは背を向け、当たり前のようにカルナリアは身を預けてされた。


 フィンよりも、カルナリア自身よりも小さな相手に背負われるのは妙な感覚だったが。

『流星』が発動し、筋力を高めたのか別な魔法具も感じつつ、レンカはカルナリアごと軽々と宙を飛んで、細かいジャンプを繰り返して降りていった。


「…………なんだ、こりゃ…………」


 斜面の、かなり下の方。


 泥水の流れをひたすらさかのぼったあの道も含めた、広い範囲が。


 異様な色の、泥濘でいねいと化していた。


 登る途中の左右に無数にあった、茂み、木々。

 太い木、細い木、蔓草つるくさ灌木かんぼく

 そういったありとあらゆる植物、そこに宿っていた虫や鳥、小動物らも含めて、何もかも消え失せている。

 岩もない。地面の盛り上がり、突き出た岩、そういうものもなくなっていて。


 代わりにあるのは、目を背けたくなるような、やたらとしたおぞましい色合いの、泥ばかり。


 腐臭とは違うが鼻を突く、明らかによくない臭いのする、奇怪な汚泥まみれの空間が、山の斜面、いや山の半分ほどにも広がっていた。


 その泥の広がり、泥の海と言ってもいいほどの空間には、生きるものの気配がまるでなかった。


 動くものはもちろん、雨滴に揺れるもの、わずかな風にそよぐものすら消え失せている。のっぺりとした平面のみ。そこを雨が濡らしてゆくばかり。


「……腐ってやがる……」


 レンカが汚泥の中から何かをつまみあげた。

 小動物の、全身の形を保った、骨だった。

 それがすぐに崩れさり、白い粉と化した。


「生きてるものが、何もかも、死んで、腐り落ちたんだ……これ、、その死骸だ…………!」


 レンカの言葉の意味が、に落ちるまで、少しかかった。


「そんな……!」


 だが確かに――カルナリアの感覚でも、この汚泥の空間には、何一つ魔力を感じない。


 なにひとつ、だ。

 皆無。


 どんな人間にもどんな生物にも、岩や風や水にも、あらゆるものに魔力は宿っている。音と同じように、どれほど静穏と思っていても、常に何かしらの微弱、微細なものはある。

 そのはずだった。


 何もかもなくなってみると、その空虚感、寒々しさは、すさまじいものだった。


 前に、利用価値のない、ろくに木すら生えていない荒れ地を移動したことがあるが、あそこですらここに比べると生命に、魔力にあふれていた。


 ここは、この場所は――山ひとつが丸ごと、完全に死んでいるのだった……!


 言葉をなくした二人を、雨の音が包みこむ。

 雨滴に濡れた汚泥は、てらてらした気色悪い色合いを深めてゆくばかり。


「とんでもねえ……まさか、こんなに……!」


 レンカのつぶやきは、感嘆ではなく、恐怖だった。


 カルナリアも総毛立った。

 先に感じ取っていた、ファラの体内の危険な魔力。

 あれのせいで、こんなことに。

 死の世界に。


「ひ…………!」


 レンカがカルナリアをかかえて逃げたように。

 フィンもとっさに『流星』でファラをかかえてあの場を離れた。


 だとすると、フィンも、この中で…………腐り落ちて…………!


「いやああああああああああっ!」


「うるせえ! 騒ぐな! 落ちついて考えろ! 今まで、同じようなことやらかしても、ファラ本人は生きてた! つまりどっかにまだいるはずだ!」


「ご主人さまは!? フィン様は!? どこに!? これじゃ! こんな!」


「あのひとが死ぬもんか!」


「!」


 カルナリアは鞭打たれた。

 ギリアの鞭に匹敵する衝撃と共に、覚醒した。


 そうだ。

 あのぐうたら怪人が、のんびりする理想の境地を得られないまま、こんなところで終わりになるわけがない!


 自分が先にあきらめてどうする!


 カルナリアは凄まじい気迫をこめて、死の泥の奥に目をこらし――。


「いる! あっち! なにか!」


 語彙ごいが崩壊した状態で、指さした。

 自分にしか感じ取れないものが、その先にある。


 するとレンカは、すぐに泥の中に踏みこむのではなく、まず周囲を見回した。


 自分たちがいるのは、泥の海たる死の空間の、外縁。


 背後にはまだ生きている木々が立ち並んでいる。


「降りろ!」


 レンカは左右に剣を抜き放ち、木々の間を飛び回って。

 あっという間に、きれいに切断された、十数本の木の枝の束を作り上げた。


 それを持っていたひもで軽くまとめ、まき束のようなそれをカルナリアの肩にかつがせる。

 中にはカルナリアの腕より太いものもある。ずっしりと食いこんできた。


 その状態のカルナリアを、あらためて背負った。


「オレが言ったら、一本ずつ、よこせ」


 レンカはまず、くくっていない木の枝を一本、汚泥の中に放り投げた。


 それから『流星』を発動。

 その枝の上へ飛ぶ。


「次、よこせ」


 ふわりと枝の上に着地してから、一本受け取り、前方へ投げた。


 枝の上から、次の枝の上へ飛ぶ。


 それにより、どこまでの深さがあるかわからない汚泥に沈みこまずに先へ進める。


(すごい…………!)


 カルナリアは驚愕した。

 とてつもない身ごなし、身軽さ、バランス、『流星』の巧みな使い方!


 小さいとはいえ一人を背負いつつ、雨に濡れた木の枝の上に立つなんて、すごすぎる!


「どっちだ!?」


「あ、はい…………向こう!」


 感動している場合ではなく、カルナリアは自分に感じ取れるものを全力で探って、方向を指示していった。


 レンカは移動できるが、感じ取れない。

 自分は感じ取れるが、移動できない。

 ふたりが組めば、進める。


 雨に濡れ気色悪い色合いになっている死の泥の上を、何本も木の枝を渡って、進み続けて――。


「あっ!」


 天は灰色、地は汚泥だけの世界の先に、まるで違うものがあった。


 生きているものの気配があった。


 何一つ命を感じない泥の中に、輝くように、命があった。


 円錐形があった。


 ぼろ布が、尖って突き出ていた!


「ご主人さまああああああっ!」


 カルナリアは叫んだ。

 肺も破れんばかりに絶叫した。


 円錐形が動いた。


「いま行きまーーーーーーーーーーーすっ!!」


 レンカも叫んだ。


 叫んで、飛んだ。


 木の枝は残り二本。


 ぎりぎり、足りた。


 近づいてみると、円錐形は下半分が泥に埋もれていた。


 動けなくなっているのか。


 木の枝の、最後の一本。

 それを円錐形へ差し出す。


「つかまってください!」


「助かる」


 まぎれもないフィンの声がして。


 片手が出てきて、木の枝をつかんで。


「三で引いてくれ。一、二の、三っ!」


 レンカが、筋力増大の魔法具も作動させて枝を引くと。


 円錐形が、泥ごと持ち上がり。


 フィンの、もう片方の腕が見えた。


 あの長剣を、泥の中に突いて、自分の体を持ち上げる助けにしていた。


 そして、どろどろに包まれた下半分が現れてくると共に――。


 円錐形の内部にあるだろうフィンの体の、その腰のあたりに巻きつくかたちで、恐らく紐で縛られている、泥の塊のようなものが現れた。


 泥まみれのそれが、雨に洗われてゆくと、人の形とわかった。


「ファラ!」


 レンカが判別して叫んだ。


 確かに、頭部とおぼしきあたりにメガネがついていた。


「話は後だ、来たところを戻れ! 私はそれを追う!」


 十分に体が出たのか、フィンから『流星』の発動を感じた。


 レンカはすぐに、ほとんど泥に沈んだ狭い足場の上で回れ右して。


 飛んできた通りの、木の枝を伝うルートを戻り始めた。


 カルナリアは振り向いた。


 赤い光を放つ、大きな泥の塊のようなものが空中に出てきた。


 知らなければ泥沼から現れた怪物としか見えなかっただろう。


 ――レンカは何度も飛んで、泥の海の縁に戻ってきた。


 周囲に木々のある、しっかりした地面の上に立つと、雨に濡れているそこであっても、心の底から愛おしく感じた。地面がちゃんと生きている。自分はいのちに包まれている。


 カルナリアはレンカの背から降り、近づいてくる赤い光を待ち受けた。


 その赤い光の動きは鈍い。

 体の小さな自分たちよりずっと重たいせいだろう。


 止まることはなく、徐々に近づいてくるが、時折り不安定に揺れもする。


「急げ!」


 レンカがすごい勢いで木々の間を飛び回って、また木の枝を集めてきた。

 幹を切断し、二つに割って、踏みしめやすくしたものもいくつもあった。


「置いてこい!」


 足環が押しつけられ、カルナリアは何も考えずに装着した。レンカが細長い木を根元から切断して泥の中に倒した。カルナリアは腕いっぱいに木の枝をかかえ緑色を輝かせてその上を突っ走り、泥中に枝を投げこみ、駆け戻り、レンカがった次のものを持ってさらに先の泥の中に足場を作り……。


「こっちです! こちらに!」


 近くに来た赤い光に、両腕を振り回して声をかけた。


 ついに、自分が投げこんだものを踏んでくれて、その姿勢が安定した。


 円錐は、泥まみれのファラを、両腕で横抱きにしていた。


 カルナリアはフィンが次にどう動くか完全にわかって、赤い光に背を向け、腕を開いて待ち受けた。


 脇の左右に、泥まみれの、女性の脚が来た。


 即座に捕まえ、しっかり持った。


 上半身をフィンが、両脚をカルナリアが持つ態勢。


 そして二人は、完全に同じ速度で、頼りない足場の上を疾走していった。


 カルナリアは、フィンとまったく同じように脚を動かすことができた。

 二人はつながって、一緒に動くものとなっていた。その状態をカルナリアはすでに経験していたから、またできるのは当然だった。


 ……ついに、完全に、生きた地面に戻ってきた。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……!」


 泥ではないところに足をつき、緑色の輝きを止めると、ものすごい足の震えが始まって、ガクガクして、まったく力が入らなくなって、その場にへたりこんだ。


 レンカもまた、双剣を取り落とし、こちらによろめきながらやってくると、カルナリアと同じように手足を震わせて崩れ落ちた。


「よくやってくれた。がんばったな。ありがとう」


 ファラを横たえた後、フィンは二人に、優しく言ってくれた。





【後書き】

突然の、想定外の、救難活動。レンカをすごいと言っているカルナリアだが、自分もものすごいことをかなりやっていることには気づいていない。また強く願っていた『自分自身で何かをする』ことも達成しているのだがそれも気づいていない。安堵し、また消耗し尽くしてそれどころではなかったのだった。次回、第133話「死魔法始末」。


【解説】

全力でぶちかませばここまでのことができるのなら、遠方から狙えばフィンでも誰でも倒せるのではないかと思うのは当然ですが、その前段階でカルナリアが感じとっていた通り魔力のとんでもない異様な動きが発生するので、魔導師なり感知の魔道具なりを持っている相手には必ず見抜かれ、逃げられるか防がれるか、発動の寸前で妨害されます。

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