134 洗浄
ほとんどの者が倒れ、身を丸め、泣きじゃくり、うめいている。
案内人たちも、それぞれ身を寄せ合ってへたりこんでおり。
亜馬は、暴れたらしく、あちこちにばらばらに。
獣人たちは、気絶していた。牛の獣人たちも。
「みなさん! しっかりしてください! もう大丈夫です!」
カルナリアは声を張った。
明るく、強い声を投げかけた。
とっさのことで、王女の地が出た。
大勢の人々を従える者の、力ある声だった。
あちこちで人が動きだした。
「ゾルカンさん! 動ける人、来て下さい!」
「お、おう……」
血の気のない髭もじゃと、ありがたいことにエンフが、比較的ましな状態で立っていて、ふらふらしつつも近づいてきてくれた。
「詳しいことは後で話しますが、怖いことはもう終わりました! もう安全です! みなさんを落ちつかせてください! それから、山の、地形とか山崩れに詳しい人はいらっしゃいませんか? エンフさんと、その人に、来てほしいんです!」
「……わかった!」
ゾルカンの目にみるみる力がよみがえってきた。
さすがは、この集団の
「おう、お前ら! しゃんとしろしゃんと! もう何もねえぞ! 大丈夫だ! 立て! 荷物を確認しろ! 点呼! 怪我したやついるか!?」
腹に響く大声が飛び、聞き慣れた叱咤に、案内人たちが生気を取り戻していった。
「あのすごい怖さはもう来ませんが、ここが崩れるかもしれません。みなさんを、すぐ動けるようにしてください!」
「なんだとぉ!? ……わかった!」
ゾルカンは、判断をひとつ間違えると大勢があっさり死ぬ、恐るべきグライルを行き来する者たちの長である。カルナリアの目を真剣に見下ろし、すぐに動いてくれた。
案内人をふたり指名し、獣人バウワウも呼びつけ、エンフと、ゾルカン本人も付いてきて雨中に出た。
客がいなければ案内人たちの動きは速い。レンカは言うまでもない。『流星』を手放したとはいえ、カルナリアも自分の荷物の側に置いておいた杖を取ってきて両手で使い、それなりに速く斜面を降りてゆくことができた。
何よりフィンがその先でひとり待っているのだ。
雨の中を連れ立って、目的の場所へ到着する。
荷物、ぼろ布の円錐、布をかぶせられた女体。
だがそこでバウワウが、フィンに対して、豹獣人ギャオルのように毛を激しく逆立ててうなりをあげた。
ぼろ布にこびりついた汚泥のせいか。
世界の汚物と言われるほどひどいものの。
「薬は飲ませた。体を
「あ、ああ……」
事情を理解したエンフが、レンカを助手に、その作業を始める。
フィンはゾルカンたちを連れて、あの死の泥空間の方へ行った。
泥の性質の説明は後回しにし、とにかくこうなって、山のかなりの部分が泥になって雨水を含んで流動し始めていること、あの岩屋根とこれからの道がどうなるかを判断してほしいと告げる。
「こりゃあ…………なんてこった…………」
すさまじい光景を前に血の気を失いながらも、山の男たちは周囲を見て回り始めた。
「どうだ」
そちらはまかせて、フィンはファラのところへ戻る。
ファラは、とりあえず最低限の服は着せられて、肌の汚泥もおおむね
レンカがかたわらについている。
「……起きろ」
フィンは、指でファラの額を弾いた。
かなり容赦なく。
汚泥がついても気にせず。むしろなすりつけるように。
「ん……」
「ファラ! おい、起きろよ! オレだ、レンカだ!」
「レンカちゃん……?」
寝ぼけた、色香あふれるまなざしが、メガネの下に現れた。
「さっさと起きろ」
一切の容赦なく、フィンはファラの胸のふくらみを鷲づかみにした。
胸を包み隠す布の上からではあったが、鉤爪状の指が食いこみ、激しく形が変わった。
もぎとるなら自分にも手伝わせてほしいとカルナリアはちらりと思った。かなり頑張ったのでその権利はあるはずだ。
「ぐぎゃああっ! ひゃ!? ひあっ!?」
フィンを認識して仰天、その傍らのカルナリアにも気づいてびっくり、エンフを見て、まわりを見回し――。
顔に付着している汚泥に気づいたか、嫌悪の顔を浮かべ、手に淡い光を――。
「お前は、いきなり魔力を暴走させ、全員を殺しかけた。わかっているか」
フィンが、殺気を放ち、身構えた。
剣の鞘が布の後ろに出た。
魔法を使おうとしたファラが、あらゆる動きをぴたりと止める。
その顔が恐怖に引きつる。
「え、あ、あの、いや、えっと………………ああ、またやっちゃったのかあ……って、ひぃっ! すんませんっ!」
「どんな魔法を使ったか、理解しているか。まだやりたいか。先ほどの治療費として一度は生かしておいたが、私も、この子たちも、ものすごく苦労させられた。次は絶対にない」
何もしていないカルナリアですら這いつくばってとにかく命乞いをしたくなる、凄まじい恐怖、殺気、鬼気とでも言うべきものがフィンから突き刺さってくる。
レンカが胸を抑えてくずおれた。腰がびくんびくんと震えていた。失禁したのは間違いない。雨の中なのでひどい状態はあまり目立たずにすんでいる。
「や、その、えっと…………ひゃ、わ、わかった、うん、わかりましたっ、ごめんなさいっ、もうっ、やらないれしゅっ!」
すべてを思い出し、理解したらしいファラは、雨滴どころではないものすごい汗の珠を満面に噴き出して、飛び起き、半裸の姿でフィンに対して這いつくばり、完全降服した。
「薬を飲ませたから、魔法は使えるはずだ。このろくでもない泥を、私や、この子たちのも、きれいに落とせ」
「はいっ、ただちにっ!」
ファラは裸の腕を左右に大きく広げ、わずかに布を巻かれただけの豊満なふくらみを世界に差し出すようにして、薄く目を閉じ――。
その体内のみならず、周囲からも、魔力が湧いてきて、集まってきて、渦を巻いた。
カルナリアにはそれが温かく、優しく、美しい色に見えた。
魔力は、水になった。
モンリークを治療する時のものとは全然違う。
あの汚泥、究極の汚物と言われたそれと正反対の、生命力に満ちた、いのちそのものであるような水だった。
ファラの胸の前に出現したそれが、ぐんぐん大きさを増して、人が入れるほどの球体になる。
「中に……」
最大限に集中しているのだろう、それだけ言う。
「お前たちから」
フィンに言われて、カルナリアはレンカを助け起こし、肩を貸して、息を止めて水球に突入した。
完全な水没ということで、エラルモ河で舟が砕けた時のことを思い出したが――あの時のようにはならなかった。
(うわあ……!)
水質のいい温泉に浸かった時のように、全てが温かさに包まれた。
幸福感が流れこんでくる。
いやなもの、こわいものが、全て流れ落ち、消えてゆく。
目を開いても、痛むことはまったくなく、むしろものがずっと良く、明るく、美しく見えた。
自分にこびりついていた汚泥が、この生命の水と反応して、消えてゆく。
じっとしているだけではいけないと、靴や手についていた汚泥をぬぐい、レンカのそれも落としてやって――。
ひととおり落ちたと思ったので、足を動かし、水球から出て息をつく。
「その布」
ファラを拭った、汚泥のついた布。
案内人たちの荷物であり、捨てずにすむならその方がいい。
カルナリアは、山になっていたそれを持ち上げて、水球に突っこんだ。
「回すっす……」
ファラが水球内部の水を動かしたようで、布はカルナリアの手を離れてぐるぐると回転し始めた。
こびりついていた汚泥が、薄れ、離れ、消えてゆく。
水球から取り出した。
雨滴や多少の泥はついてしまうが、通常の汚れなら何とでもなる。
「自分を洗え」
言われてファラは、自分自身を水球に進入させた。
水の球体の中で、ファラの髪や、わずかな衣服がゆらめいて、汚れが消え去り、ほとんど裸の、まるで美女が生まれ出る神話の光景のようになった。
ファラが後退し、全身からいのちの水をしたたらせる、たまらない姿となったところで、いよいよ最後。
「覚悟はいいな」
妙なことをフィンが言い、ぼろ布が接近してきた。
「ふぅぅ………………ん。いいっす」
大きく息を吸い、恐らく気合いもこめて、新たに魔力を注ぎこみ水球を一回り大きくして、ファラは言った。
ぼろ布が、水球に踏みこんだ。
「ぐあっ!」
ファラが苦鳴をあげた。
水球が歪み、乱れ、あちこちが不安定に揺れ動く。
「ファラ!」
「ファラさん!」
「カ、カルちゃん、来て……私に、どこでもいいから、触って!」
何を求められているのかはわからないまま、後ろからファラにしがみついた。
ファラはフィンのような長身ではない。
あばらの上あたりに回した腕に、豊かなものが乗っかってきた。
(わっ! これって、私の魔力……!?)
体内を魔力が動いて、ファラへ流れこんでゆくのがわかった。
魔力自体はそれなりにあるが、動かして外部に何らかの影響を及ぼす能力、すなわち魔法を使う才能はないと言われていたカルナリアにとって、初めての感覚だった。
これが、魔導師の感覚、魔法を使う感覚なのか。
そして同時に、ファラが苦鳴をあげた理由も感じてしまった。
あの恐怖、あの死の感覚が来た。
間違いなく、フィンから。
下半身にべったりこびりついた汚泥だけではなく。
死の魔法を防いだという、恐らくはあの剣。
オーバンの時は、呪いを返したという話だったが――ファラがぶちまけた死の魔法を、同じように返したのだったら、ファラは生きてはいまい。
ということは、フィンに襲いかかってきた死の魔法を、どこかへやった。
吸収したのではないか、という直感をおぼえた。
ファラがそう感じていることをカルナリアも感じ取った。
その、死の力を吸収したものと、生の力に満ちた水とが、ぶつかり合っている。
ぶつかり、消滅していっている。
「ぐ…………ぐ…………あとちょっと…………!」
見守るうちにも、円錐形の頂点まで包んでいた水球が、みるみるかさを減らしていって、上の方が外に出て、さらに縮み、顔、胸だろうあたりより下へ行き――。
球体から、たわんだ平べったい円盤のようになって、下半身や足回りを入念に渦巻き洗い、さらに少なく、小さくなっていった。
「おしまいっ!」
その言葉と共に、カルナリアからの魔力の流れも止まって、足首あたりに残った最後の水球が、パチンと弾けて、流れ落ちていった。
あとはもう、ただの雨水がしたたるばかり。
「ご苦労」
たっぷりと水滴を垂らしつつ、フィンは言った。
ものすごく偉そうだが、今のフィンにはそう振る舞う資格がある。
「乾かせ」
「はいっす……」
フラフラしてきているが、ファラは新しい魔法で、フィンと、自分自身およびまだしがみついたままのカルナリア、レンカや布まで、温風をまとわりつかせて一気に乾かしてくれた。
この女性にはどこまでの力があるのか、そら恐ろしくもなった。
カルナリア付きだった王宮魔導師どころではない。
父王に付いていた「大魔導師」の称号を持つ四人のひとり、王国筆頭魔導師すらも上回るのではないか。
ともあれ、マントの中の水気がなくなってくれたのは、すばらしく快適だった。
「これで、本当に、終わりっす……」
「お疲れ様でした」
カルナリアはねぎらい、よろめくファラをしっかり支えた。
回した腕の手の平がいつの間にか上を向き、重たく実るものをしっかり受け止めていた。
「よくやった」
フィンが近づいてくると、手を出し、ファラの唇に何かを押しこむ。
「回復薬はさすがにもうない。栄養をとっておけ」
その言葉で、あの芋虫だとわかった。
親切なのか制裁なのかはよくわからない。
「ひぇぇぇ……」
情けない声をあげつつ、ファラはそれを何とか
「……あ、けっこう、いけるっす……」
これはこれで、強い。
エンフがファラを支える役を引き受けてくれて、肩を貸して斜面を登ってゆく。
カルナリアはそれを見上げた。
「………………」
手の平をわきわきさせる。
もちろん、ファラのものの感触を
強力な魔法行使の補助として、自分の魔力を吸い出され、使われたことはわかっていた。
だが、枯渇したとか、減って体調がおかしいとか、そういう感じは特にしない。
(あの感覚……!)
体内を魔力が動く、あれを思い出し、再現しようとしてみた。
残念ながら動かない――が。
ほんのわずかだけ、今までと違う感じがしたような。
これをつきつめれば、今までと違う自分になれるのではないか。
「戻るぞ」
フィンに言われると、すぐ体が動いて、坂を上り始めた。
荷物を回収しに来たのだろう案内人たちとすれ違った。
彼らは一様に――雨の中のために存在がわかるのだろう、フィンに対して、びくっとし、大きく避けていった。
岩屋根の下の、床が濡れていない場所に入りこみ、カルナリアは深々と息をついた。
ようやく、人間の世界に戻ってきた感じがする。
先に戻っていたゾルカンが、みなを呼び集め、山の形が大きく変わったことを説明していた。
この岩場は大丈夫。なのでまだここで休む。地響きは続くだろうが、我慢すること。
「それから…………言いたいことがあるそうだ」
「あれ私のせいっす。怖い思いさせて、ごめんなさいっす」
ファラが、まだエンフの肩を借りながらだが、進み出て言った。
「時々、やっちゃうんすよ……ブチ切れて、バーッて、全部吹っ飛ばすの。
……だから、私を雇うと、いつまたやっちゃうか、わからないっすよ?」
モンリークや貴族たち、先ほど押し寄せてきた商人たちなどを、薄笑いを浮かべて見回す。
狙った演出のように、タイミングよく、ズズズと地鳴りがして、岩床が揺れた。
ファラを狙っていた者たちは、一様に、真っ青になり全力で否定の仕草をした。
致命的な欠陥があることを示したファラは、もう狙われることはないだろう。
――そして。
「キシャアアアアアアアアッ」
豹獣人ギャオルが激しく叫び。
「グルルルルルルル……!」
犬獣人、ガンダも威嚇のうなりを上げ始めた。
ボフッ、ブモォッと、牛獣人のふたりも野太くうめく。
獣人たち全員が、ファラではない、その向こうを見て、驚愕し、恐怖し、必死に威嚇していた。
そこには、ぼろ布――フィンが入りこんできていて。
その円錐形から、あの恐怖、あの戦慄の感覚が、濃厚に漂ってきたのだった…………!
【後書き】
フィン、大激怒。あの場の全員が滅されかけた上に自分が苦労、苦闘、カルナリアたちが来てくれなければ脱出もできずに何日もひたすら汚い泥の中だった。カルナリアがいるからこの程度ですませているので、もしいなかったらファラに一生ものの恐怖を植えつけていたかもしれない。ファラを酷使させているのは鬱憤晴らしの面もある。
そして、危機を生み出した者と原因を作った者とみなを救った者は、人々にそれぞれどう受け止められるか。次回、第135話「後遺症」。
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