034 野獣


「…………」


 カルナリアは固まった。


 動けない――というより何も考えられない。


 見たもの、聞いたもの、いだもの、そこにいるのこと、すべてを頭が理解してくれない。


 巨大な体躯たいくがこちらに向く。目が合う。カルナリアの手指よりも長く太そうな牙の生えた口。それよりもっと太く鋭い爪を備えた前脚。


 王宮にあった剥製はくせいよりは小さいはず。

 尾は短く、先端に毒針のついた長いものを自在に動かして攻撃してくるという種類ではない。


 だが、あれはただの物。絶対に動かない。


 これは、生きている。

 熱い。くさい。猛々しい。

 生きていて、怒っていて、こちらを値踏みし――と判断した。そのことだけははっきりわかった。


「ひ……!」


「っ!」


 突如、視界の端からが来た。


 何か、としか認識できない。魔力の動きを察知しただけ。しかもものすごい速さ。


 ごつっ。何かが何かにぶつかる音。


「ギャウッ!」

「こっちだ!」


 今度こそまぎれもないフィンの声がして、地面に大きめの平べったい石がひとつ落ち、ひらりとぼろ布がおどり、靴が見えて、それで認識阻害は破れて――。


「ウガアアアアァァァァァァァァァァァ!」


 凄絶な怒号が目の前の巨体から放たれた。

 ああ、フィンの鳴き真似は本当にそっくりだったんだ――とカルナリアはなぜかそっちに感心した。


 ぼろ布が逃げてゆく。

 巨体が走り出す。

 速い。

 地響きと共に毛皮が目の前から消える。

 たちまち遠ざかってゆく。


「走る準備をしておけ!」


 遠くからフィンの声がした。


 カルナリアの体がびくっとなった。

 硬直していた手足がようやくゆるんでくる。


(走る…………!)


 怪我はないが、猛烈な回転と、何度もぶつかった衝撃の余韻よいんが全身に残っていて、少し吐き気をおぼえる。

 だが起き上がれないほどではない。

 起き上がり、息を整え、足に力を……。


「…………」


 ようやく、何が起きたのかわかるようになってきた。


 自分を襲おうとしていた熊の鼻面はなづらに、斜面を駆け下りてきた勢いのまま、フィンが石を叩きつけたのだ。


 それで熊の狙いがフィンに移り――フィンが逃げたので、そちらを追った。

 獣というのは逃げるものを追う習性があることは聞いたことがある。そうやってカルナリアを守ってくれた。


 だが、バールは巨体の割に走るのも速いらしい。

 実際に相当の速度でフィンを追っていった。


 逃げきれるのか……!?


(『流星』なら……少しだけ使えると……でも、その場合、わたくしが取り残されることに……!?)


 一瞬、その想像が頭をよぎって総毛立った……が。


「走れ! 下へ! 絶対に転ぶな!」


 声が、急速に近づいてきた。


 ぼろぼろが戻ってくる。どこかで方向を変えたのだろう。


 だがその背後から毛皮のかたまりも、太いうなりを上げつつ追ってくる。


 カルナリアは弾かれたように駆け出し、細い木々がまばらに立つ斜面に飛びこんだ。


 道と言えるようなものはないが、灌木かんぼくも草も少なく、見通しはよく、傾斜もそれほどではない。


 木の根に足を取られないように、歩幅は狭く、ちょこちょこと回転させる走り方でできるだけ速く……!


 だが背後の地響きはみるみる近づいてきて。


ぞ!」


 いきなりすぐ横から声がして、腰に腕が巻かれ、持ち上げられた。


 加速する。フィンに持たれ、運ばれている。


「走りづらい! 登れ! くっつけ!」


 即座に理解して、カルナリアは体をねじり腕を伸ばしぼろ布の首だろうところを捕まえてしがみつき、自分の体を持ち上げ脚をからめて、の態勢になった。


 後から思い返した際、このときの自分がどうやってフィンの背面に移動できたのか、明確には思い出すことができなかったし、再現できる気もしなかったのだが。


 ともあれ、できた。


 へばりつき、しがみついた。


 その間、フィンはほとんど上下動をしない、あのすべるような動きにしてくれていたようだった。


 しかしその分、速度を犠牲にした。

 バールがすぐそこに。


 ゴフゴフ言う怒気混じりの声が、お尻のあたりからする。

 実際に何かがカルナリアのお尻に触れた。鼻面だったのかもしれない。


「ひぃぃぃぃ! すぐ後ろ! 後ろに来てますぅぅぅ!」


「よし、これなら何とか」


 カルナリアのパニックとは逆に、フィンの声から切迫したものがなくなっていた。


「しっかりつかまっていろ。使ぞ」


「!」


 稲妻のように理解した。『流星』だ。手足に全力をこめる。加速で置いていかれると落ちる。落ちると……。


「落ちるなよ。命が無駄に散るぞ」


 魔力が動いた。下から湧き上がってきてぼろ布の中に充満。

 次の瞬間――。


「ぐえっ!」


 周囲の光景が一気に後方へ流れた。

 急加速。

 カルナリアの体は耐えた――だが首が、後ろに折れた。


 風。


 疾風。暴風。


 フードがめくれる。髪がめちゃくちゃに。カルナリアの頬肉も激しく波打った。


 背後のゴフゴフ言う息づかいが遠ざかってゆく。


「……よし」


「あう…………おう…………はう…………」


 速度がゆるみ、カルナリアはかろうじて首を前に持っていくことができた。


「あれは、下りは苦手な生き物だ。道を間違えない限り、このまま逃げきれるだろう」


 こわごわ振り向く。

 枯れ草色の、ともすれば山にまぎれてしまう毛皮が――まだうごめいて、こちらを追ってきていた。


 だが距離は十分にある。

『流星』も、使ったのは恐らく数歩分だけ、フィンの落ちつきぶりからしてまだ何回かはいけるのだろうから、もう大丈夫。


 心底ほっとしながら、カルナリアは前を向いた。

 今ので痛めたのか、首に違和感が……。


「ぴっ!」


 額に衝撃を受けて、火花が散った。


 何もわからなくなった。







 ――気がつくと、水音がした。


…………!)


 川べりにいた。

 つくづく渓流に縁があるとぼんやり考える。


 木々。岩。水音。狭い空。

 少し湿った空気。


 頭が回らない中、首輪を確かめる。

 ある。よかった。


「痛っ!」


 違和感をおぼえて額に手をやった途端に、痛みに襲われた。

 異様なふくらみ。

 すなわち、


 痛みで意識がはっきりして、まず自分の体を確かめた。


 仰向けに横たわっている。額のこぶ以外に怪我はない。体もあまり痛まない。手足すべて、動かせる。

 服も無事。荷物は、中のものがいくつか潰れたかもしれないが、背負ったまま。腰にレントの短剣もちゃんとある。


 それから記憶を探る。


 フィンに背負われ、熊から逃げていて、その途中で何かが起きた。


 額のこぶ。これは、もしかして、木の枝か何かにぶつかって?


 ではこの場所は――。


「!」


 フッ、と風が吹いて。


 濃厚な――あの獣臭と。

 それとは別な、もっといやな、本能が嫌悪する臭い……。


 がした。


「ヒィッ!!」


 飛び起き、見た。


 渓流のほとりに、半ば水中に体を突っこんでいる、毛皮のかたまり


 そしてそれとカルナリアの間に――。


 べったりと地面に広がる、魔力を感じる妙な場所。


 すなわち、認識阻害の効力を持った布が…………高さを持たず、広がって……。


(た…………倒れ…………て…………!)


 血の臭い。

 敵。

 自分を守ってくれる者が、倒れて。


 悪夢、ふたたび。


「い………………いやあぁぁぁ…………!」




「…………うるさい」


 もぞりと、ぼろ布が動いた。




【後書き】

カルナリアはパニックで気づいていないが、きわめて貴重な、フィンのガチの全力疾走。この先でもほとんど見られない。そんな真似をご主人様にさせた奴隷がどうなるのか。次回、第35話「制裁」。

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