018 凌辱的治療


 ぬるり。

 ぬる。ぬる。ぬるぬるぬる。


 やわらかな、粘っこい感覚が、素肌の上を動き回る。


 指一本、まぶたすら動かせなくなった体の、背面のあちこちにそれが来る。


 何かを塗られている。


 手、なのだろう。

 ぼろぼろの手なのか。

 あの怪人の、ぼろ布の中に人の体があったのか。


 とにかく、その手は――とてつもなく、気持ちよかった。


 岩にぶつけてしまった肩。転がり落ちて何度も打った背中。とがった石か何かで傷ついただろう場所がいくつも。そういう、痛かったところに塗られる。痛みが薄れる。そこが熱くなる。快感が広がる。


 だがそれは、最初のうちだけで。


っ!)


 指一本、まぶたすら動かせず――当然、声は出せず……呼吸すらできなくなっていた。


 今の自分は、脈拍すら止まっているのではないか?

 快感の向こうから息苦しさがやってきて、さらにその向こうに完全な闇が迫り死の恐怖をおぼえたところで、首の後ろに触れられて、体が動くようになった。


「ふおおぉぉぉぉ……!」


 音を立てて息を吸い、吐く。

 目をパチパチ。全身に一気に汗が噴き出す。

 うつ伏せのまま、ぐねぐね、悶える。


「はぁ、はぁ、はぁ、はぁ……」

「強すぎたか」


 けだるげな声に続いて、また首の後ろに触れられた。


 ――今度は、まばたき、呼吸はできた。

 だが手足はまったく動かせない、という状態になった。


 同時にカルナリアは、体を侵食するも感じ取った。

 いまさら気づいた。魔法、もしくは魔法具だ。それで体の自由を奪われている。


 ぼろ布、サイコロに続き、三つ目。個人が三つも所有しているというのは異常だ。しかも効果が恐ろしい。


「息は、できるな」

「ひゃい…………あの……いったい……なにを……」

「後だ」


 これはまず間違いなく、治療だ。

 傷ついたところに薬を塗られている。塗ってくれている。

 それならあらがう必要はない。


 …………ないのだけれど!


「んっ……!」


 じんじんと、体の内側から熱が芽生えてきた。

 塗られたもののせいだろう。


 風邪を引いた時の発熱とはまったく違う。苦しくない。ただただ熱い。今まで経験したことのない、内側からの異様な火照り。身悶えしたくなる、しかし体は動かせない。動けないままにあぶられる。どこも動かせないのに、勝手にピクピク震え始める。汗まみれになる。

 薬だけではない。

 この人物の手だ。ぬるりとしたものを塗りつけてくるこの手が、とてつもなく気持ちいい。体を揉んでもらったことは幾度もあるが、これは、この手は、王宮勤めの者たちの誰よりもうまい、巧み、どう言えばいいのか、カルナリアの語彙ごいにない妙な感覚をもたらしてくる!


 手が、触れられてはいけないところに来た。

 山道を這い下る時に転んで打ったお尻。ずきずき痛んでいたてい骨。そのあたりに巧みな手つきと共にが塗りつけられる。


「…………!」


 腰全体が、燃えるようになった。

 カルナリアは死に物狂いで声をこらえた。ここで声を漏らすと、王女としてありえない、許されない声になってしまうと本能でわかった。


 歯を食いしばるカルナリアの、脚に手が移動する。


 これも何度も打ったふともも。

 ふくらはぎから、足に来る。

 膝下を持ち上げられ、傷だらけの素足を、温かい何かに包みこまれた。

 手が動いている。自分の肌の上を。それがとにかく妙な感覚を流しこんでくる。腰がやたらと熱くなる先ほどの感覚がさらに強まる。


「ひぅ、ひゃう、ひぇぇ」


 だめだった。抑えられなかった。

 どうしようもなく声が漏れ出た。


 足の裏。

 くすぐったい。

 とてつもなくくすぐったいが、ただくすぐられているのと違い、なぜか口の中をかき回されているような感覚が芽生え、よだれがあふれてしまう。


 足指の間にぬるぬるが侵入してきた。


 その感触となるともう完全に未知の世界、声帯もついに決壊してしまう。


「はひ、ひ、ひ、ひぃぃ……あひゃぁぁぁぁぁっ!」


 両足とも指の隙間までぬるぬるを塗りたくられたカルナリアは、体全体を巨大な手で絞られきったようになって、うめきながらぐったりした。


 体をひっくり返される。

 全裸のままそうされたのに、麻痺させられているからというだけではなく、抵抗する気力が一切失われていて、隠すどころではなくすべてをさらけ出したままぐったりするだけ。


 自分をそのようにした相手の姿を見る前に、額に触れられた。


 手の平だろう心地よい感触にまぶたを押さえられると、そのまま両目とも閉じた状態になって、もう開くことができない。


 何も見えないまま、今度は体の前面を、ぬるぬるが這い回った。


 下からだった。

 転んですりむき、小石が食いこんでいた膝が、熱で溶かされる。


 すでに溶け落ちている腰から、脇腹に。

 真っ暗な山道で、転んだ時に、突き出ていた太い木の根に腹から落ちて、胃の中身を全てぶちまけた。その時に痛めた肋骨かどこかも、熱で溶かされ、癒やされる。


 前面からの熱、火照り――気持ちよさは、背面よりも大きかった。


 あちこちぶつけてあざ模様になっていた腕から、手に来た。

 爪がはがれたところからの熱と火照りはひどく強かった。


 もう自制も何もなくなって、おかしな声を何度も何度も漏らし全身をどうしようもなく震わせ続けた後――。


 顔面に触れられた。


 それまでは感じなかった、甘い香りがした。


 薬の種類を変えたのか。

 不思議な懐かしさをおぼえる香りだった。


 体のぬるぬる以上の、濃厚な何かが塗りつけられはじめた。


(魔法の薬……!?)


 それまではひたすら悶えていたので気がつかなかったが。

 塗られるそれにも、魔力を感じた。


 通常の塗り薬に、治癒の魔力をこめたもの。

 王宮ですら、めったに使われることがない。少なくとも自分が忍びこんで訓練風景を見物した騎士団の者たちですら、稽古で痛んだところに塗っていたのは普通の薬で、魔法薬はよほどの重傷でなければ持ち出されることはなかった。


 とはいえ、さすがにもう、それほど驚きはしなかった。


 大体わかってきた。この謎の人物については、驚くだけ無駄だ。


 打ったあご、切れた唇の端、腫れ上がった頬に、次々と塗りつけられる。


 目の周りに、指の腹とおぼしき弾力あるものが触れて、閉じたままのまぶたの周りをなぞった。優しい動きだった。

 殴られて腫れているところに、甘い魔力が染みこんでくる。


 レントが自分を殴った時のことがよみがえった。

 痛かったが、レントは自分よりもずっと痛そうな顔をしていた。

 痛みに泣く自分よりも、心の中でたくさん泣いていた。


 自分のためにそうしてくれた、忠誠そのものの痛みが、薄れ、遠ざかってゆく。

 レントのつらそうな泣き顔も、安らいだものに変わっていった。


(姫様を、頼みます)

(めんどくさいが、


 言い交わす声が聞こえたような気がしたが、よくわからないままに、心地よさに何もかも溶け崩れて、ついに意識そのものが溶け落ちた。




「………………ふにゃあ」


「起きろ」


 けだるげな声で、とろとろの世界から引き戻された。


 まだ明るい午後の空。緑。風。水音。

 山の中で、横たわっている自分。


 視界の隅に、が生えていた。

 やはり、岩の上になんとかしがみついている枯れ草の茂みのようにしか見えない。


 ぼやけていた意識がはっきりしてくる。

 体が動く。顔の向きを変えられる。手足に力が入る。

 それほど長く失神していたわけではないようだ。


「飲め」


 水筒だろう、細長い容器が顔の横に置いてあった。

 身を起こしてはじめて、自分が一糸まとわぬ姿であることに気がついた。

 先ほどまでされていたことを思い出す。体の激しい火照りと妙な感覚とみっともない反応の記憶もよみがえり、顔が燃えた。


「い…………いただきます……」


 ただの水だった。

 しかしよく冷えていて、まだ火照りの残る、汗まみれの体に、たまらなく染みこむ。


「んぐっ、ごくっ、ごくっ、ごくっ……!」


 止められず、大きく喉を動かし全て飲み干してしまった。


「洗え」


 言われて、少し考えて――カルナリアは再び「湯船」に身を沈めた。


 あの釣り竿とサイコロは見当たらない。失神している間に回収されたのか。

 熱源を失ったお湯は、先ほどよりぬるくなっていたが、今はそれがむしろ心地よい。


 何かが投げこまれてきた。乾燥させた、木の実か草の穂のような細長いもの。スポンジ状のそれはお湯に浮きくるくる回った。

 使えということなのだろう。それで肌をこする。少し硬め。全身の汗、塗りつけられたぬるぬるが落ちてゆく。ごしごし擦るとたまらなく気持ちいい。


 体のあちこちにあった痛みが、消えていた。


(治ってる…………!)


 あらゆる部分の痛みがなくなり、あざは消え、れていたところも元通り。

 はがれていた爪すら、元の状態に戻っていた。


 魔法薬の効果だ。

 治癒だけでなく、再生の魔法も混ざっている。


 効果の高いものは折れた骨がたちまち治る。

 最高級のものなら、切断された首や貫かれた心臓すら、やられた直後ならくっつけて治せるという。さすがにカルナリアもそんな現場に居合わせたことはないが。


 しかしそんな効力のあるものは、きわめて高価だ。当たり前のこと。

 魔法のこめられていない通常の薬ですら、世の中では貴重品。

 魔法薬となると貴族しか手に入れられないのが当たり前。


 それをこんなに大量に。


 ――自分は王女なのだから当然、と、これまでのカルナリアなら気にしなかっただろう。


 しかし今は違う。

 カルナリアはわずかの間に多くのことを学んでいる。


 ここは王宮ではなく、田舎の山の中。

 相手はこちらを奴隷――ただの薄汚れた小娘としか思っていないはず。


 そんな相手に、貴重きわまりない魔法薬を、たっぷりと。

 ありえない。

 理解できない。


 ――しかし、それはそれとして。


「あの…………あ、ありがとう、ございました……治してくれて……!」


 カルナリアは湯舟の中からを見上げて言った。


 どういう意図であれ、どれほど異常であれ、してもらったことには感謝しなければならない。


 見ず知らずの他人を助けるという行為が、どれほどありがたいことか、どれほど崇高なことなのか、今のカルナリアは知っているのだから。


「もう、ぜんぜん、痛くないです……それに、体も、きれいになりました、ありがとうございます!」


「……使い切ったからな。もう怪我はするなよ」


「え……」


 手持ちの魔法薬を全て使い切る。

 これもありえない。自分のために残しておくものだろう。


 これはもしかして、カルナリアを王女と見抜いているのではないだろうか。

 だからこそ、これほどの治療を。


 だがそれなら、どうしてこんなにな対応をするのか。


 まったくわからないが、とりあえず、魔法薬だとわかっている反応はしないように気をつけた。


「だいじなものを、たくさん……他にもいろいろ……ごめんなさい」


「構わない。薬がある時にお前が来た。だから使った。それだけだ。いちいち相手を選んだり残りを考えたりするのはめんどくさい」


「それは……」


 その考え方はひどくおかしいと思ったが、奴隷が言うことではないので飲みこんだ。


「それに、早めにお前を治しておく必要もあったからな」


「え……?」


「いずれわかる。そろそろ上がれ」


「は、はい……」


 湯滴をしたたらせながら岩の上に這い登る。

 まだ熱い裸身に山の風を浴びるのは、すばらしい心地だった。


 先ほど脱いだ自分の服のところへ行く。


(あ……)


 いまさらながら、レントの教えを思い出した。

 持ち物から目を離してはならない。

 盗まれる。


 ――無事だった。

 衣服はもちろん、服の中の、小箱、エリーレアの身分証、レントの短剣などの宝物も。


 魔法具の驚きと風呂の心地よさで完全に頭から消えていた。

 ランダルが預け先に選び、自分を治療してくれたが、持ち逃げなどという真似をするはずもなかったが、それはそれ、レントの教えを忘れていたことを恥じる。

 これから先、何とかして西へ向かうのだから、こういうしくじりをしないように、警戒心をしっかり身につけなければならなかった。


 服の横に、体をくための布が用意されていた。

 清潔で、わずかに香草のにおいがする。


 これも、王女と知っていれば当然のことだが、奴隷相手にはおかしい。


「早く拭いて、着ろ。いい天気だが、風邪を引かれるとめんどくさい。拭くものを用意する方が楽だ」


 カルナリアの心を読んだように、ぼろぼろが言ってきた。


(…………ええと…………こういうこと?)


 この怪人物は、利害とか価格とか相手の身分とかではなく、めんどくさいか、楽か、それで行動を決めている、と。


 ……まったく理解できない。


 なまけ者、ぐうたら者にしても、おかしい。


 おかしいが――そうかもしれないと推測できるだけでも、少し気が楽になった。

 まったくわからないよりはいい。


 裸身を拭く。

 肌からいい匂いがするようになった。


 これまで着ていた古着の上下を身につけ、濡れた髪を手でまとめる。


「……


「なにか、いけなかったでしょうか」


「かぶりものがいるな。男が寄ってくる。めんどくさくなる」


「!」


 レントの拳。あれがなぜ自分の顔面に振るわれたか。


(どう装っても、美しすぎて、奴隷に見えないから)


 それを誤魔化すためだったのに、完全に治っているのなら……!


「着飾れば、貴族の令嬢で通るな。この国のと言っても信じる者がいそうだ」


「!!!」


 激しく動揺したカルナリアだったが、ぼろぼろはまったく気づいた様子もなく、それまで通りのけだるげな声音で。


「顔がいいのは、役に立つ時もあるにはあるが、面倒を呼びこむ方がずっと多いからなあ」


 と、言った。


「……あの、それは、ご自分も、お顔がよくて、そのようなご苦労を?」


 謎すぎる人物への好奇心から、ついカルナリアは訊ねてしまった。



 ぼろぼろは、さらりと答えた。


、であるらしい。私の顔を見た男は大抵おかしくなる。追いかけてくるようになる。狙ってくる。めんどくさい。だから見せないようにしている。怪しまれる方がまだ楽だ」


 カルナリアは絶句した。




【後書き】

目を閉じたままの人物の主観を描けるのは文章の利点。

動くのがきらい、何もしたくないなどとほざくぐうたら者が、絶世の美女であると自称する。本当なのか。何から何までわからない怪人と、これからぼろ小屋で一夜を過ごす。どのような夜になるのか。次回、第19話、「宝物庫」。

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