003 王女の奴隷落ち
夜明けと共に、怒声がぶつけられた。
「そっ、そのようなっ、そんなっ、姫様にっ、なんというっ……!」
「いけませんか?」
「当たり前です! 王女殿下を、どっ、どっ、どどっ、奴隷になど!」
「奴隷に化けていただくだけです。それが最も追っ手の目を逃れるのによい方法です」
レントの提案に、エリーレアは室温が上がるほどの憤怒を示した。
森の中にひっそりと建つ、丸木小屋である。
つくりはしっかりしており、寝台や水回りも整えられている。
近隣の村人によって維持され続けている、貴族専用の宿泊小屋だ。
他人に知られてはならない密会を行ったり、途中で人に見られてはならない秘密の任務を遂行する際などに利用するためのもの。
レントは主である騎士ガイアスの任務中に利用したことがあった。ガイアスも恐らくそれを想定してあの場所で王女を離脱させたのだろう。
昨晩、徒歩の王女とエリーレアを連れて、ひとまずそこに逃げこんだ。
疲れ果てている女性ふたりを休ませておいて、レントは一睡もせずに近所の村を回り、これからの逃避行に必要なものを調達してきた。
――盗んできたともいう。人目についてはならないので仕方なかった。引き替えに多めの金を置いてきたのがせめてもの
そして夜明け前。
起きてきた王女とエリーレアを前に、レントはまず自己紹介し、それから今後の方針を説明し――。
そこでエリーレアが憤激したのだ。
「繰り返します。この私、レント・サーディル・フメールとエリーレア様が夫婦。王女殿下は、我ら夫婦が使っている奴隷ということにいたします。子供というには我々の年齢に無理があります。また追っ手の意表もつけて、よいでしょう」
「許しません! 許せるわけがないでしょう! たかが六位が、四位の私と夫婦! 王族であらせられる姫様を奴隷になどと!」
普段なら平身低頭するしかない立場のレントだったが、今は一切引くつもりはなかった。
騎士ガイアスの声が耳の奥に残っている。
主はレントに、頼む、と言ったのだ。
豪勇、忠烈、そして誇り高い親衛騎士が、自らの手で王女を守ることができない悔しさに震えながら、従士にすぎない自分に言ったのだ。
「許すかどうかではありません。やつらに捕まるか、捕まらないかです。私は捕まらない方法としてこれを選びました。やつらはまず、道を外れて逃げる馬車がなかったか、その痕跡や目撃例を探すことでしょう。次には立派な護衛騎士を乗せて駆ける馬を見なかったか聞いて回るでしょう。まさか王女殿下が、自らの御足で、私のような者しか連れずに逃れているとは思いもよりますまい。ガイアス様の策は、ここまでは当たっております。ですがここからは、私と、お二方次第なのです」
レントは立ったまま、自分より背の高いエリーレアを真正面から見据えて言葉を重ねた。
威圧などしない。必要ない。自分は主、騎士ガイアスの最後の指示を忠実に遂行する人形だ。何を言われても気にしないし、どう思われても構わないので必要なことを言い、行う。それだけだ。
レントの想定では、そろそろ、王女を乗せていない馬車を追っ手が捕捉し――
主のことだ。逃げる馬車をひたすらに守り続け、これほどに激しく戦い守るからには必ずカルナリア王女が乗っていると思わせながら死んでいくことだろう。
「で……ですが……!」
「無事に逃れることができましたら、鞭打ちでも首つりでも斬首でも火あぶりでも、お好きなように処罰なさってください。ですがそれまでは、どれほど無礼でも理不尽に思えても、私の指示に従っていただきたいのです」
エリーレアは拳を硬く握りしめ、血管をたっぷり浮かせてブルブルガクガク身震いした。
倒れでもしたら、置いていくか。
いや実際、いつ金切り声をあげて誰かに聞きつけられるかわからないのだから、その前にこちらから――。
冷徹にレントは考えを巡らせ、次の行動に出ようとした、その時。
「エリー。落ちつきなさい」
カルナリア王女が言葉を発した。
引き合わされて以来、ここまで、一言も口をきかないでいたのだ。
その声は、気品に満ちていながら、少し舌っ足らずな幼さも残っていて、聞く者の荒ぶる気持ちを一瞬で溶かしてしまう魅力をたっぷりたたえている。
甘い声質でありながら、しっかりと、十二歳の王女は言った。
「今は、父様がお亡くなりになり、この国がひっくり返るかどうかの瀬戸際よ。わたくしは何としても西へ逃れ、レイマール兄様の元へたどりつかなければならないの。そのためになら、どのようなことでもするわ。捕らえられ、あれを奪われ、残酷に殺されるくらいなら、奴隷を装うくらいどうということもないでしょう」
「ですが! これは! こんなのは、あまりにも……!」
「騎士ガイアスは、わたくしが見出し、任命した親衛騎士よ。そのガイアスが、わたくしを託したのがこのレント。それなら、わたくしはレントの指示に従うわ」
「姫様……!」
ニコッと、カルナリア姫は相好を崩した。
相手の気持ちを解きほぐす、見事なタイミングの、そしてたまらなく愛らしいほほえみ。
「それにね、エリー。ガイアスがあなたを選んだのは、みんなの中でいちばん体力があるからよ。お勉強を放り出して逃げ回るわたくしを、最後まで追いかけ続けるのはいつもあなただったでしょう?」
自分が聞いていいのか、と思うようなことを王女は楽しげに口にした。
「今、この中で、わたくしがいちばん幼く、いちばん弱く、何も知らず、何もできないの。……そのわたくしを、あなたの特長を生かして、守ってくださるつもりはないのですか、エリーレア・センダル・ファウ・アルーラン?」
笑顔は最後に真顔になった。
エリーレアは、その場にひざまずいて頭を垂れた。
「…………は…………はい…………仰せのままに……」
「…………」
レントは無礼と知りつつ、思わずまじまじとカルナリア姫を見つめてしまった。
この過酷な逃避行に際しては、ぜいたくできらびやかなものしか知らないお姫様は、きわめて扱いの難しいお荷物になるだろうと覚悟していた。
どうやって自分の指示に従ってもらうか、どのように人目につかぬよう移動させるか、食事はどうするか、寝床は、衣服は……想像すればするほど、自分ひとりで王女を連れ歩くことの難しさに絶望的な気分に陥ったものだが。
このお方は――もしかすると、いけるかも。
「レント」
「はいっ」
本当に宝石のような、見つめているだけでその麗しい瞳に吸いこまれそうな目が、レントをしっかり見つめてきた。
「……よろしくお願いしますね。わたくしとエリーは、あなたの言うとおりにします。それがいちばん、うまくいくでしょうから」
エリーレアを静めたあの魅力的な微笑が、レントにも向けられた。
「は、はいっ!」
レントは舞い上がるような心地に襲われた。
「それに――これは先に言っておきます」
「はい……?」
「わたくし、自分だけで着替えはできますし、土の上に転がるのも、木に登るのも平気です。ここまで歩いてくるのも、ひどく揺れる馬車の中でじっとしているより何倍もましでした。それにどこでも眠ってしまえます。地べたで、木の根っこを枕にして寝てしまったこともあります。外国からのお客様を近くで見てみたくて、その従者たちにまぎれこんでみたこともあります。見よう見まねでまわりの人たちと同じように振る舞って、けっこうばれなかったものです。……ですから、あまり甘やかさないで大丈夫ですよ」
「…………」
返答のしようがなかった。
姫のおてんばぶりは、ある程度は噂話として聞いてはいた。王女を探して侍女たちが走り回っているところを見たこともあった。
だが本人の口から言われてしまうと、どう反応していいものかわからない。
目を白黒させるレントが面白いのか、カルナリアは笑みを深めた。
「それに、エリーのことも、嫌いにならないでくださいね。こんなことになって、不安で、気が立っているだけなのです。普段はもっと落ちついていて、さっきのように怒鳴るところ、わたくしも初めて見たのですよ」
エリーレアが両手で顔を覆い、うめきながら泣き出した。
そしてまた、一瞬だけ、カルナリアも目を潤ませた。
レントはハッとする。
この年端もいかぬ少女こそ、父が兄に殺されたばかりか、今まで暮らしていた場所も慣れ親しんだ物も周囲の人々も全てを失った上で、ほぼ初対面も同然の相手に身をゆだねるしかないという、自分よりもはるかに絶望的な状況に置かれているではないか。
その上で、笑顔を見せている。
必死に自分を抑えている。
泣き出さないように、感情が決壊しないように。
レントは胸に手をあて、深々と一礼した。
いま、主の命令は、自分自身の望みとなった。
何としても、この方を、バルカニアへ逃がしてみせる。
「それで――レント」
わずかに鼻をすすり、目を赤くし、しかしそれ以上表情を崩すことはなく、姫君は訊ねてきた。
「それがいちばんいいということなら、わたくしは奴隷の格好をするのもかまいませんけれど――実際には、どのようにするのですか?」
「ああ、はい、服装は今のままでかまいません。ですが――これを、お首に、巻いていただきたく」
レントが差し出したものを見て、横からエリーレアが奇声を発した。
「ああああぁぁぁ…………!」
めまいを起こしたか、よろめき、寝台に倒れこむ。
何の飾り気もない、金具すら使っていない、革の帯の片方の端に切れこみを入れ、もう片方の端をねじこむというだけのもの。
この国には奴隷という階級がある。
貴族の下の平民の、さらに下。
ひととは扱われず、ものとして所有され、売買され、働かされ、使用される存在。
その奴隷の証が、首輪だ。
首輪をつけている者は奴隷である。これはこのカラント王国では子供でも知っている常識だった。
レントはこれを、近くの村で使役されている農奴の小屋から盗んできた。そんなものを盗む者がいるとは誰も想像しないので、たやすいことだった。大人がつけていたものだが、調整すればカルナリアの細い首にも巻くことはできる。
「そ、そんな、姫様が、そんな……そんなものを……!」
「エリー。言ったでしょう、必要なことなら何でもするって。そうしなければ――あら?」
カルナリアは突然言葉を切り、目を細めた。
粗末な首輪を見つめる目つきが、好奇心から――
ぞっとするような気配が立ちのぼった。
「これは……………………そう…………わかりました」
低い声で言う。
真っ向から目をのぞきこまれた。
レントの満面が汗にまみれた。
「…………許します」
「あ…………ありがとうございます…………」
「何のことですか、姫様?」
「レントの手でわたくしにつけることを許す、という意味よ」
エリーレアを向いたカルナリアの表情には、もう鋭いものはなくなっていた。
「そんな! 私がいたします! 姫様のお肌に、男が触れるなど!」
「それじゃ、お願いね。替えはないのだから、丁寧に扱うのよ」
「このようなものを、姫様に……もっとましな……嘆かわしい……」
ぶつぶつ言いながら、エリーレアはカルナリアの首に粗末な革帯を巻き、首の後ろで切れ目に反対側の端をねじこんで固定した。
装着したカルナリアを見て、エリーレアは泣き崩れた。
「お、おいたわしや……王女殿下が、このような……」
「問題ないわ。もっときつくてもいいくらい」
平然と言いながら、カルナリアは細く麗しい指で、喉のところの革帯を何度も撫でさする。
「じゃあエリー、この小屋の中で、わたくし達が使えそうなものがないかどうか、探してもらえる? もうじきここを出るのだから、急いでね」
「は、はいっ!」
涙をぬぐいながらも、この小屋に居続けることは危険だということは理解しており、エリーレアは動きだし、隣の部屋へ出ていった。
カルナリアはレントに向き直る。
エリーレアを意図的に追い払ったことは、その真剣な顔つきから明らかだ。
カルナリアは自分の衣服の合わせ目から、細長い小箱を取りだした。
角が丸められている、しっかりしたつくりのそれは――国宝、『
いや。
「確かに…………
カルナリアは自分の喉をつついた。
先ほども撫でさすっていた場所。
形状としては小さな薄板にすぎない秘宝は今、そこ――粗末な、奴隷の首輪の中にあるのだった。
「お、おわかりになるのですか」
「わたくし、魔導師になる才能はありませんでしたけれど、魔力を感じ取ることはできるのです。この箱の中にはありません。ここに、はっきりと感じます」
レントは床に頭がつくほど深々と拝礼した。
疲労から深く眠りこんだカルナリア王女の胸元に手を差しいれ、その持ち物である小箱を取り出し、中身の国宝を持ち出し、奴隷の首輪に隠したのだ。
どのひとつをとっても斬首が当然の重罪だ。
「万死に値する罪であることは承知の上でございます」
「許す、と言ったでしょう?」
カルナリアは明るく言い――隣室に目を向けた。
「エリーには言わない方がいいのよね?」
「はっ……!」
カルナリアは理解している。
エリーレアに知らせた場合、彼女がはぐれて敵に捕らえられたら、『
知っている者は少ない方がいい。
王族はそういうことを教えられているのか。
騎士ガイアスが自分たちを逃がした時のやり口から学んだのか。
それとも生来の知恵か。
いずれにせよ――。
レントは確信を抱いた。
このお方ならば。
か細い一筋の糸だった脱出の道筋が、しっかりしたロープになったようにレントには感じられた。
そして、そのロープを確実にたどるために――。
「あともうひとつ、姫様にお許しいただきたいことがございます」
「あら、なあに?」
レントは身をかがめたままカルナリアに近づくと。
顔面をぶん殴った。
【後書き】
生き延びるために。そのために必要なことなら何でもする。しなければならない。逃げる者たちは全力を尽くす。
次回、第4話「ビルヴァの街にて」。残酷な描写あり。
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