第23話「妹は兄の寝顔を撮りたい」

 俺は瀬々里との益体もない話を打ち切って、シャワーを浴びて汗を流してから部屋に戻った。眠気が途端に襲いかかってくる。抗いがたい眠気に身を委ねるのも悪くないかと電灯のリモコンで消灯してからその辺にリモコンを放り投げて部屋のカーペットに寝転んだ。


 散々連れ回されたので空調を効かせて無理矢理布団で寝る気にはなれなかった。床にごろんと寝転ぶと、カーペット越しでもフローリングの冷気が伝わってきて少しだけ心地よかった。


 夢を見た、夢なのだと思うが、それはなんとなく嫌な感じのする夢だった。内容は瀬々里が俺から離れていくような夢だ。気に食わないのは夢だと理解出来ているのに自由意志で行動出来なかった。せめて自分の意志で声を上げられるならいくらでもやり方はあっただろう。残念だが、その夢ではただ単に妹が俺の元を去って行くだけの夢だった。


 不穏当な夢を見たせいでぼんやりと目を覚ましてしまった。金縛りというわけでもないのだろうが、と手も体を動かす気にはならない。気力を吸い取られているような気分だ。


 底なし沼の眠気に耐えながら、明日やるべき事を考えていく。登校しなければならないのだが、それだけの体力が残っているかは怪しいものだ。体力というのは休めば休むだけ回復するわけではない、上限というものがあるのだ。もしそれが無ければオリンピック選手は全員試合前からひたすらに休憩をするだろう。


 結局、耐えきれず目の前の景色がモザイクになっていく、その時にガチャとドアを開ける音がしたような気がしたが、気のせいだと割り切って深く考えないことにした。


 カシャリ……カチャ……なんだか機械の駆動音のようなものが聞こえた。小さな大人のでそれでハッキリ目が覚めるようなことはないのだが、眠りと目覚めの狭間で意識がフワフワと漂っている。そんな時、何か声が聞こえた。


「ふふふ……寝てる寝てる、私みたいに寝だめをしないお兄ちゃんが悪いんですよ? 私ときたら頭の良さに驚きすら覚えますね」


 何の事を言っているのかは分からなかった。どうでもいいことなのだろうが、発言内容より、その声の元が部屋に入ってきているということになんともいえない嫌な感じがした。


 ぼんやりした頭で被っている布団の温度が温かくなったような気がした。何故だろうか? 分からない、何も考える力が残っていない。


 カシャ


 また何かの音がする。一体なんの音だろうか? 今日、嫌と言うほど聞かされた音のような気がする。しかしそれを思い出すほど俺の意識はハッキリしていない。


「ふふふふふふふふふふふふふふ」


 悪意を含んでいそうな微笑み声が聞こえてくるのだが、それが誰のものだったかはハッキリしない。


 そうして、少し考えていたのだが、ぼんやりとした脳では深く考えられず、考える力が下がると危険性を感じる直感まで麻痺してしまうのだろう。部屋の中に明らかに誰かがいるのに俺の意識は消えていった。


 しばし寝た後、目が覚めた、床に軽い夏布団を被って寝ていたはずなのだが、何故だか妙に暑い。今はまだ布団が必要な季節だったはずだが、何故か背中からぬくもりを感じる。まるで湯たんぽを背負って寝ているようだ。


 俺は布団から出て、床で寝たツケに痛む体を起こして部屋を見回した。そしてそれはすぐに分かった。


「何をやってるんだ……?」


 俺の隣で寝ていたのは瀬々里だった。何故こうなった? 思えば気付くことはいくらでもできたはずだ、カーペットに布団を被って寝たのだから温かいはずも柔らかいはずもない。そもそも誰かの声が聞こえた時点で起きておくべきだったのだろう。あの時は睡眠欲に負けていたが、あの時僅かばかりの意識を出していればこんな事にはならなかったはずだ。


 とりあえず着衣の乱れを確認する、セーフ、俺が服を脱いだ形跡は無いな。では瀬々里の方は……


 俺は少し躊躇ってから決意を固めて掛け布団を剥いだ。


 そこにはごく普通の表情をした瀬々里が眠っていた。流石に何かしたような形跡は無い。記憶が飛んでいる間に何かあったんじゃないかとビビったが、どうやらそういうわけではないようだ。


 瀬々里を放置して俺はキッチンに向かった。目を覚ますため、冷蔵庫でキンキンに冷えた牛乳をパックから直接飲む、冷たい液体が体を芯から冷やしてくれる。


 そして冷静に考えたのだが、夜中のカシャカシャという音はシャッター音だとようやく気がついた。なるほど、俺はマヌケな寝顔を瀬々里に撮られていたという訳か、マヌケなこと極まれりって感じだ。


 自分のマヌケさと危機管理意識の薄さにあきれながら牛乳を飲み干した。そこで目を覚ました瀬々里がやって来た。


「よう、よく平然とした顔で来れたな?」


「ふっ……私はお兄ちゃんの寝顔を持っているんですよ? この意味が分かりますよね?」


 暗に逆らったらプライバシー無視で素顔をイソスタなどに上げると恫喝をされてしまった。確かにあそこは平気で名前を公開している連中も多いが、俺は匿名のTの民だ、そんなものに晒されたらたまったものじゃない。


「何が望みだ?」


 俺はさっさと交渉するべく瀬々里に話しかけた。


「お兄ちゃんの寝顔写真をきちんと顔は隠すのでアップロードさせてくれませんか? エア彼氏扱いされて私も気が立っているんですよ」


 大方フォロワーと揉めたのだろう。だからといって俺を使うこともないだろうに……いや、寝顔を撮るのに俺が一番簡単だからか。確かに妹に知らない男との外泊など許したくはないし、仕方ないことかもしれないな。


「分かったよ、その代わり顔だけはきちんと隠せよ?」


「もちろん! 徐々に証拠を公開していって私の彼氏否定派をゆっくり追い詰めるのは楽しいですからね!」


 いい性格してるよ。それにしても顔を隠した写真のどこに信用があるのか分からないが、公開すること自体に意味があるのだろう。そもそも嘘でも事実でもどうでもいいような連中ならその程度でも抑制にはなる。


 しかし自分の寝相が全世界に公開されるというのはあまりいい気がしないな、個人の自宅を特定するような暇人にはヒントにすらならないとは思うがな。それはそれとして気分が良いと悪いというのはまったく別問題ではあるのだが。


 そう考えているとスマホにのせた指を離した瀬々里がディスプレイを俺に向けてきた。そこにはなんというか……蓮コラの如く顔中に顔の絵文字で埋めた写真が写っていた。確かに俺の顔は見えなくなっているが、そのせいで生理的に気持ちの悪い写真になってしまっている。


「なあ、本気でそれを公開するつもりか? なかなか前衛的に過ぎるような気がするんだが」


「当然です! 『エア彼氏w』と書き込んだやつを黙らせるためにはこのくらいしなければなりませんからね!」


 断言する瀬々里だが、エア彼氏というのは間違いないと思う。本人がどう考えているにせよ俺たちはいつからそんな関係になったというのか。しかし瀬々里としては俺のアピールよりもアンチを黙らせることを優先しているようだし、本人がそれで満足ならいいのかもしれないな。


「アンチとの戦いは何も生まないってことくらいは覚えておけよ?」


「勝ったら私の気持ちがよくなりますが何か?」


「お……おぅ」


 断言されるとそんな気になってくる。負けるより勝った方が気分がいいのは分かるが、それを目的にするのもどうなんだろうな。そもそもアンチとは戦わないのが一番だと思うが、好戦的な瀬々里の思想からすれば敵前逃亡は許せないことなのだろう。たとえどんなにくだらない争いであっても、参加を決めれば勝つことに固執する、そういうやつだったな。


「ではアップロードしますね! アンチどもは見るがいいんです!」


 そう言っておそらくポストを実行したのだろう、瀬々里はニヤけて楽しそうに画面を見つめていた。誰も幸せにならない戦いに何の意味があるのだろうか? 瀬々里の自己満足か、あるいは勝ったということ自体が重要なのか、とにかくロクなものではないのだろうが、一応本人がやりたいといっているのを止めるのもな……俺の写真なので止めたいところだが、癇癪を起こされても困るし、何より顔はスタンプで覆われていたので問題無いか。


「やりました! アンチどもが敗北を認めましたよ!」


「え? マジかよ……世も末だな」


 あんな胡散臭い写真に敗北宣言をしたのか……アンチの方もあまりやる気がないのだろうか?


 俺は瀬々里の満足げな顔を見てから朝食のトーストを噛みちぎった。

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