03 絵師良秀の図屏風
じりじりとした蝉の声が聞こえてくる。
ここは、鄙びた村の荒れた寺――廃寺だ。
何も無い。
破けた障子や壊れた壁があるだけだ。
ただ――その中に。
屏風があった。
その屏風は、誰とも知らず、その廃寺の本堂に。
その屏風には、「地獄」があった。
ある鬼は、男の首を斬り。
ある鬼は、女を組み敷き。
ある鬼は、子を食らい。
ある鬼は、老人を焼いた。
「…………」
見ているだけで、気が滅入る。
そんな、屏風だった。
何故、こんな廃寺にこんな屏風が。
こんな屏風絵が。
おおん。
耳鳴りか。
何か、唸るような。
囁くような。
声が――
「……本物か」
否、本物も贋物も無い。
そもそも、存在そのものが怪しい代物だ。
「宇治拾遺物語」なり、芥川の小説なりの――虚構の上に存在するはずの屏風だ、真贋の判別などそもそも及ぶべくもない。
ただ。
「……迫力が」
凄い。
観ているだけで、圧し潰されそうなくらいだ。
それだけの圧倒を、宗悦は感じた。
「とにかく、河井君に言って、松方さんに」
それは宗悦自身の震えか、それとも。
「鬼か、魔か」
尋常ならざるものの気配を感じる。
これだけの屏風だ。
何かが潜んでいたとしても、不可思議ではない。
突如、時が止まった。
それは、くるりと振り向いた自分を、どこか脇から見ているような感覚に捉われたからわかる。
実際は「自分を見る」なんて芸当、出来るわけがない。
けれどもこうして「時間が止まった」からこそ、(逆説的に)出来るわけだ。
「…………」
振り向いたからこそ、その屏風に背を向けたからこそ。
その音に気づく。
にじりよる、何か。
おおん。
また、聞こえた。
耳鳴りではない。
自分は止まっている。
耳が、鳴るわけがない。
なれば。
――
そう、聞こえた。
聞こえた気がした。
だが、答えたくとも。
――
声は一人得心したように言う。
――次は、汝か。
次とは何だ、次とは。
静止する時間の中でも、思考はめぐる。
――あの……芥川とかいうのの次、ということじゃ。
「芥川だって」
もしそれが芥川龍之介のことなら、一体、何を言っているのだらう。
「駄目だ」
思考すらも、浸食されつつある。
何だ、この言語は。
何……何だらうか。
――あの者も地獄の渦中。今頃は、己が双つ身を見えている頃じゃ。
そしてだんだん濃く、
双つ身。
ドッペルゲンガーのことか。
宗悦はひとりごちた。
と言っても、口を動かすことができず、思っただけだが。
かのエカチェリーナ女帝やリンカン大統領が見たという、「もう一人の自分」。
それが芥川にも生じ現れ、彼の周囲に徘徊しているというのか。
そしてその怪異は。
地獄は。
――
「…………」
私は「地獄」なんぞ知りたくもない。
そう宗悦は叫びたかった。
けれども口が動かない。
されど背後の何かは
――
「何か」はそこで一拍置いて、これから話す言葉を舌先で味わうようにして間を持ち、それから口を開いた。
――
ちがう。
そう言いたかった。
「何か」はそれを見越したかのようにまた、くぐもった笑い声を上げた。
それ見ろ、お前が常々、死について囚われていることを知っているぞ、と。
だから。
――だから、吾の屏風に
「何か」は言う。
そういう、死に囚われている、地獄に惹かれている者こそ、誘っていると。
誘われたのなら、もう逃れられぬ。
何故なら。
――
突如、拘束が説かれる。
時が、流れ始めたのだ。
つまりは、「何か」の言説は終了。
これよりは、言説により
宗悦は急な「動き」につんのめり、手をついて立つ。
袂の湯呑みがひとつ、ころりと落ちる。
ころころと転がる。
――おや。
それは、いかにも間の抜けた声だった。
怪異というのには、あまりにも拍子抜けな。
いや、それこそが。
怪異は怪異ではなく、もしかしたら人……。
――
落ちた湯呑みが転がり終えて、くらくらと。ゆらゆらと。
揺れ動くその上面に、鐘馗が見えた。
揺れが収まる。
円筒の側面の鐘馗が見る。
そう、宗悦の背後の「何か」……怪異を。
鐘馗が見ているのだ。
――…………。
鐘馗は鬼よりも強い。
そういえば昔、京三条では、薬屋の病魔除けの鬼瓦に向い合せた家が、鐘馗の人形を飾ったという。
すなわち、鬼に除けられた病魔を、鬼よりさらに強い鐘馗によって、その家は除けたのだ、と。
「もしや」
宗悦はそう呟いて鐘馗による魔祓いを期待するが、「何か」はやはり、また「くっくっ」と笑うのだ。
――これは……。その、無名の陶工の碗の、その飾りか? それがこうも……。
「何か」の笑いは感歎の笑いだ。
何故、笑うのか。
宗悦は考える。
否、己を探る。
あの「何か」はひょっとしたら、絵師良秀かもしれない。
だが、おそらくは宗悦自身の心を、気持ちを反映しているかもしれない。
でなければ、こうも宗悦を捉えはしない。
だとしたら、何故、笑うのか。
あの「何か」は「芸」と云った。
云ったのだ。
つまり、「芸」こそが、「美」こそが。
あの「何か」の、そして宗悦にとっての……。
「そうか」
伝説の屏風絵に匹敵する。
値する。
それこそ何かがある。
それが、この湯呑み。
否、この湯呑みだけでなく、「
「無名の陶工が、職人が、無心で、無私で作った物こそ、うつくしい……それこそ、名人が作った名物に負けず劣らず。いや、それぞれで……ちがったうつくしさが……」
こうなると宗悦は止まらない。
背後に怪異が迫っているというのに、その「芸」に、「美」に、探究を研鑽をと頭が忙しく回転し始める。
「いっそ
――…………。
かさかさと。
そういう
思わず宗悦は顔を上げる。
その宗悦のその目には。
「……あ」
屏風が、燃える。
屏風か、紅蓮の炎を、まさに炎をまとって燃える。
消えていく。
――……芸とは異なもの。味なもの。
燃え落ちるところが、炎の下から現れるのは、
――死ぬに死ねない……されどそうでもして、求めたきもの。
それこそが、これまで宗悦を悩ませてきた「死」への想いへの、ひとつの回答だと言うかのように、その声は云った。
云ったが最後、それ以上何も聞こえなくなった。
空気が軽くなる。
つまりは、「終わった」ということか。
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