02 芥川龍之介の地獄変

 それからも宗悦の「朝市詣で」はつづいた。

 妻である兼子が「またですか」と愚痴るように宗悦の背中に声をかけたが、帰宅時に宗悦が「詫びに」と寄越した下手物げてものに「あら」と嬉し気に手に取った。


「かわいい湯呑み。これを、わたしに?」


「うん。今日の戦利品」


 宗悦が飛び込むように抱き着いて来る長男(柳宗理)を片手で受け止めながら答えた。

 それを見た次男(柳宗玄)が「ぼくも」と愚図る。

 宗悦は次男をあやすように「ほれほれ」ともう一方の片手を差し出し、次男もかぶりついてきた。

 わちゃわちゃとする宗悦たちに微笑みをくれながら、兼子は早速にと件の湯呑みを洗い、番茶を淹れた。


「美味しい」


「うん。そう見える」


 その様子を窺っていた子どもたちは「ぼくにも。ぼくにも」とねだる。

 宗悦は頭をなでてあげながら「今度、今度」と応じ、それから「サア学校へ行きなさい」と送り出した。


 兼子は宗悦とふたりきりになると「手紙が」と封筒を手渡してきた。


「ヤアこれは松方幸次郎さんからのふみではないか」


 松方幸次郎。

 かつての総理大臣・松方正義の息子にして、川崎造船所の社長。そして何よりも西洋美術品の蒐集家コレクターとして知られる。彼のコレクションは、のちに松方コレクションと称され、それは国立西洋美術館へとつながっていく。

 宗悦は幸次郎の弟・三郎と知己であり、その縁で幸次郎の知遇を得た。


「でも何だってその幸次郎さんが、あなたに」


 兼子としては、何か剣呑なものを感じ、それで子どもたちに見せるのを憚られたという。


「ふむ」


 宗悦は思い切って封を切ってその内容を読んだ。

 拝啓、柳君という言葉から始まり、幸次郎の闊達な人柄が表れている、伸び伸びとした字を追う。

 すると。


「京の外れの荒れ寺に……何か……があると」


 幸次郎の手紙には、自身の美術蒐集のためにいろいろと網を張っているのだが、それに引っかかったと言う。

 ――ついては柳君、君はちょうど京都にいる。審美眼もある。私は仕事が立て込んでいて忙しい。観に行ってくれないか。

 そして幸次郎は伝えるか伝えないか迷ったが、やはり伝えておくことにすると、闊達な彼らしくない、踏ん切りの悪い書き方で、最後にそれを伝えた。


「絵師良秀の画だって?」


 宗悦はうめいた。


「よしひで? 何それ?」


 横から聞いてきた兼子に、宗悦は「芥川のの良秀だよ」と答えた。

 あの作品。

 すなわち、芥川龍之介の手になる、「地獄変」。

 登場人物の一人である絵師良秀は、地獄変の屏風絵を描くことを「堀川の大殿おとど」に依頼される。

 良秀はその「地獄」を描くために、燃える牛車の中で焼かれる女を見たいと言う。

 それを聞いた「堀川の大殿」は良秀の願いを叶えた。

 ただし、良秀の愛娘を焼いて。


「…………」


 兼子は声楽家である。

 芸術にその身を焦がすことの何たるかを知っている。

 知っているが。


「……凄惨な話だったわね」


「うむ。元は『宇治拾遺物語』に載っている話なんだが、芥川はそれを見て、あの傑作を書き上げたという」


 その「宇治拾遺物語」では、良秀はが焼けるさまを見て画の足しにしたと記されているが、芥川はそれをに置き換えているところが凄い。


「しかし」


 本当に良秀の屏風絵が残っているとしたら、それは大変なことだ。

 芸術的はともかく、歴史学的、文学的に凄く価値のある代物だ。


「そんなものが、そんな荒れ寺? 廃寺なんかによく残って……」


 眉唾かもしれない。

 だからこそ、松方幸次郎も、その目で確認するつもりでいたらしいが、それが諸事情で叶わず、この柳宗悦にお鉢が回って来たということか。


「……行くの?」


 兼子は気が進まないといった様子だった。

 学生の頃から、生と死ということについて囚われていて、今もまた、心を痛めている。あるいは、思考の堂々巡りをしている。

 それが今の柳宗悦だ。


「うん。そうかもしれない」


 宗悦はそれを否定しなかった。


「けれども」


 宗悦は逆接する。

 自分の心理状況は知っている。

 自分のことだ。

 なればこそ。


「美……というモノにこそ、私はそれを打破するモノがある、と……そう信じている」


 そうまで言われては、兼子には止める術はなかった。



 京都というのは千年の都であり、その歴史は血塗られている。

 遠くは治承・寿永の乱(いわゆる源平合戦)を中心とする動乱であり、この時、京に飢饉が起こり(養和の飢饉)、「方丈記」ではその時の死者を四万二千三百人と伝えている。そしてそのあまりの死者の多さに、弔いが満足にできず、死者の額に「阿」と記すのみにとどめざるを得なかったという。

 近くはやはり幕末維新の暗闘や争乱である。剣林弾雨と称せられるそれは、数々の暗殺や、様々な争いを呼び、今でも京の郊外にはその時無念の死を遂げた志士や幕吏の無縁仏が眠っているという。


 ……そう、今でも。


「…………」


 宗悦は松方幸次郎の手紙を頼りに、件の廃寺を目指した。

 と言っても一人ではない。


「不案内やろ」


 と言って、河井寛次郎が同行を願い出た。

 ちょうど、作陶のための土探しをするつもりだったというので、ありがたく申し出を受けることにした。


でなくとも、この不況や。京の郊外は物騒やでぇ」


 河井が言うには、逢魔が時の夕刻になると、それはそれは魔境かと思われるほど、寂れて迫力があるということだ。


「せやけど今ァこんなに日ィが高いさかい、は大丈夫やろ」


「……そういうもんかね」


 宗悦としては、日が高くとも、怪しいは怪しい。たとえばそこの藪の中。何がいるか、分かったもんじゃない。


狐狸こりたぐいならかわいいもんやないか」


 河井はそう言うが、狐狸の類でも、怖いは怖い。化かしてくるかもしれない。


「そないに構えんでも」


 呆れた口調の河井だが、宗悦はこの道行きの彼方に、常ならざるものとの邂逅があるのではないか、と半ば恐怖し半ば期待していた。

 


 ……途次、先日、東寺の朝市で湯呑みを買った露店の店主がリヤカーをいているのに行き合った。ついでとばかりに息子たちの湯呑みを買った。


「男の子にあげるンなら、これやで」


 と勇壮な鐘馗しょうきさまの描かれた、小さな湯呑みを二つ寄越した。

 店主に礼を言って別れ、たもとに入れた湯呑みをかちゃかちゃ鳴らしながらたどり着いた廃寺は、なるほど「如何にも」な感じである。


「土地や建物の権利は松方さんが押さえているらしい」


 不法侵入にはならないよう、幸次郎が手配しておいたらしい。

 京都郊外のこの辺りなど、一体誰が権利を有しているか怪しいものだが、維新回天の薩摩藩に連なる松方家のことだ。何らかのコネで実現したのだろう。

 宗悦はそう決めつけて、境内に入った。河井もあとにつづく。


「……何や、怪体けったいな場所やのゥ」


 その呟きを背に、宗悦は本堂を目指す。

 京ではなく、その郊外のれ寺だ。

 大して広くもなく、それほど歩くこともなかった。


「……ここか」


 宗悦はそこで河井に外で待っているように頼んだ。


「狐狸というか――賊がいないとも限らんし、何かあったら、警察を呼んでほしい」


 河井は心得たと頷き、「せやけど柳君も逃げんるんやで。芸術も大事やが、御身も大事や」と、背中に声をかけた。

 曖昧な笑みを浮かべて、宗悦は本堂に上がる。

 思った以上に荒れている。

 仏さまには悪いが、靴のまま侵入はいった。

 いざという時に走るためにと、それと、腐った畳を踏み抜いた時に備えてだ。

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