【四散】

一弓

「差出人不明の手紙」

 予報外れの雨が窓を打ち付けている。佐白川 冬季さしらかわ とうきは、梅雨入りを先週に迎えておきながら折り畳み傘の一つも持たない愚か者であった。大抵の大学生はサークルで時間を潰しているのだろうが、故あって彼の所属する軽音同好会は一週間前に崩壊したばかりである。冬季が溌剌はつらつな高校生ならば濡れてでも帰ったかもしれないが、三ヶ月前には彼の身分は大学生へと更新されている。幸いにも通り雨とあって一時間もしないうちに止むそうなので、仕方なく誰も使っていない部室棟五階で雨宿りをしていた。

 少し埃を被った長机の上を払い、椅子に座って無線じを取り出す。挟んでいた栞を取り上げたとき、ちらりと見えた桜模様に、冬季はちょうど先週の出来事を想起した。


 冬季は先週、ちょうどここから三階下、部室棟二階の角部屋に向かっていた。軽音同好会で彼の担当であるベースを練習するためである。しかし、冬季は扉を開けてすぐに異常に気がついた。いつもなら練習を開始しているはずの時間である。しかし、部室には部長の庭森にわもりが一人中心の椅子に座っているだけだった。庭森は入ってきた冬季に気がつくと、ゆっくりと振り返った。普段の自信に満ちた彼の整った顔立ちは若干の陰が落ちており、それがますます冬季の漠然とした不安に拍車をかけていた。冬季は先手を打つように、日常会話を行おうとした。

「今日は庭森だけ? 葉場はばはともかくとして、篠崎しのさきが来てないのは珍しいな」

「佐白川」

「梅雨入りもしたし気が滅入るのはなんとなく分かるけどね。俺も今日少し来るか迷ったくらいなんだ」

「佐白川、話があるんだ」

「葉場が来なくなって一週間経つ話? それは彼女は理学部だから今忙しいって話で結論付いて───」

「そうじゃない。佐白川、聞いてくれ」

 捲し立てる冬季は、庭森の目を見て口を噤む。平生との違和感が顕著になり始めたのを肌で感じながら、冬季もまた近くの椅子へと座った。

「良い知らせから先に聞きたいな」

「生憎と悪い知らせしかない」

 数秒の沈黙の後、重々しく庭森は口を開いた。

「葉場、篠崎は退部した。軽音同好会は今日付けで解散だ」

 その知らせに冬季は動揺こそしたが、同時に確かに悪い知らせだと冷静に納得する心もあった。しかしすぐにそれは冷静な判断ではなく、現実を受け止めきれられていなかったのだとも自覚した。

「それはまた、なんで」

 思うところがある中選抜した言葉というわけではなく、真っ白になった頭の中に唯一浮かんできた言葉を冬季はそのまま口に出した。彼にとって思い当たる節は一切なく、つい昨日までは庭森も篠崎も笑って共に練習していたはずだった。それゆえに、純粋な疑問だけが冬季の頭には残った。庭森は、手で目を伏して、少し考える素振りを見せた。それから、こう云った。

「それは俺からは教えられない。立場上得た個人関係の話を流言するのは、人間として避けるべきだ」

「そうか。そうだよな」

 冬季は自分が曖昧な相槌を打っていることに自覚的だったが、かといって気の利いた返事は一つも浮かんでこなかった。湧き上がるような疑問も当惑の中に沈み込み、ただ暗澹あんたんたる憂鬱のみが頭蓋を埋め尽くしている。

「庭森はどうするの?」

 かろうじて会話を続けることが出来たのは、高校時代の軽薄な反射的会話の賜物だった。冬季にとってその過去は反省すべき軽挙妄動の集積だったが、この時だけは経験に感謝した。

「俺も辞める。二人で音楽もいいかなとは思うけど、事情が事情だ」

 申し訳なさと物悲しさを併せた顔持ちで、庭森は自身の楽器をケースに入れる。立ち上がり、冬季の横を過ぎ去り扉に手をかけたところで庭森は思い出したように振り返った。

「これ、篠崎から。代わりに返しとくように言われてた」

 庭森は冬季に桜模様の栞を挟んだ無線綴じを手渡す。それは確かに、彼女に二ヶ月前に貸したものであった。冬季が受け取ると、庭森はそのまま扉から出て行き、そして二度と部室に戻ってくることは無かった。冬季は無線綴じの表紙にある『四散』いう著書名を見つめながら、嫌な皮肉だと頭を抱え、暫く後に彼自身も部室を去った。四月の軽音同好会設立からほんの二ヶ月後のことである。



◇◇◇



 雨足が更に強くなり、雷が鳴り始める。突発的な光と轟音は冬季を現実に引き戻した。結局表紙を眺めるばかりで文を読んではいなかったが、嫌なことを思い出しているうちに三十分は経過していた。冬季は窓の外の豪雨豪雷が三十分後に過ぎ去るようには到底思えなかったが、現代の利器を信用して待ち続けることにした。今朝その予報には裏切られたばかりであったが、信じるにせよ疑うにせよ傘を持たない彼に何か行動の決定権があるわけではなかった。

 雨雲に覆われて空が暗くなり、電気を付けようと冬季が立ち上がった時、不意に扉が開いた。この部屋は誰も利用していないものだと思っていた冬季は面食らったが、次第に落ち着きを取り戻し、認識に誤りがないことを確信した。開いた先の相手が自分と同じ表情をしていることに気がついたからだ。そして冷静になると、扉の先に立っている女が極めて眉目秀麗であることに意識が向いた。頸までのショートカットは艶のある黒髪であり、きりとした目元は舞台俳優を想起させる。冬季が見惚れているうちに、女もまた冷静さを取り戻していた。

「部室じゃないよね、ここは」

「あぁ、どこも使ってないと思う。君がそうでなければ」

「私は……今はどこにも属してないかな」

「それは良かった。他人の部室で読書会なんて笑い話だ」

「そうだね。椅子、座ってもいいかな」

 冬季の対面にある椅子を見つめたまま女は云う。慌てて快諾する冬季は、近づいてようやく、その女が誰であるかを思い出した。

四万十しまんとさん?」

 確認の形式で尋ねるが、冬季はほぼ確かだろうとも考えていた。珍しい苗字と端麗な容姿は共に間違えそうにはない。女といえば、目を少し見開いてから訝しげな表情になり、疑問符を頭の上に浮かべる百面相を披露しながらゆっくりと口を開いた。

「どこで?」

 肯定の返事では無かったが、「どこで」の意味がどこで知ったのか、であれば彼女は四万十 雛月しまんと ひなつきその人なのだろう。冬季は人を憶えることは不得手でこそなかったが、記憶力に自信を持つほどではなかったので、一つ安心を得る。

「総務委員会で。一昨日の顔合わせの時、目立ってたから」

 冬季は総務委員の一人である。総務委員とはあるが、実際にはサークル委員のようなもので、部費や部室の割当てについて管理している。配られた資料の中に軽音同好会がないことを確認し、少し感傷的になったのを覚えている。

「あぁ」

 四万十は納得したように頷き、眉をひそめてこめかみを軽く揉んだ。冬季はしまった、と軽く口を抑えた。顔合わせで、彼女は決して良い意味で目立っているわけではなかったからだ。冬季の表情を見て、四万十は気にしないで、として続けた。

「顔合わせで代理に来る人、いないよね」

「まぁ、正直。連絡事項とかもあるから合理的だとは思うけど、顔合わせで別人が来たら誰でも驚くよ。それに───」

 冬季は正直な男であった。それは嘘をつくことが下手というだけであり、誠実であることとはまた異なるのだが。

「それに?」

「飛び抜けて綺麗だったから、印象に残ってた」

 冬季は正直な男であった。とはいえ何を言うかは統御できているつもりだったが、口から出かかった言葉を引き込めることもまた、冬季は苦手であった。口に出しながらも、数世代前の口説き文句のようだと内心自嘲する。

「そっか」

「ごめん、今のは無遠慮な言葉だったね」

「大丈夫。よく言われるから」

 冬季は謝罪しながらも、強者の言葉に感嘆を覚えた。先の四万十の言葉は人によっては嫌味のようにも聞こえるかもしれないが、彼女ほどの容姿であれば淡々とした事実の提示だと理解させられる。若干の気まずい雰囲気が流れる中、雨音が窓を打ち付ける音だけが教室に響いていた。

「そういえば、名前をまだ伝えてなかった。佐白川 冬季。佐白川でも冬季でも、好きな方で呼んで」

 四万十は音を発さずに口元を少しだけ動かす。

「なら佐白川くん、かな」

「わかった。四万十さん……で大丈夫?」

「うん、合ってるよ」

 冬季は会話を続けようとして、返答にきゅうしていることに気がついた。これがサークルや委員会の顔合わせならば、よろしくの一つでも云うのが是だろう。しかし、勝手に使っている空き教室で遭遇しただけの相手に述べるべきかと問えば怪しい。出会うもの皆友であった小学生時代ならばいざ知らず、今の冬季は十九歳を半年先に控えた青年である。

 四万十は冬季が言葉に詰まっているのを察したのかは定かではないが、黒いトートバッグからハードカバーを取り出し、目線をそちらに落とした。冬季も続いて、元々会話の継続は強制されていなかったことを思い出し無線綴じを開き直した。



◇◇◇



 未だ激しくなり続ける雨音が窓を叩きつけ、ピシャリと落ちる雷さえも気にならないほどに本に熱中していたことに気がついたのは、四万十と相対して一時間が経過した時刻を示す腕時計を見た時であった。冬季はまず時計を見て時間の経過に驚き、次に窓の外を見て天気予報を信じていた数刻前の自分に驚いた。雨足は弱まり、雷こそ止んだものの依然大雨といって差し支えない。一時間で止むとはなんだったのだろうか、と窓の外から視線を逸らすと、四万十も同じく顔を上げていた。

「なかなか止まないね、雨。予報では一時間もすれば落ち着くってことだったのに」

 目が合ってしまったので、冬季は話題を切り出すことにした。当然そんな義務はなかったが、四万十と視線を交わしてなお本を優先することは、彼にとって数えるべき罪深いことの一つに含まれるという直感があった。

「傘は忘れたの?」

「実は。雨宿りついでに本を読んでたんだけど、それもこの通り」

 冬季は最終ぺーじに桜模様の栞が挟まれた無線綴じを見せる。四万十は少し悩む素振りを見せた後に、ぽつりと呟いた。

「なら違うか。傘、貸した方がいい? 折りたたみだから、君には少し小さいけど」

「有難い申し出だけど、ほぼ初対面の人間にそこまでの迷惑はかけられないよ。それに四万十さんの帰る手段が無くなるだろうし」

「私は大丈夫。もう少し待つから」

 待つ、という言葉に冬季は引っ掛かりを覚えた。

「そういえば、傘があるなら雨宿りじゃないんだ。四万十さんはなんでここに?」

 四万十は難しい表情を浮かべ、言葉を探した。冬季は美貌は悩む時でさえも様になるものかと感心した。

「呼ばれたから、かな」

「呼ばれた? 誰も使ってない部室に、一体誰が」

「来た時は君が呼んだものだと思ってたんだけど」

「生憎と思い当たらないな。人を呼んでおいて本を一冊読み終えるのは、肝が座ってるだとか、そんな話じゃないよ」

「だよね。だから違うのかなって。これが四限の終わりに鞄に入ってたから」

 四万十は冬季の前に一枚の封筒を差し出した。冬季はそれを受け取り、中身を取り出す。そこには白いコピー用紙に、ボールペンで

『部室棟角部屋にてあなたを待っています』

と書かれた紙があった。いわゆる恋文なのだろうか、と裏返しても見たがどこにも差出人の名前はない。冬季は一人納得した。なるほどこれでは、向かった先の教室にただ一人鎮座していた自分が疑われるのは仕方のないことである。しかし、疑問も同時に浮かんできた。

「部室棟角部屋、か。文字通り両手の数ほどあるのに、なんでここに?」

 四万十は一時間ほどこの部屋に留まり続けている。部室棟の角部屋は五階まである構造なのだから、十部屋はあるはずだ。冬季が差出人と踏んで待機していたという可能性もないわけではなかったが、極端な賭けになる。

「四階までの角部屋は全部部室だから、入れなくて。一応、五階のもう一つも当たってみたけど、倉庫になってるみたいで関係者以外立ち入り禁止の札がかかってた」

「なるほど。差出人が関係者って可能性は……ないか。普通に考えるなら、差出人はこの場所が一意に定まるからこの表現を使ったんだろうし」

「佐白川くんが来た時、誰かいなかった?」

「入ってから四万十さんが来るまでの間は誰も」

「そっか、残念」

 四万十はうつむき、顎元に手を当てながら考え込む。意味もなく人の顔を凝視することは躊躇ためらわれたため、冬季もまた差出人について考える。差出人が名前を書いていない理由については、概ね推測が出来る。呼び出しに応じられなかった時に、何の弁明も許されず名前だけ知られることを忌避きひしたのだろう。態々手紙で人気のない場所に呼ぶほど慎重、というより臆病な人間であれば不思議でもない。では何故差出人は現れなかったのだろうか、と冬季が考えたところで、四万十が声をかける。

「傘の話だったっけ。私はもう少し待ってみるから。貸すよ、傘」

 冬季ははっとした。傘の貸借について話した後に無言でこの部屋に留まり続けているのは、まるで一度遠慮しておきながら、相手の事情に際して要求しているように映ったのではないか、とも不安になった。冬季は慌てて釈明する。

「もう少しすれば止むだろうし、待つよ。あぁでも、差出人が来るに当たって俺は邪魔かな」

「確かに、そうかもね。いてくれるなら、その方がいいけど」

 その言葉の真意がどうあれ、冬季は少しばかり胸が踊るのを自覚した。同時に自身の単純さと軽薄さに辟易ともした。この手の発言には、他意があるのが世の常である。冬季がそれを尋ねる前に、四万十が答えた。

「果し状だったら、一人だと負けちゃうし」

 果し状! 数世代はさかのぼらなければ日常会話に用いられないであろう単語に、冬季は思わず笑いを堪えた。同時に、告白以外の発想について視野狭窄きょうさくになっていたことについては自省した。確かに果し状を送りつけてくる倫理観世紀末人類が相手ならば、四万十のような人形の如き手足は無惨な蹂躙じゅうりんの餌食になるだろう。しかしそれは冬季についても同じことが云える。冬季は痩せぎすではないが、筋骨隆々というわけではない。せめて相手が火炎放射器や釘バットを持っていないようにと冬季は祈った。

「なら丁度時間もあるし、差出人について考えてみるのはどうかな。モヒカンだったら一大事だ」

「モヒカン?」

「いや、こっちの話。ともかく、差出人の意図がめれば果し状じゃないことは分かるんじゃないかな」

「確かに。でもこの短文から、どうやって?」

 冷静な四万十の意見に冬季は言葉に窮した。目の前の手紙には『部室棟の角部屋にてあなたを待っています』という一文のみが書かれている。冬季が筆跡鑑定能力に優れていれば解決だが、冬季は刑事ドラマの足跡の形状の話にすらピンとこない人間である。筆跡などは云うまでもない。取り敢えずは、疑問点を纏めることにした。

「5W1Hで整理すると、分かってるのはWhen、Where、How だけ。それぞれ四限より後に、部室等角部屋、つまりここで、待っている。分からないのはWho、What、Why。誰が、何を、どうするためにってところだね」

「手紙に一番書いてて欲しいところだけど」

「省いた理由があるのかもしれない。どの道、この三つは会えば分かるよ」

 冬季はWhoが省かれた原因については考察していたが、あくまで告白の呼び出しで成り立つ仮説であって、果し状であればその限りではない。果し状ならば集団から、という意味合いで特定個人の名が記されていない可能性も考えられる。

「なら、気になるのはここかな」

 四万十は手紙の『待っています。』の部分を指で示した。

「待ってない。後から来る予定なら、態々わざわざ書く必要はないのに」

「なるほど。確かに、呼び出しの手紙なら『来てください』でも成立はするね」

「それに時間も。四限の終わりに鞄にあっただけで、指定はされてない」

「これで明日の話だったらそれこそ嫌がらせや冷やかしだ。第一、今日のそれも授業終わりの鞄に忍ばせるなんて真似をしておきながら関連性がないとも思えないよ」

「私もそう思う。けど、三つのうちどれかに嘘がないと、成立しない」

「場所は……四階までは部室のプラカードがあって、五階が片方が倉庫、片方がここ。六階と地下一階はない、か」

 冬季は考えていくうちに、差出人について考えることを提案したことを少し後悔した。時間潰しにもなる、とこそ思っていたが八方塞がりだからこそ四万十はここに留まり、差出人は現れていないのだ。加えて、冬季は頭のいい方ではなかった。考えているうちに、状況が脳内でとっ散らかり、徐々に分からなくなってきたのだ。

「どうしたの?」

「書くものないかなって。頭の中で情報を纏めるのが苦手なんだ」

「ノートとシャープペンシルならあるけど、貸した方が良い?」

「大学に紙とペンも持っていかないほど愚かじゃないよ。梅雨に傘を持ってなくてもね」

 冬季は講義に使っているノートに情報を書き連ねた。四限以降、部室棟の角部屋で、待っている。部室棟は五階建てで、自分たちの所在がここで、角部屋はそれぞれの部活が使っている。

 そこで冬季は、目を見開いた。そして同時に、もしや自身はとんでもないうつけだったのではないか、とも自省した。



◇◇◇



 幕引きは呆気ないものであった。冬季と四万十は三階降り、部室棟の二階にいた。そして角部屋まで行き、未だ外し損ねている軽音同好会の文字が刻まれたプレート板、、、、、、、、、、、、、、、、、、、のかかった扉を開けると、確かにそこには一人の男子学生が座っていた。初め男子学生は翳った表情だったが、四万十の姿を見ると途端に表情筋を取り戻し、緊張感のある顔付きになった。そしてその直後に四万十の背後にいる冬季の姿に気が付き、みるみるうちに表情に翳りを取り戻した。

 四万十が男子学生の百面相を不思議がって冬季の方を見ると、その間に男子学生は四万十と扉の合間を縫って走り出てしまった。冬季は扉を抜ける直前、男子学生が酷い形相で睨みつけているのが見えたため、盛大な誤解を招いたことを確信した。同時に、男子学生に罪悪感も得た。

「……行っちゃった」

 頭に疑問符を浮かべたままの四万十に、よもや冬季は自分を引き連れて来たのが原因と云えるはずもない。冬季は肩をすくめてその場をやり過ごす。

 考えてみれば、冬季は事情を聞いた二言目には思い出すべきだったのだ。角部屋を占めているサークルのうち一つが、ほんの先週崩壊し空き部屋になっていることを。そして四万十もまた、部室か否かを明確に確認するべきであった。プレートの有無ではなく、総務委員会から配布される部室の割当て資料で。

 男子学生は恐らく一昨日の総務委員会で確定した資料から場所を指定したのだろう。冬季は自身の携帯から配られている資料を見て、納得と驚愕きょうがくを覚えた。納得は軽音同好会の記述がないことについて。驚愕は五階角部屋が部室になっていたことについて、である。顔合わせで四万十の顔を覚えておきながら、資料の情報を覚えていないとは何事だろうか。そして何よりも─────────

「他人の部室で読書会なんて、笑い話だったね」

 四万十が冬季に、少し口角を上げながらそう言った。冬季は穴があったら入りたい思いであったが、生憎と自分の掘った墓穴の中に既にいた。

「今日は来てないだけであって欲しいよ。変な奴がいてきびすを返した、なんてことがないことを願うね」

「まぁ、私も共犯だから」

「俺が騙したみたいなものだけど。全く、申し訳ない限りだよ」

 そう云って、冬季はサークルのプレートを外す。規定では元部員か総務委員が外すことになっており、幸いにも冬季は両方に該当する。

「雨、止んだね」

 先までの隆盛はどこにも見られず、窓の外には小雨すら降っていない。時刻は十九時過ぎだが、夏の接近に伴って空はまだ明るかった。元を辿れば雨宿りを画策していた時点で、恥に沈むことは確定していたのである。冬季は明日にでも傘を持ち歩く賢者に生まれ変わることを決意した。

「いい時間だし、帰ろうかな。四万十さんは?」

「私もそうしたいところだけれど。いい時間だし、どこかで食べていかない?」

 梅雨の雨宿りも悪くないかもしれない。佐白川 冬季は愚か者である。

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【四散】 一弓 @YUMI0625

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