第6話 言葉なき世代 -3- 遠い記憶
次の朝、クミが顔を合わせるなり聞いてきた。
「お願い事した?」
「してない」
「もお、なんで?せっかく教えたのに」
そう言って頬を膨らませた。
昨夜ノートを開いてみたが、結局何も書かなかった。いや書けなかった。
願いたいことは何かあるように思ったけど、それが上手く言葉にできなかった。
クミのことをちゃんと意識し始めたのはいつからだろう。
小学校に入ると、一年から四年までクミとは別のクラスになった。
幼稚園ではあれだけ毎日一緒だったのに、クラスが別になると顔を合わせる機会がめっきり減った。
休み時間に校庭で見かけたり、登下校の時に姿を見ることもあったが、それぞれ新しい友達との時間の中で毎日を過ごしていた。
五年でクラスが同じになり、二人とも飼育係に選ばれて、一緒にウサギの世話をするようになったのがきっかけで、またよく話をするようになった。
「タカシくん、今何に夢中なの?」
「え、今?うーん、プラモデルかな」
「へー、珍しいね。何作ってるの?」
「飛行機とか、ロボットとか」
「ふーん、今度見せてよ」
「ああ、いいよ」
いつも話し掛けてくるのはクミの方だった。
「タカシくん、モモタブラって知ってる?」
「モモタブラ?何それ?」
「何だかわかる?」
「わかんない」
「熊本の方言でね、太もものことなの」
「太もも?」
「この前ね、熊本のおばあちゃんが言ったのを聞いて、ワタシびっくりして大笑いした」
「初めて聞いた」
「モモタブラってすごい言い方だと思わない?」
「そうだね。タブラって何って感じ」
「でしょう。モモタブラ、はははは」
クミは相変わらずよくしゃべる。ああこの笑顔毎日見ていたなあと、幼稚園の頃を思い出していた。
五年二組はクラス全員仲が良かったので、毎日学校に行くのが楽しみだった。
あの頃女子たちはよく教室の隅で、ひそひそ話に花を咲かせていた。
男子が近くに行くと話を止めるのでものすごく気になった。
「イチイだれ?」とか「ニイは?」とかキャーキャー言っていて、クミの「イチイ、アッキ」って言葉が耳に残り、どういう意味か気になって頭を離れなかった。
アッキはどこか大人びたところがあって、あの頃からボクたちの一歩先を行ってる感じがしていた。
五年の夏休みに男四人だけで自転車で遠出した。ボクたちにとっては大冒険だった。
あの時アッキは「将来ミュージシャンになりたい」って話をした。
そんな将来のことなど、まだ考えてもいなかった自分が恥ずかしくなったし、アッキのことが随分大人に見えた。
クミは一緒に遊ぶ輪の中にいつもいた。
だけどあの「イチイ、アッキ」の言葉がずっと気になって、そのモヤモヤする気持ちが自分でも何なのかがわからずにいた。
二学期になってクミが学校を休んだことがあった。
「熱を出してお休みです」とだけ先生が言ったが、次の日もクミは来なかった。
先生に頼まれてクミの家にプリントを届けることになった。
どうしたんだろう。風邪かな。違う病気かな。もっと大きな病気だったらどうしよう。
毎日顔を合わせていたので、二日も見ないと気になってしょうがなかった。
不安でドキドキしながらチャイムを押した。
「あらー、タカシくん、大きくなったわねえ。ごめんなさいね、わざわざありがとう」
クミのお母さんにプリントを渡した。
「今日病院へ行ってね、熱はだいぶ下がったの。ただの風邪なんだけど、皆にうつしちゃいけないからね、明日もう一日様子見ようかなぁ。ありがとう、気をつけて帰ってね」
お母さんにそう言われて帰るしかなかった。風邪だと聞いて少し安心したが、クミには会えなかった。
クミは次の日も休んだので、届けものはなかったが帰りにまた家に寄った。
二日連続して家まで行く口実が思いつかなかったけど、顔を見たい気持ちの方が勝っていた。クミのお母さんに何て言うかを考えていたら、前夜はそのまま眠ってしまった。
やっと決めた言葉を口の中で練習してからチャイムを押した。
ドアが開いて精一杯の言葉を絞り出した。
「クミちゃん、大丈夫ですか」
なんだかよくわからない、人には知られたくない気持ちを、大人には見透かされそうでドキドキした。
「明日は学校行けると思うわ。心配してくれてありがとうね」
続ける言葉が浮かばず、困って焦った。
どんな具合か気になったけど、「はい」と返事をして、玄関を後にするしかなかった。
二階の窓が開く音がして振り返ると、パジャマ姿のクミの顔が見えた。
ボクを見て僅かに微笑んでくれたクミは、顔色が白く随分と小さく見えた。
いつも元気で笑顔のクミのそんな弱々しい姿を見て、ふいに「ボクが守ってあげないと」という感情が湧いた。そんな気持ちになったのはそれが初めてだった。
多分あの時ぐらいから、クミがただの幼なじみから特別な存在に変化したような気がする。
どういう変化か、そこが上手く言えないけれど。
六年の冬、アッキが騎士団に入団した。
それは本人が前から言ってたことだったが、本当に十二歳の誕生日にすぐ入団手続きをするとは誰も思っていなかった。
それは冬休み直前の出来事で、終業式の放課後に七人で集まった。
「皆どうする?」
「オレ入りたい」
「オレも入る」
「親にまだ話してないもん」
「そうワタシも」
「ワタシも」
「ワタシもまだ」
レジスタンスや騎士団の存在は誰もが知るところで、国民のほとんどがその活動に賛同していたが、それに家族が参加するとなると、それはまた話が別だった。
やはり危険が伴うことから、特に未成年の活動は認めてもらえないことが多かった。
その日の帰り道、クミと歩きながら話をした。
「タカシくん、どうするの?」
「うん、入ろうと思ってる」
「親には?」
「父さんとは騎士団の話を一度したことがある。だけどちゃんとはまだ話してない。クミは?」
「全然話してない」
「どうすんの?」
「どうしよう」
クミは困った顔をしたが、どこか嬉しそうな顔にも見えた。
「タカシくんが入るんだったら入ろっかな」
「アッキじゃないの?」
「え、なんで」
「いや、なんとなく」
言ってからイヤなこと言ったかなと思った。クミはきょとんとした顔をした。
「遊びのサークルじゃないからね」
皆がそうするからとかじゃなくて、自分でちゃんと考えて決めないといけない。
「危険なこともあるよ」
「危険なこと、か……だったら…」
言葉を途切らせたクミがチラッとボクを見た。
「だったら、守ってくれる?ワタシのこと」
「え?」
「ジョーダン、ジョーダン。帰ってママとパパに相談する」
走っていくクミの後ろ姿を見送った。
その姿を目で追いながら、ボクは守るって言葉の意味を考えていた。
結局、親同士が話し合ったようで、ボクたち七人は五人が小学校卒業後の春休みに入団し、カコとメグがその半年後に合流した。
騎士団に入ると、まず禁句法がいかに間違った法律であるか、国による言論統制や言論弾圧などあってはならないということを、レジスタンス青年部のリーダーたちから学び、団員の証として蜂のマークのワッペンを手渡された。
ある時、禁句法以前の言葉が自由であった時代の歴史話を、女性リーダーの一人が話してくれたことがあった。この時の話がとても印象的で特に心に残っている。
禁じられた二文字の言葉はとても大切な言葉で、人と人とが寄り添って生きていく上でなくてはならない言葉だと、ボクたちに語りかけるように話してくれた。
それは優しい話しぶりの中にも強い意思と、ボクたちへの愛情のようなものが伝わってくる内容だった。
この時の女性がアンナさんだった。
「今日の女の人の話、良かったね」
「うん、ワタシ泣きそうになった」
クミの気持ちの高ぶりが伝わってきた。
「ボクたちが不幸だってことがよくわかったよ」
「そうこのままじゃね」
「言葉を取り戻さないといけない」
「そうね、絶対に」
「その言葉を自由に言えるって、どんなんだろうね」
「うん……」
「言えたらどんな気持ちになるのかな」
「……」
「想像できないな」
「……」
「いつか言ってみたいな」
黙り込んでいたクミがぽつりと言った。
入団して間もない頃、そんな会話をしたように記憶している。
この頃からクミはボクをくんづけで呼ぶのをやめた。理由は知らない。
次の日。
まだ誰も来ていない地下のアジト部屋。
連絡用の共同パソコンを立ち上げて空気清浄器を動かす。
「お願い事した?」
ボクの次に来たクミが、おはようの挨拶もそこそこに、顔を合わせるなり聞いてきた。
「してない」
「もお、なんで?せっかく教えたのに。今夜の九時半までだからね」
はいはい、わかったよ。でもなあ。
「幼稚園でさ、お泊まり会行ったでしょ」
「なに急に」
「昨日の夜いろいろ考えてたら思い出したの」
幼稚園か。
クミとはその頃から一緒。バスの行き帰りも同じ場所で乗り降りしていた。
毎朝のおはようと帰りのバイバイ、いつもクミの笑顔がそこにあった。
「あー、行ったかな」
「覚えてる?」
「うん、うっすらと」
「花火したでしょ」
「えーと、したっけ」
「したよ。線香花火」
「大きいのもしなかった?」
「ワタシが覚えてるのは線香花火」
確か近所のお寺に泊まった。夜広い庭で花火をした記憶がある。
「玉落とさないか競争したよ」
「そうだっけ」
「懐かしいね」
「ちょっと覚えてるかな」
「大広間にね、お布団並べて寝たよ」
「それは覚えてない」
二人手を回し合って寝ている姿がものすごく微笑ましかったと、母さんが幼稚園の先生から聞いたと話していた。
なんとなく覚えてる気もしたが、母さんには随分からかわれた。
「え、タカシ覚えてないの?」
「覚えてないよ」
「もぉ」
クミがまた頬を膨らませた。
春は初夏へと駆け足で進み、五月の大型連休が迫っていた。
鮮やかな新緑の季節の訪れが、騎士団メンバーたちにとって重大な局面を連れて来ることになろうとは、この時はまだ誰も想像すらしていなかった。
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