最終話

 涙を拭くこともなく、騒がしい夜の街を早足で抜けていく。踵を履き潰したままのスニーカーで、カパカパと間抜けな音を鳴らしながら逃げていく。逃げて、逃げて、人気のない橋の上へとたどり着く。暗がりの中、フェンスにもたれかかり、それから、そこにしゃがみ込んだ。

 下は首都高が広がっている。色とりどりの車達が上へ登り下へ降り、そして光の街へ消えていく。

 びゅうびゅうと風が吹く。それは優しい生ぬるい風なんかでは無く、凍り付くような冷えた風だった。

 寒い、痛い。そう思った。そんな矢先だった。


「あ。」


 フェンスに大きなカマキリがしがみついていて、わたしは思わず声を上げた。


 カマキリは、すっかり水気の抜けた竹筒のような体に鞭打ってじわりじわりと網目をよじのぼっていく。車がその下を横切るたび、カマキリの黒い瞳がギラリと輝く。

 これは死にかけた目だ。わたしには分かる。生きとし生けるものが死にゆくときの目だ。道路の周囲を囲むように広がる茂みから聞こえる鈴虫の鳴き声は、まるでカマキリを嘲笑うかのように思える。


 笑うな。


 死にゆくものの、生にしがみつくその様を、笑うな!


 拳をグッと握りしめた。

 気がつくとわたしは立ち上がり、カマキリに1人声援を送っていた。


「頑張れ!どこに行くかなんてわたしには分からないけれど、頑張れ!」


 フェンスを這うようにじりじりと進む。

「危ない!」

 進もうとカマを上げたが、片方のカマがフェンスに引っかからず、空を切った。体の重心を戻そうと腹の下の足が忙しなく動き、そしてなんとかその場に留まった。わたしはほっと胸を撫で下ろした。


「ゆっくりでいいから。」


 わたしは呟いた。

 カマキリにその声が届いたのだろうか。そこからは危なげなく、一歩一歩ゆっくりと上へ登り、遂にフェンスを登り切った。


「ここからどうするの?」


 わたしは既に上を覗き込むようにしてカマキリを見つめていた。しばらくじっと動かずに道路を見つめていたカマキリは、次の瞬間、道路に飛び込んだ。

 その姿を追うように、わたしの体がフェンスに張り付く。カマキリは大きな羽を広げて道路を横切り、脇の茂みに消えていった。


「行っちゃったか。お疲れ様。」


 フェンスを掴んでいた手を離した。ふと空を見上げた。

 空には雲ひとつなく、月がぽつりと輝いていた。満月だった。


 綺麗だった。

 生きよう、と思った。


 わたしの話はこれでおしまい。


 わたしには、生きていくのが辛い人を止めるだけの説明はできない。わたしはその人へ、生きることの希望を伝えることはできそうにない。


 でも。


 でも、死ぬことが救済だとか、それしかないとか、そんなことは絶対に言わない。言わないだけだ。「生きろ」なんて無責任なことは言えないけど、死ぬことを肯定しない。

 逃げて、逃げて、逃げて、這いつくばってでも生きていく。しがみついたカマキリみたいに。

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カマキリ スベスベケブカガニ @ishijosf

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