跋文
第20話 魔王としての秦
ここまでお付き合い下さり、感謝申し上げる。
まず結論であるが、「
まぁ良い。こういった大結論をいきなり提示しても繋がるまい。改めて
商鞅は後世、
孝公の子、
そして十八史略的な意味での魔王、
考えてもみれば、後の「この世の主はただひとり」的価値観より引けば周王家を滅ぼした秦が魔王的に扱われるのは当然なのだよな。問題は、その秦が使い出した至尊の称号を約二千年にも渡り継承しておることで。この辺り、どのような自己正当化が為されておるのかは気になるところである。
そしてこうして考えると、秦の罪業はよりセンセーショナルに盛りたいところである。ともなれば、
魔王昭襄王の死後、
春秋戦国という括りで言えば、秦王政の天下統一事業は収穫の時間、やや規模の大きなエピローグである。故に本作に於いてはさして稿を割かぬ。先にも書いたとおり秦の統一は「悪しき統一」である。ならばその後に待ち受ける「良き統一」への伏線が撒かれ始める。こうした流れは、また
◯
以上、敢えて十八史略の記述にのみ基づき、春秋戦国時代の事績を追って参った。今後様々な史書に臨まれる諸氏に於かれては、改めてこの点をご認識頂けると良いのかな、と考えている。
歴史書とは、結局の所物語である。
十八史略は特にその傾向が顕著であるが、これは結局史記にもそうした側面が伺える。なにをどうあがいても、書いてあること、曲筆されたこと、省かれたこと、には、偏り無き、客観的な事績の著述、なぞありえぬ。そして二十一世紀の史家たちは、「そんなものがない」に立脚し、その中から少しでも妥当性の高い内容を炙り出さんとする。それは微細で、地味で、地道な作業である。
過日、
呉座氏が該当の記事
https://withnews.jp/amp/article/f0180806000qq000000000000000W02k10101qq000017768A
にて語っておられたのは、まさしく上記のような内容である。「到底経過の確定なぞしようのない歴史事績から得る教訓は概念的、普遍的なものであり、本当に事実として成立した内容であるかどうかは確定できない」。この意味で、例えばワンピースにおいてオハラの悲劇とあだ名されるシーンは、始皇帝が行ったとされる焚書坑儒が「実際にあったと仮定するなら」、としたときに、確かな説得力をもって読者に迫る。世界を牛耳る勢力が捏造した歴史をオハラの学者たちが疑問に思い研究し、その捏造を暴き立てようとしたから滅ぼされた、とするエピソードである。
優れたフィクションは普遍性を帯びており、故にこそ普及する。これは真偽が微妙であったとしても広く普及する歴史説話とさして価値が変わらぬ。「人を、確かに導く力がある」のである。ならば普遍的歴史説話と優れたフィクションとで、得られる教訓の価値は等しい。その上で歴史説話には、ともすればそれが「真実である」という錯誤が交じる恐れもある。そうした危うさを交えぬぶん、フィクションより得る教訓はまだしも理性的である。これが呉座氏が歴史から学ぶくらいなら優れたフィクションから学べ、の意である。「歴史から学ぶなんてアホか」、ではないのである。
以上の内容から、さらに展開しよう。「優れた物語書きは、歴史事績を記述するに当たり、自らの主張にとって都合の良い展開をたやすく生むことができる」。ついでに「都合の良い展開を分かりやすく紹介することができる」とも言えようか。
よかれ悪しかれ、優れた著述者の簡易な歴史著述には、どうしても著述者の歴史認識バイアスが色濃くにじみ出てしまう。これは二十一世紀日本にて出版されておる諸歴史書籍でも同様である。
ならば、こうした現代的イデオロギーから比較的自由である十八史略にて、そうした読み方に慣れ親しんで頂くのも、また歴史を深く楽しむトレーニングになってくれるのではないだろうか。
読者諸氏の歴史遊びが、より深く沼ってくだされば、と作者は汚らしい笑みを浮かべておる。最悪であるな。
ではまた、いずこかにて。
崔浩先生の「十八史略で拾う春秋戦国」講座 ヘツポツ斎 @s8ooo
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