戦国時代

戦国時代概略

第13話 戦国1 魏の隆盛と凋落

 約3800文字。

 では、改めて事績推移を見て参ろう。戦国時代せんごくじだいせいしん→秦と覇権国が動きました、と認識しておくとひとまずは楽である。

 対象年代は -403~-341 である。

 春秋4と同じくらいの年数である。もう一度言う、春秋4と。むしろ短い。



しゅう


 -403 年、威烈王いれつおうちょうかんを諸侯に認定。

 -402 年、安王あんおうが立った。

 -386 年、田和でんかせいを簒奪。

 -375 年に烈王れつおうが立った。

 -369 年に顕王けんおうが立った。この頃諸侯は周を差し置き、みな王を自称するようになっていた。



えん


 ようやく名が挙がる。文公ぶんこう召公奭しょうこうせきより三十代ほど下るという。扱いがひどい。ただし具体的事績は次代である。



せい


 太公たいこう田和でんかが死ぬと桓公かんこう威王いおうと続く。


 威王ははじめ国内をうまく治めきれず、諸侯よりの攻撃を受ける。特に -348 年にはよりの攻撃を受ける。そこで威王は淳于髡じゅんうこんちょうへの援軍を依頼。大量のプレゼントを預けたが、それを見た淳于髡は大笑い。

「以前道ばたで豚足一本と酒一杯を捧げて豊作富貴の祈願をしておる農夫を見かけました。そのとき私は、またずいぶん少ない捧げ物で大きな成果を望むものだと思ったものです」

 それを聞き、威王は淳于髡に更に多くのプレゼントを持たせて出発させた。

 これにより楚をはねのけることは叶ったが、国力はやはり振るわなさぬ。そこで威王は卽墨そくぼくの長官を召喚して、その施政の端正にして汚職に手も染めずにあることを讃え、厚く報賞を加えた。またの長官を呼び、日頃届く報告がその施政の素晴らしさを歌うものであったにもかかわらず手ひどい実態であることを指摘。あわせて王への報告を届ける者にまいないを掴ませていたことも指弾し、即日のうちに部下もろとも殺した。

 賞罰を明らかにしたことにより、ようやく斉の国運が上向き始めた。


 威王と惠王けいおうが連れだって狩りをしたときのことである。恵王が自国の宝玉を自慢してきたので、威王は国境を守る将軍達の名前を挙げて、彼らこそが宝だと言った。恵王は恥じ入った。


 威王いおうの時代、かんに攻撃を仕掛けていた。韓はせいに救援を依頼。そこで田忌でんきに軍を預け、救援に向かわせた。

 対する魏将は龐涓ほうけん。かつて孫臏そんぴんと机を並べて兵法を学んだ仲である。龐涓は自らの兵法が孫臏に及ばないからと、罪を着せて孫臏の両足の腱を切り(ちなみにこれを臏刑ひんけいと言う。つまり孫臏とは臏刑に遭った孫氏、と言う意味)、顔に入れ墨を入れた。斉の使いは魏で孫臏に出会うと、密かに斉に連れ帰る。そして孫臏を軍師とした。

 孫臏は韓の救援そのものには出向かず、あえて魏の都に攻め寄せた。韓を攻めていた龐涓は慌てて斉の迎撃に戻らざるをえなくなってしまう。対する孫臏、撤退をしながら野営地にはじめ十の窯を残しておいたとしたら、翌日には五の窯を、その翌日には二の窯を残し、斉軍の離脱兵が多くなっているよう見せかけた。はたして龐涓は斉軍の士気が衰えているものと判断、強行軍で兵を進め、うかつに馬陵ばりょうにある、伏兵を配しやすい地に踏み込んでしまう。

 その地にある木に刻まれていたのが、有名な言葉「龐涓、この樹の下に死す」である。隘路に追い込まれていた疲労困憊の魏軍は、周囲より一斉攻撃を受けて壊滅。龐涓は「あのガキの名を上げさせてしまったか」と言い残して自殺。また軍を率いていた魏の太子、魏申ぎしんも捕虜となった。



○中原諸国


 繆公びゅうこうののち共公きょうこう康公こうこう景公けいこうと移る、……のだが、曽先之先生はうっかり景公を書き漏れておる。



しん


 烈公れつこうが死に、孝公こうこうを経て静公せいこうと代が移ると、魏の武侯ぶこう、韓の哀侯あいこう、趙の敬侯けいこうが結託し、静公を庶人に落とした。ここに晋は滅んだ。



ちょう


 烈侯れつこうののち、武侯ぶこう敬侯けいこう成侯せいこうを経て肅侯しゅくこうへと移る。

 久々に趙が空気である。




 文侯ぶんこう孔子こうしの弟子である子夏しかや隠者の田子方でんしほうらを師と仰いだ。中でも深く敬った相手が段干木だんかんぼく。彼の住まう村を通りがかるとき、車を止め、深々と礼をした。こうした賢人への恭しい態度から、文侯の元には多くの人材が集まった。


 文侯ぶんこうの元に集まった人材を見てみよう。

 田子方でんしほうと文侯の息子、のちの武侯ぶこう魏撃ぎげきが道ばたで会う。魏撃が恭しく挨拶したところ、田子方はろくろく挨拶しようともせず立ち去ろうとした。魏撃は田子方を呼び止め、「どうしてそう傲慢な態度が取れるのだ」となじる。すると田子方は涼しい顔で「貧乏ものは失う物もない。だからいくらでも傲慢な態度を取れる。だが君子は違うだろう。守らねばならぬ物も多い。なればこそ傲慢ではおれぬ、違うかね?」と言う。確かに! と魏撃は納得した。


 また食客の一人、李克りこくと文侯が話す。

「先生は以前私に、夫は家が貧しくなったときに始めて良妻がいてくれればと、国主は国が乱れたときに始めて良き宰相にいてくれればと願うものだ、とお教えくださいました。では、国が乱れぬうちに良き宰相を迎えるにはどうすれば良いのですか?」

「五つの見方があります。

 一つ、その人物が立身していなかった頃、どのような人物と付き合っていたか。

 二つ、富貴となった際、何に金を費やし、誰に分け与えたか。

 三つ、高官となったときに、どのような人物を任用してきたか。

 四つ、ピンチの際にどのような対応をとったか。道義にそぐわぬ振る舞いはなかったか。

 五つ、いざ困窮したとき、決して手を出してはならぬ手段に手を染めることはなかったか。

 これらをもとに、宰相たるべき人物をご選定なさいませ」

 文侯は魏成ぎせい翟璜てきおうのどちらを宰相にすべきか迷っていたのだが、李克の言葉に基づき、魏成を宰相に任用した。ちなみに魏成は文侯の弟で、子夏や田子方、段干木らを推挙した人物でもあった。


 また孫子そんしと並べ讃えられる軍略家、呉起ごきこと呉子ごしもこの時代の人である。えい出身で、はじめに仕えた。この頃魯はせいを攻撃したいと目論んでいたのだが、呉起の娶っていた嫁が斉出身であったため内通を疑われていた。そこで呉起は妻を殺害した上で将軍に立候補、見事斉軍を大破する。

 ただ、この行動は魯人に恐れられた。「あまりにも残酷である、人情に欠ける」とのことだ。なので呉子は冤罪を受けることを恐れに出奔。そして文侯ぶんこうに登用された。軍を預かればしん軍の守る五つの城を攻め落とす。

 呉子は将士らと共に食事し、同じものを着た。ある兵士の傷が化膿すると自ら吸い出した。兵士の母は泣いて言う。

「あの子の父に対しても、呉子は同じことをしてくださいました。親子揃って同じ恩を受けたいま、私の子は呉子のために死をも恐れず戦うことでしょう」


 文侯のあとを武侯ぶこうが継いだとき、武侯は魏の天険を眺めて「この自然の要塞こそ魏の宝である」と述べる。すると呉起は三苗さんびょう氏が夏のに、けついん湯王とうおうに、ちゅうしゅう武王ぶおうに、それぞれ天険に拠点を置きながらも徳を修めなかったが故に攻め滅ぼされた例を引き、改めて武侯に徳を修めるよう言いつけた。


 武侯ぶこうが死ぬと、子の惠王けいおうが立つ。かんを襲撃したところせい孫臏そんぴんに後ろから攻撃されて龐涓ほうけんと太子の魏申ぎしんを失ったのがこのときである。



かん

 

 景侯けいこうの時代、臣下である俠累きょうるい厳仲子げんちゅうしが仲違いをしていた。二人の諍いは殺し合いにまで発展、やがて嚴仲子は勇士の聶政じょうせいの噂を聞きつけ、彼の母親の長寿の祝いに盛大な贈り物をし、親交を結んだ。そうして俠累を殺して貰いたい、と依頼。

 はじめは母の健在を理由に首を縦に振らなかった聶政だったが、母が死ぬと早速俠累を殺害、そして自らは素性がばれぬよう、顔をえぐった上で自殺した。韓の人は犯人の正体を求めるべく聶政の死体を市中にさらす。誰もが死体の正体に気付けぬ中、ひとりの女性が進み出る。聶政の姉であった。

 彼女に累が及ばないように、と正体がわからぬようにした上で死んだのだろうが、そのような賢い弟をおいてのうのうと生きてなぞおれぬと、聶政の死体の側で彼女も自殺して果てた。


 韓の話は?




 聲王せいおうののち悼王とうおうののち肅王しゅくおうののち宣王せんおう



しん


 簡公かんこうののち惠公けいこうののち出子しゅつしののち獻公けんこう」を経て、孝公こうこうの代のこと。いわゆる戦国諸国が出そろっており、他に小国が十ほどあった。どの国もしんを蛮族扱いしており、諸侯の会盟からもハブってくる。そこで孝公は「国力を増進した者には褒美を取らせる」とふれを出した。

 そこにえいから商鞅しょうおうがやって来る。本名は公孫鞅こうそんおう。彼の説く政策は見事だったが、民の反対をも招きかねないものだった。そこに商鞅は「民に説明するまでもない。結果が付いてくれば納得する」と言い切り、施行させる。以下の通りである。

 1。民を十五世帯ひと組とし相互監視させ、悪事があれば連帯責任、悪事を告発しなかったら腰斬、告発したものには「敵を殺した」のと同等の報賞。

 2。軍功があった者には、功に応じて爵位が付与される。

 3。私的な争いは皆その軽重にかかわらず処罰。

 4。収穫物や衣類を多く納めたものには勤労税を免除。怠惰な貧乏暮らしをする者は捕縛して、妻子もろとも奴婢に落とす。

 5。父と子とにそれぞれ別の家に暮らすようにさせ、同居では一戸分しか取れなかった租税を二戸分徴収できるようにする。

 これら政令が施行されて十年も経てば、道に落とし物があってもネコババする者もなく、山野に盗賊もいなくなり、人々の暮らしも豊かとなった。人々は喜んで戦争に出向いたし、私闘には及び腰となり、村落は大いに治まった。

 はじめこの法令を不便だと言っていた者も、暮らし向きが改善されれば良い法令だ、と言う。商鞅は、そういう者こそが規律を乱すのだ、と発言者を遠くに飛ばしてしまった。これにより法令についてとやかく言う者もいなくなった。

 こうして、秦は一気に強国となったのである。

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