第7話 春秋4 戦国への胎動

 約2500文字。

 春秋時代が、いよいよ終わりにさしかかる。それにしても前話は各国で文字数が違いすぎるな。今話はいかがであろうかな。

 対象年は -469~-403。やや他話より短いのは許されよ。



○周

 -469 年に貞定王ていじょうおうが立つ。

 -441 年に哀王あいおうが立つ。しかし哀王は即位後すぐ思王しおうに殺されてしまう。

 -440 年に考王こうおう思王しおうを打倒し、即位。

 -426 年に威烈王いれつおうが立つ。

 -403 年にしんよりちょうかんが独立、諸侯として認められる。



○燕


 おらぬ。



○姜斉


 景公の五代のち、康公こうこうの代、-404 年に田襄子の孫、田和でんかしゅう安王あんおうより侯に任ぜられた。康公は追放の上、殺された。こうしてきょう氏としての斉は滅んだ。


・田斉

 襄子じょうしの時代、かんちょうとよしみを通じた。この三氏がしんを、そして田氏が斉を乗っ取ろうとしているわけで、目的が一致していたのである。

 その後、荘子そうし田白でんはくを経て太公たいこう田和でんかが、遂に斉公に任じられた。



○中原諸国


さい

 ここで初めましての国である。武王ぶおうの弟、蔡叔さいしゅく姫度きどが封じられた国である……が、三監さんかんの乱を引き起こしてしまったため蔡叔は郭鄰かくりんに追放された。子の姫胡きこが徳ある政を為し遂げたため、改めて蔡への封爵を許された。

 細々と命脈を繋いでいったが、-447 年にによって滅ぼされた。


・魯

 哀公あいこうは南国のえつの力を借りて三孫氏を討とうとしたが失敗。殺された。悼公とうこう元公げんこうを経て繆公びゅうこうに至った。このとき孔子こうしの孫、孔伋こうきゅうが賢人であったため登用を志したが、これも失敗。なお孔伋こうきゅうは『中庸ちゅうよう』を書いた。

 孟子もうしは孔伋の門人である。魯の孟孫もうそん氏の子孫。幼い頃、母が孟子のため三度引っ越すほど熱心に教育に当たった。成長してから孔伋の教えを受け、政治の道を志すも挫折。『孟子』を編んだ。

 なお繆公は、史記では穆公ぼくこうと載る。諡号的には正反対の意味合いである。後に語る。


えい

 孔子こうしの孫である孔伋こうきゅうが衛に仕えていた。孔伋は衛公に対し苟変こうへんを将軍にすべきと進言。すると衛公は苟変が昔ひとりに対してふたつの卵を割り当てさせたことを理由に却下した。

「そのような些細な違反を理由に、彼の将才を埋もれさせるのですか?」

 そう孔伋は言いつのるが、衛公どころか配下達も苟変の登用を渋る有様だった。

 なので孔伋は言う。

「ここからこの国は混迷に向かうだろう。君主が国を運営するのに、その過ちを臣下が諫めない。臣下の過ちを士庶が正そうとすることもない。これでは詩経しきょう正月せいげつの言う具曰予聖ぐえつよせい誰知烏之雌雄すいちうししゆうそのものではないか! カラスの雌雄も見分けられぬ者どもに聖人とあがめ奉られてどうしようというのか!」

 曽先之先生は衛がお嫌いのようで、まともに衛に言葉を割かれようとなされぬ。



しん


 出公の時代にちょうかんの四氏がはん中行ちゅうぎょうの二氏を滅ぼしてその旧領を分け合った。出公は四氏に怒り、攻めようとしたが逆襲を受け逆に追放され、出先で死んだ。

 哀公あいこうが立つと、韓、趙、魏氏が、今度は知氏を滅ぼす。

 幽公ゆうこうが立ったとき、晋の領土と言えるのはもはやこう曲沃きょくようの二都市のみであった。

 烈公れつこうの代となる -403 年、威烈王が韓、趙、魏氏を侯として認定。いわゆる三晋分立さんしんぶんりつである。前述の通り、多くの場合ここを戦国時代せんごくじだいの始まりとする。


・趙

 襄子じょうしが立つと、襄伯じょうはく智瑶ちようが韓氏、魏氏、趙氏に領土の割譲を迫ってきた。魏の桓子かんし魏駒ぎくと韓の康子こうし韓虎かんこは割譲に応じるも、襄子は拒否。このため知伯が韓、魏を率いて趙に攻めてきた。

 襄子は晋陽しんように立て籠もり、三氏を迎え撃つ。対する三氏は晋陽を水攻めにした。

 水は晋陽城の天井までわずか 1.5m の所にまで迫り、沈んだかまどに蛙が住み着くほどの事態になったが、晋陽の民が叛意を抱くことはない。一方で襄子は裏で魏桓子と韓康氏に手を回し、三者合同で知伯を攻め、討ち果たす。知伯の旧領は趙、魏、韓で分配とした。

 襄子は知伯の頭蓋骨を漆で塗り固め、酒の杯あるいは尿瓶とした。この報復行為に怒りを覚えた者がいる。知伯の配下の豫讓よじょうという。

 彼は復讐を志すも失敗、襄公の前に引っ立てられる。その振る舞いを義とした襄公はいちど彼を釈放した。

 とは言え、それで諦める豫讓ではない。彼は浮浪者に身をやつし、襄公が使う橋のたもとに隠れ、チャンスをうかがう。

 すると橋の手前で襄公の車を引く馬がいななき、立ち止まった。襄公があたりを捜索させ、豫讓を発見。いくら義士でも、二度目に恩情を掛けるわけにはゆかない。こうして豫讓は殺された。

 襄子じょうしは兄の孫、献子けんし趙浣ちょうかんを後継者とした。その子が烈侯れつこう趙籍ちょうせきで、威烈王より正式な諸侯認定を受ける。つまり、ここからが戦国趙である。


・豫譲

 元々、范氏や中行氏に仕え、その後知氏に仕えた。そんな彼は罪人に身をやつし、懐に刀を収め、襄子の家のトイレの壁塗りに従事。胸騒ぎした襄子により施工人たちの身柄を改めたところ、豫譲の紛れ込みが発覚。捕らえられた。

 襄子が豫譲に問う。

「あなたのもと仕えていた范氏、中行氏を滅ぼしたのは他ならぬ知氏であったろうに。何故、その知氏のためにこのような真似に出るのだ?」

「范氏らは私を並の人間として取り立てました。故に並の人間として振る舞いました。知氏は私を国士として遇してくださいました。故にそれに報いるのです」

 なるほど、義の男だ。感じ入った襄子は豫譲を釈放。こちらで豫譲を避ければよいだけだ、と言う。

 釈放された豫譲だが、当然再び狙う。身体に漆を塗って肌をただれさせ、炭を飲み込んで声を潰し、乞食のような風体となる。妻ですら豫譲と気付かぬほどだ。見かねた友人、豫譲の才能であれば襄子にも気に入られるだろうに、そのほうが復讐の機会がめぐってきはすまいか、と諫めるのだが、豫譲は首を振る。

「仮にでも君臣の結びつきをなせば、それは裏切りとなる。おれはあえてこの振る舞いを貫くことで、裏切りをして恥じぬ者たちを辱めたいのだ」

 そして再び襄子に捕まり、殺された。


・魏

 桓子の代に韓氏や趙氏とともに知氏を滅ぼし、その封地を分かち合った。

 桓子の孫、文侯ぶんこう魏斯ぎしの時に威烈王より諸侯としての認定を受けた。


・韓

 康子のときに趙、魏とともに知氏を滅ぼした。その二代のちが景侯けいこう韓虔かんけん。武烈王より侯に命ぜられた。



○楚


 惠王けいおうののち簡王かんおうののち聲王せいおうの代に三晋分立が起こった。



○秦


 悼公とうこうののち厲公れいこうののち共公きょうこうののち躁公そうこうののち懷公かいこうののち靈公れいこうののち簡公かんこうの代に三晋分立が起こった。

 楚に較べて代数が多すぎぬか。血なまぐさすぎるぞ秦。



 ○



 と言うわけで、春秋の世が終わる。それにしても三晋の知氏打倒と三晋分立以外特にイベントはございません、位の勢いである。そして蔡も、まともに事績の残らぬ楚に滅ぼされるなど、いったい何のために名を挙げたのですか、位の勢いであるな。曽先之さんはこの辺り、もう興味関心が戦国時代に飛びまくっておるのが伺えて良い。


 さて、ここまで十八史略の記述に敢えて従い、それ以上のことはできるだけ書かぬようにした。正直ツッコミを我慢するのに疲れ果てておる。そこで戦国時代に突入するに先立ち、各国及び春秋五覇に対するコメンタリー、という名のツッコミを展開して参りたい。

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