第6話 春秋3 大夫の勢力拡大

 約6400文字。

 曽先之そうせんしは、露骨に春秋五覇しゅんじゅうごはに対しヘイトを決めた。この後現れるのは、中国的思想の大ボス……に後世の人間によってあげつらわれた残念なオッサン、孔子こうしである。

 じわじわと迫る、よくわからんレベルの争乱の気配をじわじわと感じながら、そんなクソな結末を迎えさせちゃダメでしょ、愛(仁)だよ、愛(仁)っ! ……と声高に叫んだオッサンと、オッサンが死んだあとのアポカリプスをお楽しみいただきたい。

 対応年代は -569 ~ -470 である。



しゅう


 -572 年、霊王れいおうが立つ。

 -551 年、孔子こうし誕生。

 -545 年に景王けいおうが立つ。

 -520 年に悼王とうおうが立つも、甥の姫朝きちょうに殺された。この事態を受けて晋が動き、姫朝を討伐。

 -519 年、敬王けいおうが立てられた。

 -479 年に孔子が死亡。

 -476 年に元王げんおうが立つ。


 なお周のひととして、この人が紹介されておる。老子ろうしの人で、姓が、名が、字は伯陽はくようもしくはたんであるという。周の倉庫番として働いていた。周に訪れた孔子こうしが老子に向け、君子についての質問を投げかけたところ、こう答えている。

「良い商人は財貨をしまい込んで、蔵が空であるかのように見せかける。君子は素晴らしい徳を身につけていても、それを見せびらかすことはない。故に愚か者のようにも見えるものだ」

 後に孔子は、弟子たちに語る。

「鳥が飛ぶことも、魚が泳ぐことも、獣の足が速いことも私は知っている。故にどのようにして彼らを捕まえれば良いのかもわかる。しかし、龍についてはわからぬ。老子について言えば、龍のようなお方だった、と言うより他ない」

 老子は周が衰えたのをみると、関所を抜けて周を立ち去ろうとする。すると門番が老子に言う。

「先生、どうか残される我らのために、お言葉をください」

 そこで道徳経五千文字あまりを著して与えて立ち去った。その後のことはわからぬ。その教えを継ぐ者として戦国時代、てい列子れっしもう莊子そうじが現れた。なお莊子はしばしば孔子を侮り、弟子たちをそしっておる。



えん


 おらぬ。



◯姜斉


 桓公かんこうより八代下り、-547 年に景公けいこうが即位。景公の補佐には晏子あんしがつく。節約を旨とし、みずからは一つの狐革の衣を三十年身につけ続けた。祭で捧げる豚の肩肉もほんのひとかけらほど、それでいて晏嬰の施しを受けて生活出来ているものが七十世帯ほどもあった。

 晏子が外出しようとしたとき、その場車を引く御者は四頭の馬を率い、いかにも誇らしげであった。それを影で見た御者の妻は言う。「ご主人様があれだけ謙虚なのに、その召使いのあなたが威張り散らすなんて! もうあなたとは離縁します」

 それから御者はすっかり謙虚になった。突然態度の変わった御者を不思議に思い、晏嬰がそのわけを尋ねる。御者が正直にあらましを話すと、素直に身振りを改められる御者に感心し、幹部に推挙した。

 景公が晏子をしんに使わせた。そこで叔向しゅくこうと密かにささやき合った。斉は将来ちんから来た男に乗っ取られるだろう、と。そう、でん氏のことである。


・田氏

 陳完ちんかんの五世代のちの人物が釐子りし田乞でんきつ。景公に仕え、租税の徴収にあたった。彼は民から年貢を納めさせるにあたっては通常よりも少なめに徴収し、種籾を貸し出すときには通常よりも多めに貸し与えた。こうして人心を買ったのだが、景公はこの振る舞いを食い止めることができなかった。晏子が田氏に乗っ取られると危惧したのは、まさにこのことである。

 釐子はそこから斉の中枢に食い込み、政を恣として、死亡。子の成子せいし田恒でんこうも同じく斉の政治を乗っ取り、簡公かんこうを殺し平公へいこうを立てた。すでにこの頃、田氏の封爵地は斉公の封爵地よりも大きくなっていた。

 成子が死ぬと襄子じょうし田盤でんばんが立った。



◯中原諸国


そう

 -480 年に火星がさそり座アンタレスの側に来た。当時の宋公、景公けいこうはそれを見て怯えた。火星が災いの象徴、アンタレスが宋の象徴だったためだ。星見役が「災いをよそに移してしまえばいい」と言ったが、景公は「他の者になすりつけるのはよろしくない」と突っぱねた。星見役はそのもの言いに感動。改めて火星を観測すると、何と! アンタレスから一度離れていた。

 そう……。


そう

 武王の弟、曹叔そうしゅく姫振鐸きしんたくが封爵を受けた国である。春秋の荒波を何とか乗り越えていったのだが、前 487 年にいたり、そうによって滅ぼされた。

 そう……。


 襄公じょうこうが死亡し、昭公しょうこうが立つ。ここで昭公が季孫氏きそんしを征伐しようとしたところ、却って三孫氏連合からの反撃を受け、けんの国に逃亡。逃亡先で没した。

 弟の定公じょうこうが立った。この頃、孔子が中都ちゅうとという町の長官となった。就任後一年で周辺地域を帰服させたため、その功績から司空、大司寇と昇進した。

 この頃隣国のせいとの間で領土紛争があった。その調停のため定公と斉の景侯けいこうが会談することになる。孔子の取り仕切りにより、うん汶陽ぶんよう龜陰きいんの返却が決定した。

 また孔子は中央で幅をきかせていた三孫氏の権限の削減にも成功。代わって宰相として任じられ、就任七日目にして政を乱していた少正卯しょうせいぼうを処刑。三ヶ月も経てば魯は大いに治まるようになった

 これを聞いて脅威に思ったのが、斉だ。そこで女性ばかりの楽士を季桓子きかんしにプレゼントした。その楽団で定公を享楽に溺れさせ、政や祭祀を疎かにさせた。この有様を見て孔子は魯を去った。三孫氏の権勢も復活した。

 定公が死ぬと哀公あいこうが立った。


・孔子

 別枠で紹介しておこう。名はきゅう、字は仲尼ちゅうじ。元々はそうの家門である。宋にいた正考父せいこうほが慎み深く宋公に仕えていた。宋公より三度に渡り直接の昇進命令があったが、それを受けるたびに謙譲ぶりが増したという。日頃使っている食器に「平身低頭を心掛けよ、この食器で職を得るのみで十分なのだ」と刻んでいた。

 宋の孔氏は滅んだが、その子孫がに移り住んだ。叔梁紇しゅくりょうこつがん氏の娘を嫁に迎え、孔子を産んだ。幼い頃から礼祭にまつわるまねごとを遊びとした。やがて季孫きそん氏の穀物庫管理人、家畜管理人として大きく功績を挙げた。

 しゅうに赴いて老子ろうしより礼を学び、帰還した頃から弟子がつき始めた。せい景公けいこうは魯で言う季孫氏と孟孫もうそん氏との間ほどの待遇で孔子を召し抱えようとしたが、果たせなかった。孔子は魯に帰還。定公のもとで大司寇にまで出世する。

 定公と齊景侯との間で紛争調停の会談が開かれるに際し、孔子は定公に兵力も動員するよう進言。実際に会談になってみれば、宴と称して斉が定公を捕縛しようと目論んできた。

 孔子が進み出る。

「両国のよしみを結ぼうという場で卑俗な楽を掛けるとは何事か!」

 そう言って楽士を追い出し、或いは首を刎ねさせる。裏で糸を引いていた景侯は孔子を恐れ、三郡の返却を受け入れたのである。

 その後も孔子は魯の国政のために働いたが、斉の謀略によって定公が政を顧みなくなったことに絶望、魯を脱出した。

 以下が魯から出た孔子の遍歴である。

 えいちんきょう

 衛→そうそうていちん

 衛→しん(途中で引き返す)→

 衛→陳→さいよう→蔡→

 衛→魯。

 衛が中間地点すぎる。

 とりあえずどこでも登用されなかった。

 匡に出たとき地元の人間に襲われた。昔その地で悪行を働いた陽虎ようこに似ていたためである。

 宋では大きな木の下で弟子たちに教えを説いていたところその木を桓魋かんたいに切り倒されてしまった。

 鄭のひとには「立派な風貌だが、家を失った犬のようにも見える」と言われた。

 晋の趙簡子ちょうかんしに会おうと黄河こうがまで出たところで趙簡子が賢人を殺したと聞く。そこで孔子は「この洋々たる黄河が私を引き留めてくれたのだ。渡らずに終えたのも天命なのだろう」と、晋行きを断念。

 蔡にいたとき、南の大国、楚から孔子を招きたいと話があった。陳と蔡の幹部らは孔子が楚に召し抱えられたら危険だと判断、兵を派遣し孔子を囲む。孔子は思わず、嘆く。

「野牛でも、虎でもあるまいに、ただ平原を歩かされている(※詩経しきょう小雅しょうが 何草不黄かそうふおう)。これは我が辿りし道が誤っていたのか」

 弟子の子貢しこうが言う。

「先生のたどられる道が偉大すぎるので小人は気付けぬのです」

 同じく、顔回がんかいが言う。

「気にすることはありません、道は君子の後ろにこそできるのです」

 楚に到着すると昭王しょうおうが軍を率いて出迎えた。そして幹部待遇で登用しようとしたが、宰相の子西しさいが反対する。なので結局衛に帰還した。

 魯の宰相、季康子きこうしが衛に訪れ、魯に戻ってくるよう請願。戻ってきたときに魯は哀公あいこうの治世であった。哀公は孔子を顧問的扱いにはしたが、登用はしなかった。

 孔子はそこから政治を諦め、読書著述に専念した。いわゆる『書経しょきょう』『詩経しきょう』を編纂。『易経えききょう』は綴じ紐が三度ちぎれるほどに読み込んだ。

 そして魯の歴史書『春秋しゅんじゅう』をも編んだ。隠公いんこうから哀公までが語られ、「獲麟」と書かれ終わっている。瑞兆とされる神獣がたかだかそこいらの狩人に捕まえられるほどになってしまったのか、と嘆いたとされる句である。その文辞は文章力の高さで知られる高弟、子夏しかでさえ手を加えることはできなかった。

 弟子は三千人、うち高弟が七十二人。孔子は七十三才で死亡。子の孔鯉こうりは夭折しておる。


えい

 周の武王ぶおうの弟、康叔こうしゅくが封じられた地である。-496 年、霊公れいこうの時代に夫人の南子なんしが乱を起こした。子の姫蒯聵きかいきが南子を倒そうとしたが失敗、国外に出奔した。霊公が死ぬと、姫蒯聵の子の出公しゅつこうが霊公のあとを継いだ。姫蒯聵はそれを聞いて衛に戻ろうとしたが、出公は拒否。

 これが礼に合ったものではない、と非難した者がいる。孔子こうしの高弟、子路しろである。そのため出公は子路を殺害。このとき子路の冠の紐が切れたのだが、「君子は死しても冠は脱がぬものだ」と紐を結び直してから死んだ。

 子路はその後塩漬けにされた。それを聞いた孔子は、自宅の塩漬けをすべて捨てたという。


てい

 -501 年に聲公せいこうが公位についたとき子產しさん(本名は國僑こくきょう)が宰相として施政を助けた。孔子が鄭を通過したとき、子產と兄弟のごとく接した。-605 年の襄公じょうこうの就任以来、鄭は毎年しんからの攻撃を被っていたのだが、子產の時代にはそれをはねのけるだけの外交ができていたそうである。



○晋


 悼公とうこうが即位した時代にやや盛り返したが、平公へいこう昭公しょうこう頃公けいこう定公じょうこう出公しゅつこうと代を重ねるごとに晋の威光はどんどん下がっていく。

 代わりに勢力を増してきたのがはん氏、氏、中行ちゅうぎょう氏、ちょう氏、氏、かん氏の六家であった。


・趙

 文子ぶんしが死ぬと、景叔けいしゅくを経て簡子かんし趙鞅ちょうおうの代となった。家臣によく諫言を為す周舍しゅうしゃおったのだが、彼が死ぬと、政務のたびに簡子は直言でこちらを諫める者がいなくなってしまった、と洩らした。

 簡子にはふたりの子がいた。趙伯魯ちょうはくろ趙無恤ちょうむじゅつである。ふたりに訓戒を記した木簡を授け、三年後に訓戒について問う。すると伯魯は訓戒をまるで覚えないどころかなくしたと言い、無恤は訓戒を暗記していた上、常に懐に収めていた。このことから趙無恤を後継者として定めた。

 趙の封地の内、晉陽しんようは国土防衛の要地である。そこを尹鐸いんたくに守らせることになった。尹鐸は統治方針を使役とするか保障とするかを問う。簡子は保障にせよと答えた。すると尹鐸は租税を減じ、晋陽の民より讃えられるようになった。なので簡子は趙無恤に、いざとなったら晋陽に頼るように、と言い残した。

 簡子かんしが死に、襄子じょうしが立った。


・魏

 この時代で著名であった魏氏は魏絳ぎこうの四世代下、桓子かんし魏駒ぎくである。ただし具体的な事績は次代に下りる。


・韓

 韓厥かんけつの五代のちの康子こうし韓虎かんこの名が挙がる。とは言え韓虎はもしやすると完全に次代やも知れぬ。なにぶん韓氏当主についた年代が不明なのである。とはいえ三晋を一応揃えておかねば据わりが悪いためここにも名を置いておこう。



えつ


 共王きょうおうののち康王こうおうののち郟敖きょうごうののち靈王れいおうののち平王へいおうののち昭王しょうおうののち惠王けいおうが即位した。

 王名だけなら載せるだけ無駄ではないか?


・呉

 壽夢じゅぼうには四人の子がいたが、上の子が王になっては死にを繰り返し、末っ子の季札きさつの番となった。

 季札は賢人であり、元々壽夢は季札にあとを継がせるつもりであった。しかし季札は義に添わぬ事と断固として拒否、延陵えんりょうに逃れた。

 季札は各地へ使者として出向いたのだが、その途上にさしかかったじょの君主が内心で季札の腰に提げていた宝剣を欲していた。それに気付かぬふりをして各地を巡った季札、帰途にて再度徐に立ち寄る。するとその君主が死んでいたため、墓に例の宝剣を捧げ、帰還した。

 結局王位は次男の子を経て、長男の子である闔廬こうりょにもたらされた。闔閭は伍子胥ごししょと共に国事を運営する。伍子胥は出身で、父が殺されたため呉に亡命してきたのである。

 闔廬と伍子胥は、その卓越した指揮力でもって楚の都を陥落させる。しかし呉の南からえつが攻めてきたので撤退、追い払う。後年、その越を討とうとしたら、よりによって闔廬が戦死。子の夫差ふさが立った。

 伍子胥ごししょは引き続き夫差ふさにも仕えた。夫差は復讐の思いを忘れぬため朝な夕な薪の中で寝起きし、入ってくる者には「夫差よ、えつ人が貴様の父を殺したこと、忘れたのか」と言わせた。

 後に夫差は見事越を破る。このとき伍子胥は越王の句踐こうせんを殺すよう求めたが、却下された。句踐より賄賂を受けていた伯嚭はくひからの助命嘆願を、夫差が受け入れてしまったためである。

 しかも伯嚭は夫差に対し、伍子胥が却下を恨んでいると讒言。これを聞いた夫差は伍子胥に屬鏤しょくるの剣を与え、自死するよう命じた。

 自殺に際し、伍子胥は家族に言う。

「我が墓にはの木を植えよ。呉王の棺となれようから。我が目をくりぬき、東門に掛けおくようにせよ。越が呉を滅ぼす様を見届けられようから」

 この話を聞いた夫差は激怒して、死体を長江に投げ捨ててしまった。人々は伍子胥を憐れみ、祠を建てたという。

 その後果たして越が呉を攻撃、夫差は敗北する。何度かの降伏を申し出たが棄却された。の滅亡に際し、夫差は「ああ、伍子胥に合わせる顔がない」と顔に皮衣をかぶった上で自殺したという。


えつ

 越については来歴がなく、いきなり越王の句踐こうせんの事績を語る。はじめ闔閭こうりょに勝利するも、夫差ふさに敗北した。このとき夫差に対しては「私を臣下に加えてください、妻は妾に差し上げます」とまで言い切っての助命嘆願をなしていた。伯嚭はくひに賄賂を投げ込んだため命は助かったが、心は屈辱に燃えていた。

 国に戻ると寝室に辛い胆を掛けておき、それを舐めては「あの恥を忘れるわけにはゆかぬ」と自身を奮い立たせた。政治は大夫のしゅに一任し、自らは参謀の范蠡はんれいと共に練兵の日々を送る。

 二十年の後、遂に軍を興して呉に進軍、打ち破る。夫差よりの降伏申し入れについてはことごとく拒否、自殺に追い込む。こうして呉を滅ぼした。

 その後、范蠡は勾践の元を去った。残された種は勾践の猜疑心を浴び、殺された。


范蠡はんれいと大夫のしゅ

 越が呉を滅ぼして間もなく、范蠡は種に書き置きを残して国を立ち去った。そこにはこうあった、「越王は苦難を共にはできるが、安楽を共にできるお方ではない。あなたも立ち去るべきだ」と。

 種は病と称して参朝しないようにしたが、そのせいで却って「反乱を目論んでいる」との讒言を受け、自殺を強要された。

 范蠡は身軽な旅支度に持ち運びのしやすい宝玉を持ち、湖や長江を越え、斉の国に脱出。鴟夷子皮しいしひと偽称し、貨殖に励んだ。その手腕を見た斉の人たちは彼を宰相に、と推薦。

 推薦を受け、范蠡は嘆息する。

「財産を稼ぐだけ稼ぎ、政務に就けば宰相にまで至った。平民としての極みに達した、と言っていい。この座に長く居続けるのは危ういだけだ」

 すぐさま宰相の印綬は斉に返還、家財一式も周辺に分けて回り、再び身の回りのものだけ持ってとうの地に脱出する。そして陶の地でもまた財を築いた。

 人の猗頓いとんが范蠡に、どうしてそんなに金持ちになれたのか、と聞く。すると范蠡は牛を五頭飼え、と答えた。

 アドバイス通りにしたら、十年もするうちに猗頓も大金持ちとなった。こういったこともあり、大金持ちの代名詞と言えば陶朱猗頓と挙げられるようになったそうである。



○秦


 康公こうこう共公きょうこう桓公かんこう景公けいこう哀公あいこう惠公けいこう悼公とうこうと連なったそうである。

 文字数。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る