混ざり者王子の長い三年

 初めて彼女に出会った時の第一印象は、“珍しい子”だった。

 二千年以上生きている自分が活動するのは生まれてからずっと同じ雪山で、遭難した人間の死体なんて腐るほど見てきた。もちろん生きたまま倒れている人も初めてじゃない。


 ただいつもと違ったのは、彼女が子どもで、一人だったこと。


 魔族の地にわざわざ来る人間は居ない。大半は迷い込んだ挙句の遭難だ。そもそも子どもが来ることはあまり無いのだが、来る時は親と一緒の場合が多い。大体は親が子を守るように抱いていて、中の子だけが生き延びる。そういう悲劇ばかり見てきたからか、彼女は特殊な例に思えた。


 息はあるが、傷だらけで倒れている少女。その傷が人の手によるものであることは明らかで、一人であることといい、彼女が普通でない状況にあることはすぐに分かった。



 もちろん放置するような薄情者ではないので、彼女を抱いて吹雪が避けられる洞窟へ入った。

 いささか浅くとも息はある。速く傷を手当てしなければと思い、彼女の肌に触れたところ…。


「痛っ⁉︎」


 焼けるような痛みに、瞬時に彼女から手を離した。よく見ると、触れたところが赤く腫れて熱を帯びている。

 火傷したのか?そうなれば思い当たる可能性は一つだけ。彼女が勇者の末裔であるということ。


「なるほど、君が…。」


 聖女というのは勇者の子が始まりで、約二千年の間で数十年に一度、その他に聖女が居なくなった時に生まれる。勇者の子孫の中でも聖女は聖なる気が特に強く、拒否反応も逸早いちはやく出る。

 久しく人里には行っていないので今の聖女についてはよく知らないが、拒否反応の度合いを見るに恐らくこの子だろう。


 それにしても、大切にされるはずの聖女が何故ここにいるのか?それに見たところ、彼女には治癒阻害の呪いがかかっているらしい。

 父から受け継いだ特殊な眼のお陰で魔力の流れがうっすら見えたものの、不可視化されていて魔法陣が見え辛い。俺は着けていた仮面を外し、己の魔眼に力を込めた。


 そうして見つけた魔法術式を解こうとすると、ズキッ、と目に鋭い痛みを覚える。この術式も聖なる魔力によるものらしい。呪いというのもあってか拒否反応が弱いため、術式の瓦解はそれほど難しくなさそうだ。


 呪いの術式を解く際に、俺は少しの違和感を覚えた。


 そもそも呪いとは魔法の一種であり、呪いと普通の魔法の違いは魔法陣の効果を持続させるものか否かである。呪いは魔法陣の効果を持続させる分魔力を消費し、解除するか術者の魔力が尽きるまで解けることはない。


 彼女に刻まれた術式はとても丁寧に書かれているが、重大な欠陥があった。呪いの持続のための魔力が必要以上に消費され、あっという間に術者が消耗する術式になっていたのだ。魔力が底を尽きれば、その人の命にも関わる。

 丁寧に書いておきながらここまで大胆なミスがあるのは不自然だ。もしかしたらこの呪いは、この子を殺めるためだけのものではないのかもしれない。


 しかし意図があったとて、放置しても彼女がつ保証は無い。それに術者だろうと被害者だろうと、人は死なない方が良いに決まっている。俺は躊躇なく魔法術式を瓦解させ、呪いを解いた。



「さて、どうしようかねぇ?」


 呪いは解いたが、それで傷が治るわけでもない。普通の処置をしなければ、この子は死んでしまう。しかし魔族である自分は、彼女に触れると火傷してしまう。


「まぁ、良いか。」


 触れ続けたらまずいが、多少接触して火傷するうちは構わない。それに、左手だけなら偶々たまたま手袋はしている。利き手じゃないが、なんとかなるだろう。処置の為とは言え女性の服を脱がすのは抵抗があるが、言っている場合でもない。

 この子の目が覚めたら、その時に謝ろう。


***


 この少女は、想像より強い子だった。当初は衰弱して危なかったものの、ギリギリ耐えて意識を取り戻した。さすがは勇者の子孫といったところか。


「お目覚めかい?お嬢さん。」


 声をかけられ、彼女の体がピクッと反応する。彼女が俺を見る目には、驚きと警戒が混ざり合っている。まぁ、仮面をつけたローブの男なんて、警戒して当然だろう。


 喉が渇いていると思って水を差し出すが、見知らぬ男から受け取るわけないか、と自嘲する。しかし彼女は受け取り、普通に飲んだ。彼女を見るに、何も考えていないと言うより、何も恐れていないといったところか。


「あなたが私を助けてくれたんですか?」


 喉を潤した彼女が、初めて口を開いた。


「拾っただけだが、そういう事になるんだろうね。ここらで生きて倒れている子どもは珍しいと思って。」


 俺がそう言うと、彼女は自分の身体の状態をマジマジと見始めた。包帯が痛々しいが、じきに外れることになるだろう。

 あ、謝り忘れてた。


 治療時に服を脱がせたことを謝ると、彼女はなぜ謝られているのか分からないようで、しばらくきょとん、としていた。自分の体を見ながら考え、やっと俺の言葉の意味に気がつくと、


「お気になさらず。助けていただいたのに、贅沢は言いません。」


とあっさり言い切られてしまった。おやまぁ、なんとも潔い。年頃の女性とは思えない冷静さだ。悪く捉えれば、諦観だろうか。


「じゃあ、水分が摂れたらもうお休み。まだ回復はしていないんだから。」

「は、はい…ありがとうございます。」


 意識は取り戻したが、傷が治ったわけではない。人間は魔族ほど頑丈じゃないし、大事をとるに越した事はないだろう。


 彼女がボトルを返そうと手を伸ばす。その際、俺は受け取るために何気なく利き手を出してしまった。


「あっ。」


…間違えた。そう思った時は手遅れで、彼女の手に触れた部分が微かに音を立てて、煙をあげた。


「あなたはもしかして…。」


 彼女も気がついたようで、俺をまじまじと見ながら尋ねる。


「…魔族、なんですか?」


 勇者の子孫なら、すぐにその結論に辿り着くのは当然だろう。しかし俺にいた彼女は、非常に落ち着いている。今の時代に魔族なんて見たことも無いだろうに、怯えることもなくただ冷静だ。

 怖くないのかと尋ねたら、彼女は淡々と自分の意見を述べた。


「別に…。魔族のことはよく知らないし、あなたが命の恩人であることに変わりは無いので。」


 彼女の回答に、俺は仮面の裏で目を丸くした。彼女が当たり前だと言うように話した内容は、俺の知る人間のものとは全く違ったから。


「ふっ…ハハハッ!」


 魔族は知らないときた。分かってはいたことだが、二千年前を知る俺にはどうしても可笑おかしな話だった。

 なるほど、時代はこうやって変わっていくのか。


「ハハッ、そうか、よく知らないか…。やっぱり人間の二千年は長いらしい。」


 大笑いする俺を見て、彼女は訳が分からないというように首を傾げる。側から見たら確かに、男が突然爆笑するなんて奇妙な光景だろう。


「君、聖女なんだろ?」

「…はい。」

「じゃあ、俺達の天敵か…。さて、どうしたものかねぇ?」


 顎に手を当てて考えるように言ってみる。別にどうする気も無いのだが、先程から彼女が無表情でつまらないので、少し揶揄からかいたくなった。しかし、やっぱり冷めたような目で見られた。

 やれやれ、これではただの痛い老人だな。


「おやおや…。何もしないと思うかい?」

「はい。あなたは手を痛めても手当てしてくれる善人のようですし。それに、どうせ助けられなければ死んでいたので、恐れるものもありません。」

「そうか…。」


 じゃあ良いかと思い、俺は久しく外していなかった仮面を脱いだ。少しずらすだけで冷気が入り込み、完全に脱ぐと凍ったように冷たい風が頬を冷やす。

 仮面の中を見せた俺を、彼女は物珍しそうに見る。


「俺が人間に見えるか?」

「…どちらとも言えません。」

「ほう…?」


 素直に思ったことを答えた彼女に、自然と口角が上がった。


「…正解だよ。俺は人間でも魔族でもないからね。」


 流石の彼女も、俺の言葉に目を見開く。そりゃあ驚きもするだろう。魔族でも人間でもないなんて、二千年以上生きる俺でも自分以外には知らない。


「俺の父は魔族で、母は人間。つまり俺は、半分魔族で半分人間。魔族でも人間でもない何か、なのさ。」


 父から受け継いだ黄金色の魔眼に、左頬の奇妙な痣。どちらも魔族と人間の両方の血を継いだ故のものだ。

 普通の目で見れば、なんと奇怪な存在か。しかし、彼女は目を見開くことはあれど、声をあげたり怯えたりすることはない。


「…君は動じないね。」

「動じる理由も無いので。」

「そうか?俺の顔を見た人間のほとんどは怯えるか敵意を向けるかなんだが…。変わってるね、君。」


 そう言ったら、今若干むっとした表情を見せた気がする。もしかしたら分かりにくいだけで、感情は豊かな子なのかも知れない。


「別に、動じるような容姿ではありませんよ?」

「それは褒め言葉なのかな?」


 俺の容姿で動じないなんて、勇者以来だ。その子孫なだけはある。いわゆる、血は水よりも濃いってやつか。


「…まぁ良い。君は傷が治ったらどうするつもりだい?」


 俺の質問は、きっと酷なものだろう。詳しい事情は知らないが、彼女は命を狙われ、国を追われた。彼女に行き場がないことは状況から見ればすぐに分かることだ。

 彼女はしばらく黙り込み、また口を開く。


「…分かりません。私は聖女としての生き方しか知らないので。」

「なるほど。これから考えるってことかな?」

「そうなります。」

「そうか…じゃあ、決まるまでここに居ると良い。」


 その言葉は、いつの間にか口をついて出ていた。

 聖女でありながら人間に追放され、居場所を失った少女。そんな彼女の境遇を、自分と重ねていたのかもしれない。


「えっ?」


 珍しく彼女が声を出して反応した。呆気に取られたような表情で、その目には迷いがある。


「だって、行く宛ては無いんだろう?こんな年中極寒の地で、君一人では生きられない。それに詳しい事情は知らないが、見たところ命を狙われたみたいじゃないか。また狙われるかもしれないよ?」

「うっ…。」


 図星を突いたみたいだ。しかし彼女は怪訝な目を向けて警戒している。無理も無いだろう。彼女は殺されかけた直後だし、第一に俺は人間じゃない。


「まぁ、無理強いはしないけどね。それに、今結論を出す必要は無い。君の傷が完全に回復するまでは時間がかかるだろうから。」

「はい…。あの、どうしてそこまで?」

「俺を避けようとしない人間は初めてだからかな。とても興味深い。」

「…観察対象ですか?」

「そんな言い方しなくても。」


 彼女は一体俺を何だと思っているのだろう。いや、これから知ってもらうのか。


「まぁ簡単に言えば、久しぶりに人間と関わる気になったってことだよ、聖女様。」


 『聖女』と言った瞬間、彼女の表情が歪んだ。どうやら『聖女』と呼ばれるのはおいやなようだ。


「その呼び方はやめていただけますか?私はもう聖女とは言えません。」

「そうなのか?ではどう呼ぼうか…。君、名前は?」

「…コルリ、です。」

「そうか。呼び名でバレたら困るし…。じゃあ、愛称としてルリと呼んでも良いかな?」

「…はい。」


 先程の嫌そうな表情から打って変わって、今度は少し口角が上がっている。気に入ってもらえたのかな?


「ええと…あなたの名は?」



 名前をかれるのは幾年いくとせぶりだろう。俺の名を呼んでくれたのは、とおに死んだ父と母…そして、勇者だけ。


『君の名前を、教えてくれるか?』


 二千年前、戦いが決した直後の魔王城で、勇者は尋ねた。二人の戦いの間、玉座の裏に隠れていて、後に勇者に見つかった時のことだ。

 戦いに勝利した勇者は父の血に塗れていたが、その頬を濡らしていたのは返り血ではなく涙だった。

 彼の表情が、未だに忘れられない。勝ったはずの勇者は少しも嬉しそうではなく、反対に父の死に顔は、何故か少し笑っていた。


 俺を見て涙を浮かべた勇者からの質問。本来なら恨めしいはずなのに…結局、俺は彼を憎むことができなかった。


『俺の名は…———



———ノエ。そのままノエと呼んでくれ。」


 名前を教えたのは、勇者以来。俺の名を知る人間は、今の世では唯一人、彼女だけだ。


「これからよろしくね、ルリ。」

「はい、こちらこそ。」


 手袋をした方の手で彼女の手を握る。

 こうして、彼女との長い三年は始まった。




 ルリと出会って俺は彼女から様々なことを聴いた。人間の国が今どんなものか、聖女がどのような扱いを受けるのかなどを、彼女の愚痴と共に聴いた。彼女に手をかけたのは彼女の従兄いとこらしい。ルリいわく、彼は王家の言いなりなんだとか。

 愚痴を溢し始めた頃にはすっかり敬語が外れていて、当初の警戒は何だったのかと思うくらいに打ち解けていた。


 ルリは年齢の割に大人びて賢い子で、その上サバサバした性格の子だった。自国に未練は無いのかと尋ねたら無いと即答されたし、食糧調達の為の狩にも躊躇いが無い。

 しかし、それが不安でもあった。彼女は何にも期待せず、信じず、切り捨てるのが速い。そして時折、いつか彼女自身すら切り捨てるのではないかと、そう感じることがあった。


 だから、これからも一緒に居たいと言われたのは、正直意外だった。

 自分自身すら信じない彼女が、俺を信じているなんて思わなかったから。


 少しは好かれていると思っても良いのだろうか?そう思って一瞬心を浮き立たせるが、直後には暗い感情が生まれる。それが顔に出ていたのか、嫌なら出て行くと言われたが慌てて止めた。


「嫌なわけない。嫌じゃないから尚更…ね。」


 『尚更』…怖い。ルリと一緒に居れば居るほど、彼女の存在が俺の中で大きくなってしまうから。そうすればきっと、別れの時が辛くなる。だって寿命が異なる俺達は、そう長くは一緒に居られないのだから。


 ときが短いのならせめて、彼女には穏やかに生きてほしい。そしていつか、誰か大切に思える人と出逢ってほしい。その為に俺はこの日から、別れの時まで彼女を守ると決めた。



 とある夜のこと。ルリは寝床につき、俺はそれを見守っていた。


 魔族は人間と比べて体内時計がルーズだ。寿命が長いのと同じように、活動時間も睡眠時間も長い。生活リズムは魔族によるが、一度に三年ほど眠ってから五年ほど活動するのが、俺のリズムだった。もちろん、人間である母が居なくなった後のものだが。

 故に俺は毎日眠る必要は無く、少なくとも夜は寝ずに用心棒のようなことをしていた。この雪山は人間との戦いで敗北してから魔族の住処となっているため、他の魔族が人間である彼女を狙うことが度々あるのだ。


 そしてその夜も、刺客は現れた。

 ルリが起きないように、遮音魔法で俺達とルリの間に壁を造る。


「全く…また君かい?」

「…。」


 その魔族の名はリーチェ。彼女は真っ黒な髪と目、そして人間なら不健康を疑うくらい白い肌を持つ、典型的な魔族だった。俺より年上で二千年前の戦いを知る女性だが、それ故に人間を嫌っている。ルリを狙うのも、これが初めてではなかった。


「その女は勇者の末裔。生かしておけば災いを呼ぶ。」

「やれやれ、またその話か。」

貴方あなたは分かっていないだけだ、ノエ王子。」

「全く、君は本当に勇者が嫌いだね。」


 彼女は魔族で唯一俺を『王子』と呼ぶ。魔王だった父を慕っていたらしいが、そもそも魔王が魔族を束ねたのは戦争末期の僅か数ヶ月で、魔族の歴史では瞬きするほど一瞬のことだ。人間にとっての魔王は魔族の象徴かもしれないが、魔族にとっては戦いに負けて魔族を北の果てに追いやった戦犯。故に魔王を慕う魔族は、数えるほどしか居ない。その中でも人間の子である俺を認めるのは、彼女だけだ。


「当然のこと。彼者かのものは魔王様を手にかけ、魔族をここへ追いやった仇敵。そしてそれは、その子孫も同じ。」


 彼女は魔法陣を描き、黒い光線をルリの方へ飛ばす。俺は魔法で防御した後、魔眼で彼女の魔法陣を解除した。


「悪いが、彼女に手は出させない。」

「何故止める?この女は貴方あなたの父君を殺めた男の子孫だというのに。」

「彼女が殺した訳じゃない。それに俺は勇者を恨んでもいないよ?」

「お優しいことだ。父君の最期を忘れたわけではあるまい。」

「忘れていないから、恨めないんだ。魔王の死によって戦争は終わった。それこそ父の本当の望みだと思わないか?」

「…では訊くが、今の世は父君が望んだ世界か?」


 その問いに、俺はすぐ答えられなかった。

 魔族と人間は分断し、魔族は今や北の果てでひっそりと暮らす他無い世界。それが父の望みかと問われたら、もちろん回答は“否”だ。


「今の世は、勇者によってもたらされたもの。勇者を恨んでも可笑しくはないだろう?」


 確かに、恨む理由はあるのかもしれない。それでも、俺にはできなかった。だって、勇者が流した涙は嘘じゃなかったから。



『俺は、ノエ。』


 父の遺体の側で勇者に尋ねられ、そう答えた。


『ノエ…。そうか、ノエか。』


 噛み締めるように彼は何度も俺の名を口にすると、今度は口許くちもとを綻ばせた。


『ふふっ、あいつらしい良い名前だ。』


 口許を綻ばせているはずの彼の声が、徐々に震える。不思議に思って目を見ると、先程溜まっていた涙が溢れ出していた。


『ほんと…ユーリらしい。』


 “ノエ”という名は、人間の古語で“希望”という意味だと、母が言っていた。母は父から聞いて知ったらしいが、昔を生きていた父ならではの名だ。勇者は意味を知っていたらしく、彼が流す涙は止まるところを知らなかった。


『ごめんな、ノエ。ごめん…。』


 勇者は、被っていたローブのフードの上から優しく俺の頭を撫でてくれた。その手はとても優しくて、温かかった。



 この世界は、決して父が望んだ未来じゃない。それは、あの戦いを目の当たりにした俺が一番分かっている。

 だからこそ、勇者を恨んではならない。父が望んだ未来は、勇者が共に抱いた夢だから。


「…恨んだところでどうにもならない。納得できない世界なら、自分の手で変えるしかないんだ。」


 終戦から二千年、ずっと隠れて生きてきた。禁忌の子である俺は、母が死ねば一人で居るしかない。

 顔を隠し、誰とも深く関わらないでいるうちに忘れていた。かつてあの二人が見た夢は叶わないと諦めていた。


「リーチェ、約束する。俺は父の死を無駄にはしない。父の…二人の夢を叶える。だから、ルリに手を出すのは一旦待ってくれないか?」

「待つ?」

嗚呼あゝ。君が勇者を恨む気持ちが俺の言葉だけで変わらないことくらい分かる。だから待って欲しいんだ。俺には叶えられないと君が判断するまで。」

「私に委ねるとは…。明日殺しても文句は言えないぞ?」

「しないだろう?だって、君は魔王を知っている。」


 魔王を未だに慕い続ける彼女が、その望みを簡単に諦めるわけが無い。きっと彼女だって、その未来を願っているはずだ。


 リーチェは俺と、その後ろで眠るルリを見て、はぁ、と一つため息を吐いた。


「本当に貴方あなたは、あのお方によく似ておられる。」


 彼女はポツリと呟き、俺に背を向ける。


「約束は忘れませんので。」

「分かっているよ。」


 俺の言葉を聴くと、彼女は転移魔法でその場から消えた。

 魔法を発動した時に笑ったように見えたのは、きっと気のせいじゃない。



***


 ときは経ち、ルリと出逢ってから三年ほどが過ぎた。

 出逢った時はほんの子どもだった彼女は、今では一人の女性と呼べるくらいに成長した。

 リーチェとの約束は、まだ果たせていない。当然だ。たった三年でどうにかできるような問題なら苦労しない。

 そもそも俺は居場所が無いと言えど魔族の縄張りで生きてきたので、人間を知らなさすぎる。まずは相手を知るところから。それもあってずっとルリと共にり、最近は時折人間の街へ出るようにもなった。

 今の人間は戦乱を知らない為、殺伐とすることもない。きっと理想とする未来も不可能ではないだろう。



 そんなある日、人間の街から転移魔法で戻って来た俺は、住処にしていた雪山で見慣れない魔力の残滓を見た。

 ルリや勇者のものと似た、澱みも無く綺麗すぎる魔力の粒子。聖なる魔力特有の残滓で、見慣れない形だが初見でもない気がした。


「まさか…。」


 嫌な予感がして、すぐに洞窟へ走った。

 あの魔力はおそらく、三年前にルリの呪いを解いた時に見たもの。だとすれば、今彼女の身に危険が迫っている。


 どうか間に合ってくれ…。

 そう思わずにはいられなかった。



 嫌な予感というのは、やはり当たるものらしい。案の定と言うわけでもないが、予感の通り、彼女は洞窟の中で倒れていた。彼女の前では、若い人間の男がたたずんでいる。


「ルリ!」


 俺の声に反応して青年は振り返り腰の剣に手をかけるが、その額には汗が滲んでおり、息も切らしている。彼の魔力が少しずつ減っている様子は、俺の魔眼にはっきりと映っていた。

 彼の魔力の行く先は、ルリに描かれた魔法陣。おそらく、人体を毒で侵す呪いだろう。倒れている彼女は完全に目を瞑っており、血を吐きながらも辛うじて浅い呼吸を繰り返している。


「悪いが、君に構っている暇は無さそうだ。」


 すぐに呪いを解かねば、ルリが危ない。しかし勇者の末裔相手というのは、分が悪い。俺は魔族で、聖魔法や聖剣には純粋に敵わないのだから。

 俺が仮面を外して素顔を見せると、彼は驚きで目を見開き、すぐ様剣を抜いた。


「その姿…魔族か?彼女に何をする気だ?」

「おや…。彼女に手を出したのはそっちだろう、坊や?」


 俺が纏う魔力が、一層濃くなる。俺と違って人間には魔力そのものは見えないが、その圧は肌で感じられるものだ。


「今は少々気が立っているんだ。邪魔しないでもらおうか?」


 手元に魔法陣を描き、相手へ向けて火炎を放射する。聖剣で庇いつつもその衝撃を受けた彼は一歩後退り、その隙に俺は風魔法を駆使して空中での回し蹴りをかました。

 魔法が通用し難いなら、それ以外の方法で攻めるしかない。体術は得意なわけではないが、今は時間を稼げればそれで良い。


 俺はすぐルリに近づき、彼女にかかっている呪いを魔眼で見る。

 瞬時に術式を解こうとすれば聖なる魔力にあてられるが、時間をかけてはいられない。眼に激痛を走らせながらも、それを押して彼女の呪いを解く。

 呪いの魔法陣が消え去ると、ルリの呼吸が段々正常に戻る。一先ず安心した俺は、今一度彼に向き直った。


「余計なことを…。」


 呪いが解除され、彼の魔力の流出も止まった。しかし彼は、下唇を噛んで聖剣を握り直す。

 彼が俺に向ける目は鋭く、何としても俺を斬らんとする意志が感じられた。


「…このままじゃ、守れない…。」


 たった今彼が呟いた言葉で、俺は以前から抱いていた違和感の理由を察した。


 先ほど解いた呪いには、不自然な欠陥があり、三年前のものと同じミスだった。

 いや、“ミス”ではない。前は予想だったが、今は確信に変わった。あの術式はやはり、意図的に弄られたものだったのだ。



 術者の危険が伴い、殺意の欠けた術式。その理由は、彼が彼女を守ろうとしていたから。


 ルリの話によると彼は王家の言いなりらしいが、それはおそらく彼女を狙う魔の手を逸早いちはやく察知して守るため。そもそも彼女を殺めるなら、その胸に剣を刺せば終わる。自分自身に治癒魔法は使えないのだから、急所を狙われれば確実に命を落とす。呪いなんてまどろっこしい手を使う必要は無いのだ。

 前回に続いて今回も呪い殺そうとしたのは、その不確実さ故。しかし呪いは術者の魔力が切れるまで続くから、うっかり彼女を殺してしまわないように、あの欠陥のある術式を書いたのだ。その証拠に、彼の魔力が半分以下に減っているのが俺の眼に映っている。



「…なるほど、泣ける話じゃないか。」


 俺の呟きを聴いた彼は、訳が分からんといった風に怪訝な表情を浮かべる。だがこちらに向いている剣の刃先から、今にも飛び込んできそうな気迫を感じる。


 大切なものを守るために命をも捨てんとする覚悟は、年若いながら天晴あっぱれなことだ。やはり聖剣が選ぶのは、それに相応しい意志の持ち主らしい。


 思わずふっ、と俺が口角をあげた瞬間、彼は遂に聖剣を握ってこちらへ向かってきた。その刃は首元すれすれのところを通ると、そのまま首を刈る勢いで横向きに振り抜かれる。

 彼の斬撃は素早いもので、俺は避けるので精一杯。しかも先ほど呪いを解いた所為せいで、魔眼が使い物にならないどころか単純に目が見え辛い。今の状況は圧倒的に不利であった。


 瞬時に展開する魔法も、聖剣による彼の素早い斬撃の前には目くらましにもならない。集中状態なのか彼からは雑念が一切感じられず、俺に対する殺意だけがそこにあった。

 これじゃ話し合いに持ち込むことすら難しい。やりあうしかないとは思うものの、後ろにはルリが居る。無造作に強い魔法を使えば彼女に被害が及ぶし、魔眼が使えない今は細かい手加減もできない。


 思案していた最中に彼の渾身の突きが、ぼやけた俺の視界に飛び込んで来た。

 避けられない。直感的にそう思った。いや不可能ではないが、避ければ彼女に当たるかもしれない。

 しかし避けなければ、おそらく俺は助からないだろう。そう思えるくらいに、鋭くキレのある剣だった。


 聖剣が俺の腹部を貫く。剣と共に彼が近づいたところで、その身体に向けて魔法陣を展開した。

 右手で魔法術式を書く間に左手で彼の服の襟を掴み、彼の耳を近づけて囁く。


「陰に隠れるな。堂々と守れ。彼女を守りたいなら。」

「何?」


 彼が困惑の目を向け、俺がそれを見て口角を上げると同時に、魔法術式が完成した。


 正直なところ怪我させたくはなかったのだが、一方的に殺されては彼に対するルリの反感が増すだろう。怪我人であれば手も出しにくくなる。

 それに、彼が完全に恨まれても困る。俺が居なくなれば、彼女がリーチェに狙われるからだ。彼女は手段をえらばないし、ルリに対する温情も無い。ルリを守るためにも、彼はルリの傍に居てもらわなくては。


「…彼女を頼んだよ、現代の勇者くん。」


 それだけ彼の耳元で囁き、彼の腹部を蹴り飛ばすと同時に魔法陣を発動させる。火炎魔法によって爆発が起こり、彼は爆風で吹っ飛ばされる。煙が消えて姿が現れるが、彼は火傷と擦り傷でボロボロになって横たわっていた。


 微かに聞こえた呼吸音に安堵したところで、背後で小さく音がした。彼女の意識が戻ってきたらしい。

 彼女の前に膝をつこうとした瞬間、ガクンと力が抜けて思いの外勢いよくぶつけてしまった。そのまま倒れかかったので片手を地面につくと、身体の重みを実感する。どうやらあまり時間が無いらしい。


「ルリ、起きて…!ルリ!」


 彼女の肩を軽く叩いて呼びかけると、彼女は目を開いて俺の名を小さく呼んだ。

 彼女はちゃんと生きている。自分が守られるのではなく、自分が大切な人を守れたんだ。


「よかった…。今度は、にあっ、た…。」


 ほっ、と息を吐くと同時に、地面についていた片手の力も抜けた。

 気がついたら俺は地面に身体を打ちつけていて、起き上がることも出来なかった。


 それに気づいた彼女は勢いよく身体を起こし、俺を見て悲痛な声をあげた。


「ノエ!どうして…⁉」


 彼女はきょろきょろと周りを見渡して状況を確認する。現状を悟った彼女は、何も言わないままぽろぽろと涙を流し始めた。


「ルリ…泣かないで。」


 そう言って落ち着かせようとするけれども逆効果だったのか、涙が流れる勢いが増してしまった。

 残りの力で彼女の涙を拭うと、ジューッと焼けるいつもの音がこの静寂の空間で響いた。


「俺のために…笑ってくれないかい?」


 女性を泣かせたままにしておくなんて、紳士的ではないじゃないか。それに、最期にもう一度君が笑う顔が見たい。

 しかしそれはそれで彼女からしたら無理な注文だったようで、涙が止まる気配は無かった。


 すっかり大人になってしまったと思っていたが、涙を流す姿は幼い。彼女もまだ大人になりきれていないらしい。


 しょうがないなぁ、君は。


「ひどいなぁ…。最期のお願いくらい、きいてくれたって良いのに…。」


 おどけてわざとあざとく甘えるように文句を言うと、彼女は低い声で「嫌だ」と呟いた。


「嫌だよ…、そんなの。」


 彼女はそう言って視線を下げる。

 そうか、笑ったらお別れだと思っているのか。


「幸せ者だね、俺は…。」


 二千年生きてきたが、ここまで自分のことを想ってくれる人に出逢えるとは思っていなかった。別れたくないが故に俺の渾身のお願い事を断るなんて、可愛らしいことだ。


 ルリと過ごしたのは、二千年の人生の中でたった三年。俺にとっては本来、寝たら過ぎてしまう時間。それでもこの三年だけは、長くて濃い、かけがえのない時間で。


「君に出逢えて…よかっ、た…。」


 視界が暗くなり、ぼんやりと映っていた彼女が遠くなっていく。


「…私もだよ。」


 彼女の声が、小さくはっきりと聞こえた。

 死に際のはずなのに、俺の心は何故か満ち足りている。今なら、父さんの気持ちも分かる気がする。



 ねえ、ルリ。もしも人が生まれ変われるとしたら…。生まれ変わった世界が、人間も魔族も関係無い、平和な世の中だとしたら…。


…その時は、何にも邪魔されず君に触れることを許してくれるだろうか?



 今世では口にできなかった想いを、伝えても良いだろうか…?



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