聖女と混ざり者

林 稟音

聖女と混ざり者

 ここに、魔法が存在する世界があった。そこには人間とそうでない魔族が居り、人間は数が多い分魔力に乏しく、魔族は数が少ない分強大な魔力を有している。

 しかし、それは平均的に言うと、の話。魔族を凌ぐほど魔力が強い人間も居れば、普通の人間程度の魔力しか持たない魔族も居る。

 そして、魔力の強い者と弱い者が居るからこそ、強い者が上に立ち、弱い者が虐げられる、いわゆる格差社会が生まれた。

 と言っても、それは平和な世の中だからこそ成り立つもので、人間と魔族が戦っていた大昔は、強者が上に立つことはあれど弱者を虐げている余裕など無く、それぞれの種族が皆団結していたのだが。


 かく言う私は、戦いの無い平和な世で、強者として生まれた。

 私の御先祖様は、人間でも稀な聖なる魔力を持つ凄い人で、二千年前の魔族との戦争において人類を率いて戦い、その力を持ってして勝利に導いた英雄らしい。


 御先祖様も、その時代の強者だった。


 その遺伝子が受け継がれたのだろう。私は勇者と呼ばれた御先祖様と同じく聖なる力を持って生まれ、世界で唯一、治癒魔法を使える人間だった。魔力量は人間の平均ほどだったが、その特性によって私は聖女と呼ばれることになり、十五歳という幼さにも関わらず人間の国で畏敬の対象とされた。



 だが、私は今、吹雪の中で死にかけている。視界がホワイトアウトしている所為せいで、ここがどこかも分からない。分かるのは、自分は自国の人間に裏切られてここに居るということ。

 身体は攻撃魔法を受けた所為せいで傷だらけで、傷が深い箇所から流れる血が真っ白に積もった雪を汚す。


 治癒魔法で治せば良いと思われるかもしれないが、それは不可能だった。なぜなら、聖女が癒せるのは他人のみ。自分自身に治癒魔法をかけることはできないからである。


 聖なる魔力は、それ自体は特殊で性能が良いが、制限が多い。攻撃魔法は人間相手に通用しない、自身に加えて魔族にも治癒魔法は効かないなど、人間贔屓にんげんびいきな制約で縛られた力だ。

 そもそも聖なる魔力は魔族の持つ魔力と反発しあうもので、聖なる力を宿す者はその存在だけで魔族を脅かすと言われている。だから魔族と戦うには相性が良いが、人間相手にはそこまで有効ではない。


 それが災いして、私はあっさり裏切り者に殺されかけている。しかもご丁寧に傷の治癒を阻む呪いをかけられており、手当てしたとしても治らないようになっている。だから私はなす術もなくその場に横たわり、出血と気温によって自分の身体が冷えていくのを、ただ待つだけ。


 全くもって、何のための人生だったのか分からない。持ち前の能力は他人に利用されるだけされて、邪魔になればあっという間に切り捨てられる。もちろん、人の命を救ったことは後悔していない。でもそれだけ貢献してあげたんだから、少しは報われる終わり方でも良いじゃないか。

 なんてつまらない終わり方だろう。もはや裏切られた恨みや怒りを通り越して呆れてしまう。自分で言うのもなんだが、有用な力を失っては人間の方が困るだろうに。しかし一番情けないと思うのは、そんな愚か者に殺される自分自身だ。


 寒さの感覚が無くなって眠くなってきた。もうどうしようもないな、と早々に諦めて目を閉じる。風が吹く中で雪を踏んだような音が聞こえた気がしたのは、きっと幻聴だ。


***


 パチパチ…という音が、私の耳元で小さく鳴っている。冷えていたはずの身体は温かく、何か布のようなものに包まれているのが分かる。

 重い瞼をなんとか上げると、目の前には焚き火があった。決して大きくはないそれはとても温かく、再び眠気を誘うようである。


「お目覚めかい?お嬢さん。」


 視界の外から飛んできた声に、心臓が跳ねた。焚き火の向こうから歩いてくるのは、仮面で顔を隠し、灰色のローブを着た人物。声から推測するに若い男のようだ。


「よく生き延びたもんだ。一時は死んでも可笑しくない程度に衰弱していたんだよ?」


 彼はこちらに近寄り、銀色のボトルを差し出した。


「ただの水だよ。喉が渇いて声が出ないだろう?毒なんかは入っていないから安心してくれ。」


 と言っても信じられないか、と男は仮面の裏で苦笑する。どうせ死んでいたのだからここで殺されても同じだろうと思ってしまった私は、大人しくその水を飲んだ。

 喉の渇きを潤した私は、目の前の男に尋ねる。


「あなたが私を助けてくれたんですか?」

「拾っただけだが、そういう事になるんだろうね。ここらで生きて倒れている子どもは珍しいと思って。」


 このあたりで長らく暮らしているのだろうか。人が生きるには厳しそうな環境だが、自分は転移魔法の使い手に飛ばされてここに居るので、この雪山がどこなのかは知らない。


 自分の手を見ると、傷だらけだった体はご丁寧に処置されていた。呪いのせいで傷が治ることは無いはずなのに、出血は止まっている。


「すまない。傷の手当てをした時に、その…。」


 気まずそうに彼が言うので、私は首を傾げた。分からないアピールをしても、彼は口籠るだけだ。少し考えて、私もようやく気が付いた。


「お気になさらず。助けていただいたのに、贅沢は言いません。」

「ごめんね…。嫁入り前の女性に…。」


 手当ての際に身包みを剝がされたくらい気にはしない。治癒魔法をかける時に男女関係なく同じことをするのもあって、抵抗はあまり無かった。どっちかと言うと、傷が回復に近づいている方が謎だ。


「じゃあ、水分が摂れたらもうお休み。まだ回復はしていないんだから。」

「は、はい…ありがとうございます。」


 聞きたいことが色々あるが、その前に先ほどもらった水のボトルを渡そうと手を伸ばし、彼も受け取ろうとしてそれに触れた次の瞬間。ほんの一瞬だけ、ジュッ、と焼け石で何かが焼けたような音が聞こえた。


「あっ。」


 声をあげた彼を見ると、右手の指先が煙をあげている。おそらく私の手と重なった所だ。よくよく見ると、その手全体が包帯で包まれていた。


「あなたはもしかして…。」

「…。」


 彼は何も言わず、私が言葉を言い終えるのを待っている。


「…魔族、なんですか?」


 魔族が聖なる魔力を持つ者に触れると、その身を焼くと言われている。私が触れたところが火傷したなら、つまりそういうことだ。


 大昔に勇者に討たれたと言えど、魔族は別に絶滅した訳ではない。言い伝えだと、魔族は北の土地に追いやられたとか。もしかすると私が飛ばされたのは、魔族が住む地域だったのかもしれない。


 そこまで察しても、私は非常に冷静だった。だって魔族なんて伝承でしか聞いた事がないし、大昔の争いなんて知った事じゃない。実物と対面したところで、不安も敵意も一切抱くことは無かった。


「…怖くないのかい?」


 彼は落ち着いた声で尋ねる。私のリアクションが薄いから疑問に思ったのかもしれない。


「別に…。魔族のことはよく知らないし、あなたが命の恩人であることに変わりは無いので。」


 私の答えに彼は何も言わず、仮面の所為せいで表情も見られない。

 しかし、しばらく黙っていると思えば、突然ふっ、と噴き出した。


「ハハッ、そうか、よく知らないか…。やっぱり人間の二千年は長いらしい。」


 彼は愉快そうに笑う。彼が何を思って大笑いしているのか、私には分からなかった。


「あ〜、腹が痛い。…あぁ、失礼。人間も変わったなあと思って。」


 伝承によると、魔族は何千年も生きるらしい。魔族の年齢基準は知らないが、彼も数千年生きて、色んな人間を見てきたのだろう。


「君、聖女なんだろ?」

「…はい。」

「じゃあ、俺達の天敵か…。さて、どうしたものかねぇ?」


 彼は顎に手を当てて考えるふりをするが、面白がっているのが声で丸分かりだ。冷めた目を彼に向けると、「おやおや…。」と私を揶揄からかうのを諦めたように呟いた。


「何もしないと思うかい?」

「はい。あなたは手を痛めても手当てしてくれる善人のようですし。それに、どうせ助けられなければ死んでいたので、恐れるものもありません。」

「そうか…。」


 そう言うと、彼は仮面をゆっくりと外した。

 姿を現したのは、声に似合った若い青年だった。真っ黒な髪に色白な肌で、人間であれば美形と呼ばれるであろう綺麗な容姿だ。


「俺が人間に見えるか?」


 いや、違う。人間と言われても納得はできるが、金色の両目と左頬に浮かんでいる黒い模様のようなものが、人間離れした雰囲気を醸し出していた。


「…どちらとも言えません。」

「ほう…?」


 彼は私の回答を聞いて、ニヤリと口角を上げる。


「…正解だよ。俺は人間でも魔族でもないからね。」


 人間でも魔族でもない…?しかし彼に触れた時、確実に聖なる魔力は反応した。つまり彼は魔族のはずだ。では魔族でないというのは、一体…?


「俺の父は魔族で、母は人間。つまり俺は、半分魔族で半分人間。魔族でも人間でもない何か、なのさ。」


 彼は慣れたように説明する。数千年も生きていたら、幾度となく説明することがあるのだろう。

 それで、仮面をつけていた理由も理解できる。彼の見た目は人間に近く、魔族の住む地で敵と見做みなされてもおかしくない。かと言って人間からしてみれば異質なのは明らかで、どっちにしても冷たい目を向けられるだろう。


「…君は動じないね。」

「動じる理由も無いので。」

「そうか?俺の顔を見た人間のほとんどは怯えるか敵意を向けるかなんだが…。変わってるね、君。」


 失敬な。悪いが私は、見た目で判断して命の恩人に掌を返すような薄情者ではない。


「別に、動じるような容姿ではありませんよ?」

「それは褒め言葉なのかな?…まぁ良い。君は傷が治ったらどうするつもりだい?」


 彼の質問を受けて、私は初めて未来について考えた。今までは聖女として人々の為に一生働くものだと思っていたが、今は違う。国を追われた私は自由の身。どこで生きるかも、何をして生きるかも、全く決まっていないのだ。


「…分かりません。私は聖女としての生き方しか知らないので。」

「なるほど。これから考えるってことかな?」

「そうなります。」

「そうか…じゃあ、決まるまでここに居ると良い。」

「えっ?」


 ありがたい話だが、そこまでお世話になる義理は無い。命を助けてもらったのは自分だし、このままでは彼の世話になる一方だ。


「だって、行く宛ては無いんだろう?こんな年中極寒の地で、君一人では生きられない。それに詳しい事情は知らないが、見たところ命を狙われたみたいじゃないか。また狙われるかもしれないよ?」

「うっ…。」


 彼の意見に、ぐうの音も出ない。彼の言った事はほとんど図星だし、自分自身も一人よりは誰かと居る方が安心できる。

 しかし、この誘いを受けて良いのだろうか。何せ信頼していた人間に裏切られたばかりなので、信用問題に関して自分はいささか敏感になっているらしい。


「まぁ、無理強いはしないけどね。それに、今結論を出す必要は無い。君の傷が完全に回復するまでは時間がかかるだろうから。」

「はい…。あの、どうしてそこまで?」


 私が質問すると、彼はふわりと笑って答える。


「俺を避けようとしない人間は初めてだからかな。とても興味深い。」

「…観察対象ですか?」

「そんな言い方しなくても。まぁ簡単に言えば、久しぶりに人間と関わる気になったってことだよ、聖女様。」

「その呼び方はやめていただけますか?私はもう聖女とは言えません。」

「そうなのか?ではどう呼ぼうか…。君、名前は?」


 自分の名前か…。他人に明かすのはいつぶりだろう。国に聖女と認められた時から人々は私を聖女と呼ぶし、身内でも私の名を呼ぶ者は居ない。前は呼ばれる機会も無ければ、名乗る必要も無かった。


「…コルリ、です。」

「そうか。呼び名でバレたら困るし…。じゃあ、愛称としてルリと呼んでも良いかな?」

「…はい。」


 今まで他人から“ルリ”と呼ばれたことは無い。しかし、彼に呼ばれるのはどこか心地良くて、コルリという本来の名前より良い気がした。


「ええと…あなたの名は?」


 そう言えば彼の名前は聞いていない。これから一緒に居るなら、知らないと困るだろう。


「ノエ。そのままノエと呼んでくれ。」


 彼は尋ねられたのが嬉しかったのか、答える時は満面の笑みだった。もしかして、彼も名前を呼ばれないのだろうか?まぁ顔を隠すような人だし、あまり人と関わらないタイプなのかもしれないが。


「これからよろしくね、ルリ。」

「はい、こちらこそ。」


 まぁ、どうでも良いか。なんて投げやりに考えながら、彼が黒い手袋をけて差し出した左手を取る。こうして、彼との生活は始まった。




 彼は当初のミステリアスな暗い印象とは違って、意外と明るい人だった。仮面で顔を隠していたのは、魔族に見られると人間と間違われて狙われるかららしく、彼自身は人見知りどころかおしゃべりなコミュ力お化けタイプだった。フレンドリーすぎて、彼に対する敬語が外れるのもあっという間だった。

 彼の年齢は約二千歳だが、その割にはあまり他人と関わる事が無いらしく、私が新鮮なのか色々と質問をしたり、逆に彼の方が昔話をしたりといった感じで、退屈することは無かった。


 彼は私を聖女とは呼ばないし、人間だから如何どうとも言わない。魔族と人間の両方の血を引く彼は、魔族の地に住みながらも人間に敵意を抱くことは無いらしい。だから魔族には変に勘違いされるのだが、本人は至って気にしていない。「人間も魔族も仲良く」が、彼のモットーだった。


 正直、聖女として生活していた時より人間らしい生活をしている気がする。聖女はそのお役目を果たすばかりで、友人も居なければ出会う人と世間話をする事すら無かった。

 他愛もない話をして、笑って…。そんな経験が新鮮で楽しいものだと、以前の私であれば知る事はなかっただろう。今となっては、殺されかけてラッキーだったとさえ思ってしまう。


 傷が全快した頃には聖女の役目が無い生活にすっかり慣れてしまい、人間の街に戻るという選択肢は無いに等しかった。

 これからも一緒に居たい。そう彼に打ち明けた時、彼は驚いた顔をしたと思ったら、にこりと微笑んで了解してくれた。その時の彼の瞳は明らかにうれいを含んでいたので、嫌だったら出て行くと言ったら慌てて止められた。


「嫌なわけない。嫌じゃないから尚更…ね。」


 『尚更』の続きを、彼は最後まで教えてくれなかった。




 何の前触れも無く始まった彼との生活は、三年続いた。そして終わりの時も、何の前触れも無く訪れた。


 ちょうどノエが居なかった時、私達が隠れ住んでいた場所に腰に剣を挿した男が現れた。外套のフードを深くかぶっており、顔は見えない。


「やっと見つけた…。」


 男は私を見て、低い声でつぶやく。

 嫌な予感が、久しぶりに私の肩を震わせた。


 男は片手を出し、かざすように掌を私に向けた。


「さようなら。」


 男の手から、魔法陣が展開される。

 不味い。そう思った時には遅かった。何事も無い平和な暮らしに慣れてしまった体は、すっかり鈍っていたのである。


 ドクン。

 心臓の音がやけに大きく聞こえた次の瞬間、私は勢いよく血を吐き出した。血の気が引く感覚と胸の激痛に、あっけなくその場に倒れる。地面に伏したまま視線を上げると、フードに隠れていた男の顔が見えた。


「どう、して…?」


 男の正体は、三年前に裏切った私の従兄いとこであり、私と同じく王族の血を受け継ぐ、祖国の貴族であった。


「悪いけど君は邪魔なんだ、聖女様。勇者の末裔と言えど、王族に勝るほど強力な聖魔法の使い手は存在してはならない。」


 確かに、私は王族ではない。勇者の末裔だが生まれは分家も良いところで、私の親も治癒魔法はおろか聖なる魔力も微弱だった。私の力は、いわゆる隔世遺伝によるものなのだ。


「君は王族の地位を脅かす危険な存在。だから国王の命令で君を始末することになったんだ。分かってくれるかな?」


 いや分かりませんけど?散々私の力を利用しておいて勝手に警戒して、よし、消そうなんて考えに納得できるわけがない。王族の面子なんて知ったことではないし、怖いなら最初から聖女の承認なんてしなければ良いものを。いや、それはそれで裏で消されるパターンだろうか。


 呼吸が徐々に浅くなっているはずなのに、頭だけは冷静だ。死ぬ時って意外とこういうものなのだろうか。今思えば、三年前も冷静だった気がする。しかし前と違うのは、今回の方が呼吸がままならない分圧倒的に苦しいこと。


 一度意識してしまうと、苦痛が余計敏感に感じられる。胸は苦しいし、吐血も止まらないし、血液が気管にも入って息ができないし。胸元を押さえていた手も、徐々に力が抜けてきた。意識が遠のき、視界がぼやける。


 嗚呼あゝ、結局末路は変わらないのか。

 三年前と同じように、私はあっさり諦めて目を閉じた。私を呼ぶ彼の声が聞こえた気がしたのは、きっとまた気のせいだ。


***


「…ルリ、起きて!…ルリ!」


 今度ははっきり聞こえた彼の声に、瞼を開いた。徐々にピントが合い、彼の姿がはっきりとしてくる。


「…ノエ?」

「よかった…。」


 彼はその目に涙を浮かべながら、優しく微笑む。

 しかし、彼の声がやけに弱々しく、息があがっていることに気が付いたのは、すぐのことであった。


「今度は、にあっ、た…。」


 彼は脱力して倒れるように視界の端に消え、そばで重たいものが落ちたような音が聞こえる。自分の手が何か生温い液体に触れたのに気付いて、私はやっと何が起こったのかを悟った。


 慌てて起き上がると、隣で倒れているノエの姿が真っ先に視界に映った。腹部には見覚えのある剣が刺さっており、そこからは赤黒い血が流れ出ている。


「ノエ!どうして…⁉」


 魔族の身体は人間とは異なる。魔族は頑丈で、傷を負ったとしても通常は治癒魔法無しで即時回復する。なのにノエは剣を抜かないまま、衰弱の一途を辿っていた。

 何がどうしてこうなったのか?その答えは、すぐそばにあった。


 従兄いとこが倒れているそばに落ちていた剣のさや。最初から見覚えがあると思っていたが、はっきりと思い出したのはたった今だ。


 ノエに刺さっている剣は、聖剣。大昔の戦争で、無数の魔族を葬った代物だ。聖剣にはその名の通り聖なる魔力が宿っていて、それによってできた傷は魔族でも即時回復することはできず、治癒能力は人間と同程度まで低下する。


 そこまで思い出して、さらに私は焦った。このままでは、彼は死んでしまう。しかし、私にはなす術が無いことも同時に分かってしまった。


 私は聖女。魔族の血を引くノエに聖魔法は毒となり、それ以前に私の手は彼に触れる事すらできないのだから。

 もし無理に手当てすれば、手当てが終わる前に彼は聖なる魔力によって焼かれてしまうだろう。布を挟むにしても、血液に触れれば同じこと。実際、先程触ったはずなのに、今の私の手には血痕すら残っていない。


 正真正銘、私は無力だった。


「ルリ…。」


 今にも消えてしまいそうな声で、彼は私を呼ぶ。顔を見ると彼は、いつものように優しく微笑んでいた。


「…泣かないで。」


 私を見て、彼は言う。しかしその優しい声に、私は自分の涙を止めることができない。

 彼は僅かな力で手を伸ばし、私の涙を拭った。濡れた指先は、焼石のようにジュッと音を立てる。


「俺のために…笑ってくれないかい?」


 意地悪な注文に、思わずふっ、と息を漏らした。しかし笑顔はできそうになくて、ただひたすらに涙が溢れてくる。

 それを見た彼は、「しょうがないなぁ」とでも言うように眉を下げた。


 だって、しょうがないじゃん。笑顔を見せてしまえば、あなたが早く行ってしまう気がするんだもん。

 お願いだから、もう少しだけ。…もう少しだけ、一緒に居たい。


 何も語らない、ただ静かな時間が、その場に流れる。それはたったの数秒。その間の彼は、私を温かい目で見るだけだった。


「ひどいなぁ…。最後のお願いくらい、きいてくれたって良いのに…。」

「…嫌だ。」


 彼の文句に返した言葉は、自分でもびっくりするくらい低く、小さな声だった。


「嫌だよ…、そんなの。」


 彼は驚いたように一瞬目を見開くと、ふっ、と笑った。初めて出逢った、あの日と同じように。


「ふふっ…幸せ者だね、俺は…。」


 徐々に呼吸が浅くなってきた彼の目尻にも、透き通った涙が浮かぶ。


 もう少し…そう願うのに、無情にもそのときは訪れる。


「君に出逢えて…よかっ、た…。」


 彼は満足げな表情で、その綺麗な金色こんじきの目を閉じる。私の頬に最後の一瞬だけ触れた手は、そのまま地面に力無く落ちた。


「私もだよ。」


 私の小さな呟きは、今まで忘れていた外の吹雪の音に、あっという間に掻き消されるのだった。



***



 しばらく握っていた手を彼の胸元に置き、私はもう一人の男の方へ歩いた。奴は瀕死の状態で意識も無いが、辛うじて息がある。

 私はその身体に魔法陣を描き、魔力を流し込んだ。今の私が捨てたくてしょうがない、治癒魔法である。


 本当なら、助けたくなんかない。自分を狙い、彼を手にかけた奴を赦すことはない。

 でも、彼は助けた。殺さなかった。それはきっと、彼が負けたからではない。


 ノエは魔族なだけあって、強力な魔法使いだった。それに対して、この従兄は魔法が苦手だ。いくら聖剣相手で相性が悪いとは言え、本気で戦えばノエが勝つ。それでも負けたのは、手加減していたから。殺さない理由が、何かあったのだろう。


 そこまで気づいてしまえば、私にこいつの息の根を止めることはできない。彼の命と引き換えに生き残ったのだ、死なれてたまるか。


 傷を癒してから数十分後、奴は目を覚ました。起きるなり私を見た奴は、慌てて身体を起こす。


「…どうして助けた?」

「…さあね。」


 素っ気なく答えると、奴はそれ以上訊くことはしなかった。奴は横たわるノエを見て、しみじみと言う。


「…まさか、魔王と一緒だったとはね。驚いたよ。」


 嫌味のような内容だが、その声は私を煽るものではなく淡々としていた。ノエを見る奴の目に敵意は無く、物思いに耽るというか、集中して何かを考えるように、ぼーっと視線をノエに向けていた。

 奴が考えていることなど知ったことじゃないが、それよりも気になる単語が奴の口から出ていた。


「魔王…?」


 魔王とは、大昔に魔族を率いた魔族の王。勇者によって二千年前に討たれている。

 魔族の伝承についてはあまり詳しくないが、昔資料を読んだ記憶を必死に引っ張り出す。その末にようやく、私は奴の言葉の意味を知った。


「知らなかったのか?」


 奴が驚いたように言う。こいつが分かって私が分からなかったのは悔しいが、実際、私は全く気づかなかった。

 しかし、今思えば、三年前に気づけたはずだった。何故三年前に私が助かったのか、そして何故今回も私が生きているのか。その答えは、すぐ目の前にあったというのに。


 伝承によると、二千年前の魔王は魔眼と呼ばれる特殊な眼を持っており、それに映った魔法や呪いの術式はたちまち瓦解してしまうと言う。二千年前に勇者が苦戦したのは、その能力の所為せいでもあった。


 そして恐らく、ノエはその眼を持っている。だから私にかけられた呪いや毒魔法が、ことごとく解かれているのだろう。彼曰く、父親は魔族で母親は人間。つまりその父親こそが二千年前、勇者に討たれた魔王なのだ。


 だとすると勇者の末裔である私は、彼にとっては父の仇の子孫。本来であれば、憎むべき相手だった。


「どうして…。」


 彼は、私を助けたんだろう。一度ならず二度までも、しかも自身を犠牲にして。

 どうして私を殺さなかったんだろう。三年も一緒だったのに。手にかける好機チャンスなんて、いくらでもあったはずなのに。

 どうして「良かった」なんて言ったんだろう。私を守るために、自分は命を落としたというのに。


 それらの問いの答えを、私は知らない。確信を持てる答えを出すには、私は彼を知らなさ過ぎる。三年も彼の正体に気づかないくらいに、私は鈍いらしい。


 どんなに確かめたくても、彼はもう居ない。そこに横たわる彼は、答えてくれやしない。もう永遠に、私を呼んではくれない。


「ねぇ、教えてよ…。」


 横たわる彼の手に、恐る恐る触れる。彼の身体が私を拒否することは、もう無い。


 もっと温かい手を握りたかったと、徐々に冷えていく彼に思う。ここまでしなければ彼に触れられない自分が、本当に嫌いだ。


 聖女として生まれたくなんかなかった。

 肝心な時に何もできない。大切な人も助けられない。大好きな人にも触れられない。

 二度も救われ、ずっと守られてきたのに、私は彼に何も返せなかった。

 そんな力に一体何の意味がある?


 許されるならいっそ消えてしまいたい。

 でも、私の知る彼はきっと許してくれないんだろう。


「ずるいよ…。」


 思い悩む自分の隣で横たわる彼の顔が微笑んでいる気すらして、こつん、と指でその額を小突く。


 あなたは本当に、ずるい人だ。

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