第19話 取引
コンステラシオンの空で起きた異常気象は新聞の記事になった。
天候を司る魔術師たちは、百年に一度の奇跡だと騒ぎ立てると取材に来た新聞記者たちに、これは女神のお告げだとか、飢饉が防がれたとか、新たなる指導者が現れる兆しだとか、捲し立てたが、実際の記事は十五面の隅の方に小さく取り上げられただけだった。
何故なら、コンステラシオン王国はそんな様子のおかしい空が気にならなくなるほど衝撃的なニュースに持ちきりであったからだ。
「——〝アウロラ王女、王位継承者争いに立つ〟……ねえ……」
とある貴族の屋敷、日当たりが良い部屋で椅子に腰掛けていたひとりの令嬢は今朝の新聞を広げながら溜息を吐いた。
「何が何やらちっとも追いつけないわ……」
ずるずると背もたれから滑り落ちた彼女は、広げたままの新聞の端から豊かな金髪を溢した。それが彼女の傍に置かれた紅茶に触れそうになったことに気付いた使用人が、慌ててティーカップをテーブルの上からずらして避難させる。
「そりゃあ、つい最近まで牢の中に居たのですから仕方がありませんよ……」
サビオが苦笑いを浮かべると新聞から視線を上げたマルテ・ガラクシアが眉を顰める。
「仕方がないですって?」
「は、はい……」
サビオはサビオなりにフォローしたつもりだったのだが、どうやらむしろ気難しいマルテの機嫌を損ねたらしい。
彼女は丁寧に新聞を折り畳むと背筋を正して彼に説教をする。
「あのね、私はサロンを開いていた頃は社交界の誰よりも耳が早かったのよ……牢中でも情報収集には余念がなかった……その私が追い付けないと言っていることの意味をきちんと考えたのかしら?」
「い、いえ……その……」
口早に責め立てられて後退るサビオに、返す言葉もない。
貴族にしてはおっとりとした穏やかな気性であるトリエノと普段接しているせいで、マルテのような快活で気性が荒い令嬢との上手いコミュニケーションの仕方を彼は知らなかった。
牢の中にいるときは、まるで聖女かと思うほどに清廉で落ち着いていたというのに陽の下に出てきた途端にこんな調子で無茶苦茶なことを言い出すマルテにサビオの方こそ何もかもに追いつけない。
「そもそもどうしてあの時の牢番がトリエノの下で働いているのかしら?何か特別な魔術でも使えて?」
「あ……いや、その……僕は……」
「マルテ様〜♡」
すっかり目を回していたサビオを救ったのは、やはりトリエノ・ベンティスカだった。
彼女は大量の茶菓子を盛った銀のトレイを抱えて、マルテがいる部屋に飛び込んでくるとそのまま滑らかな動きでマルテの前に傅いた。
「王都で流行りの茶菓子をご準備致しましたの……」
「そうなの?」
「どこも本来は売り切れの品でございますが、全てマルテ様の為に予約しておいたのですよ……」
「あら、悪いわね!」
特別扱いされること、そして甘いものが大好きなマルテは、あっという間に機嫌を直すと差し出された菓子を眺めながらどれにしようかと指で甘い匂いを掻き回す。
その様子にホッと胸を撫で下ろしたサビオは、トリエノの後ろへと下がると黙って穏やかな午後に交わされる令嬢たちの会話に耳を傾けていた。
*
マルテ・ガラクシアが釈放された理由は、王族に与えられた恩赦の権利をアウロラ・コンステラシオンが行使したからであった。
今まで女性であった為に王位継承権を主張してこなったアウロラ・コンステラシオンは、恩赦の勅書としてような宣言を出した。
『——アウロラ・ルーナベスペルティーナ・コンステラシオンは、ここに王位継承者第三位としての権利を行使し、マルテ・ブリジャール・ガラクシアの釈放を認め、王立審議会での裁きを受けさせることを宣言する』
これによって中央貴族議会は大騒ぎになった。
もちろん、王族への不敬罪によって収監されたマルテ・ガラクシアに恩赦の権利を行使したことも市井においては大きく話題になったが、貴族たちにとって問題なのはそこではなかった。
重要なのは、恩赦の勅書に含まれていた〝王位継承権第三位として〟という部分である。王族として、という言葉でも十分効力を発揮するにも関わらず、アウロラは敢えて〝王位継承権第三位〟という文言を使った。
それはすなわち、今まで王位継承権を主張してこなかったアウロラ王女が、王位継承権争いに飛び込んできたことと同義だった。
そして、それを裏付けるかのようにアウロラ王女は、彼女主催のサロンを開いた。
今まで社交界にも顔を出さず、貴族の令嬢たちや商団とのツテもないアウロラ王女がサロンを主催することなど不可能に近い。
——しかし、サロンは成功した。
その理由は明らかで、そのサロンに加わった面々、サロンの伝統作法、準備されたお茶の種類や選ばれた菓子までマルテ・ガラクシアが開いたサロンと全く同じであったからだ。
まるでアウロラ王女がマルテ・ガラクシアのサロンをそっくりそのまま受け継いだかのように——。
「それが一つ目の策でした」
空になったティーカップに紅茶を注ぎ直すトリエノに、マルテは微笑んだ。
「だから私にサロンを譲るように言伝を残したのね」
「はい」
「そして私がトリエノに譲ったサロンは、アウロラ王女殿下へと渡った……」
トリエノの置き土産として残された手紙に書かれていた指示に従ったマルテは、サロンの主催をトリエノに委ねるとの旨を記載した手紙をサインとガラクシア家の印章付きで送った。
これによって正式な書類となった手紙をトリエノはアウロラに突き付けたのだ。
サロンに所属することと、サロンを主催することでは大きく社交界への影響が異なる。
サロンとはすなわち派閥と同義——大きなサロンに所属すればそこから入ってくる情報量も増え、令嬢同士で連帯することも可能であるし、強固な後ろ盾も生まれる。
マルテが主催していたサロンは、社交界においても王妃が主催するサロンと、第一王子の婚約者が主催するサロンと肩を並べ、三大派閥の一つに数えられるほど大きいものだった。だからこそかつてのアウロラもマルテが主催するサロンに参加したがったのだが——王族である彼女がサロンを主催せずにどこかのサロンに所属することでその継承権を放棄したと思われてしまう。
それを危惧したマルテはアウロラを自分のサロンに参加させることを躊躇ったのだ。
『本当にそれでいいのですか?』
あの時、アウロラ王女がその問いに答えられなかった理由もそこにある。
彼女は、決して王位継承権を放棄したかったわけではない。かつてコンステラシオン王国に君臨したとされる〝女王〟に憧れていた彼女は、自分も兄達と並び立てるのではないかと思っていた。
そして、こうして彼女が自らサロンを主催したことで彼女は王位継承権を主張し、継承者争いに名乗りを挙げることが叶ったのだ——。
「でも、それだけで王女殿下が動くとは思えないわ……」
サロンの譲渡は、交渉の条件としては十分だった。
しかし、マルテは納得しない。
そのような野心を心の内に顰めているアウロラが、王位継承権を主張する手立てだけを与えられたからといって、トリエノの取引に乗ってくるとは思えなかったのだ。
もちろん、トリエノも同じように考えた。
だからこそ、もう一つの案もちゃんと用意してあったのだ。
「マルテ様は、アウロラ王女殿下とお会いする際に何か異変を感じませんでしたか?」
「異変?」
トリエノの問いにマルテは過去に記憶を遡った。
アウロラに王宮に呼び出された日——初めて彼女と会話を交わした時のことを思い出したマルテは、ふと思い当たることを口にする。
「そういえば、とても眠かったわね……」
マルテの言葉に後ろで控えていたサビオが目を見開いた。それはもちろん、彼も同じ異変をその身に感じていたからだ。
「ええ、そうなんです」
トリエノは力強く頷くとティーカップを口元に持っていく。
そのカップに注がれた紅茶から漂うのは、目覚めを良くする柑橘系の爽やかな香りだ。
「それがアウロラ王女の力なのですよ——」
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