第9話 突風

 のちにサビオは、トリエノ・ベンティスカとラファガ・ベンティスカの再会について、こう語った。



 ——これほど似ていない兄妹が彼ら以外にこの世界に居るだろうかと。




「おぉ、トリエノ・ベンティスカ——我が愛しの妹よ〜!!」



 明るい茶髪を掻き上げる優男は、階段を駆け下りてくる妹に向かって両手を広げた。



 白いスーツに身を包んだ彼は、サビオよりも少しばかり背が高いくらいでコンステラシオンの男の中でも小柄な方だろう。


 しかし、その数多の女を狂わせてきたであろう甘い顔立ちと、ちょっと胡散臭くも聞こえる魅力的な声が彼のあらゆる欠点を覆い隠してきた。



「この兄、ラファガの胸に抱かれにおいで……!」



 彼は自分よりも背が高いトリエノが階段の数段上から飛び降りても受け止める気でいた。


 それほどまでに妹を愛していた——というより、妹を愛する自分を愛していた。


 例え、ここで彼がトリエノの巨体に押し潰されて怪我をしたときても嫌な顔を一つ浮かべずに「お前は無事かい、トリエノ……」と甘く囁き掛けた後、彼を看病する為に屋敷に押し掛けてくる貴族の令嬢たちに麗しい兄妹の絆について語って聞かせただろう。


 このような、いささか自己愛が過ぎる兄の性格にトリエノは助けられてきたと同時に苦しめられてきた。



「おかえりなさいませ、お兄様」



 トリエノは、階段から飛び降りることなく一番下までその足で降り切ると兄が広げた両腕を無視して大きな手を彼の前に差し出した。



「鍵を下さい、お兄様」

「なぁんと!!」



 その淡々とした妹の態度にラファガは叫んだ。



「……三年ぶりに兄と再会したにも関わらず、二言目にはそれかい?トリエノ・ベンティエスカ!!」



 大袈裟に仰反るラファガに対して、トリエノは真顔だった。彼としては感動的な兄妹の再会を望んでいたらしいが、現実はそうはならなかった。


 そもそもトリエノにとって兄であるラファガは特に恋しい存在でも何でもない。



「ちゃんとした手紙を送れるようになってから文句を言ってください、お兄様」

「なぁんと!!」



 トリエノの小言に、またもやラファガは叫んだ。その声がまた無駄に芝居ががっているせいか、トリエノの神経を逆撫でするのだが、ラファガは全く気付いていない様子。



「美しい手紙だったろう?」

「私は読んでおりません、お兄様」

「なぁんと!!」



 ラファガは、額に手の甲を当てると二、三歩後ろによろけた。


 それをサビオは、まるで役者のような動きをする人だな……と思いながら眺めていたのだが、当たらずとも遠からずである。


 なにしろラファガは、家督を受け継ぐことを拒否して後継者教育から逃げ出した挙句、貴族ながら地方の劇場で舞台に立っていたからである。何故、中央の劇場ではなく貴族なのかと言えば彼の演技が王立劇場に足を運ぶ観客を満足させるレベルに達していない——というのが答えであった。


 だが、ラファガは諦めていない。



「我が愛しの妹……トリエノ……何故、お前の為に愛を込めて綴った手紙を読んでくれていないのか……」



 悲哀に満ちた演技を披露するラファガは、玄関ホールに膝を折り、その手を天高く差し出す。しかし、その指の先はトリエノの腰の高さにも達していない。


 手足が長いトリエノとは対照的に、ラファガは役者に相応しい体格に恵まれていなかった。



「お兄様、そういうのはいいので早く鍵を——」

「トリエノ!!」



 兄の悪ふざけを前にして苛立ちを隠せなくなったトリエノの名前をラファガは大声で叫ぶ。


 その声の通りの良さだけは、チャパロンに似ていた。



「私の美しき妹、トリエノ・ベンティスカよ」



 ラファガはゆっくりと床から立ち上がるとトリエノを見上げながら微笑んだ。



 その笑顔には、心優しい兄の心が宿る。



 彼は、この国の基準では決して美人とは言えない妹を昔から〝美しい〟と褒め称え続ける。身長がにょきにょきと伸び出し、あっという間にサイズが合わなくなるドレスに父と母が顔を引き攣らせるようになっても、着るものが間に合わずにベッドシーツに包まりながらトリエノが泣いていた時も、ラファガはトリエノを〝お前はいつでも美しいよ〟と囁いて、花を贈った。



「……目的を達成するには人の心を掴まなくてはいけないよ」



 ラファガは、トリエノが求める鍵ではなくクラベルの花を彼女に差し出した。


 その花が持つ赤は、トリエノとラファガが持つ瞳の色とそっくりだった。小さく縮こまりながら泣くトリエノの傍で、ラファガはこの花を見せて、覚えたばかりの詩や戯曲の台詞を語って聞かせたものだ。



「無理難題を通す時こそ、大掛かりな演出が必要になるものだ」



 論理や仕組みも重要だが、最後に物事を大きく動かすのは人間の情であると彼は語った。


 それは偉大なるチャパロン・ベンティスカの口癖の一つであった。


 ラファガ・ベンティスカは、その見た目こそチャパロンちっとも似ていないが、祖父から大切なことをいくつも学んでいた。常識に囚われるな、夢を追え、理想を求めよ、目に見えるものだけが真実ではない——。



「お前が何かを成し遂げる気であるのなら、この兄も協力しよう……しかし、それはお前に人の心を動かす力がなければこれから先はどうにもならない」



 それがお前に出来るかとラファガが尋ねれば、トリエノは無言で兄の顔を見下ろした。



 それから、ドレスの裾を摘んでそっと腰を下げると淑女としての礼を兄へと尽くす。




「トリエノ・ベンティスカからの、一生の一度の願いでございます」




 トリエノの喉から搾り出される声は、震えていた。




「どうか……どうか、この哀れな妹に……お兄様のご慈悲を……」




 斜め後ろに控えていたサビオはその声を聞いて驚いた。


 あれほど堂々としていたトリエノの後ろ姿が急に寂しそうに見え、彼女が今にも泣きそうに思えたからだ。



 サビオは、慌てて彼女に駆け寄ろうとする。


 しかし、ラファガが彼に向けて指を立ててそれを止める。




「——トリエノ」




 目の前で頭を下げる妹を見下ろした兄は、その頭をコツンと小突く。



「え?」



 顔を上げたトリエノはゆっくりと首を横に振るラファガと目が合った。


 彼は、トリエノの演技にチッチッチッ……と舌を鳴らせばわざとらしく肩を竦める。




「——それは、私のやり方だ」




 トリエノの演技にダメ出しをするラファガは、役者として妹に助言をする。




「お前はお前だけのやり方を見つけなくてはならない」




 私やマルテ嬢の真似だけではダメだと言い聞かせるラファガは、トリエノを真っ直ぐ立たせれば彼女の姿を四方八方からじっくりと眺めながら一周する。



「その恵まれた背丈、長い手足——お祖父様によく似た顔立ちを生かさなくてどうする!」



 ラファガは、トリエノの黒髪に指を絡めればパッと手を離した。それから彼女の目の前に戻ってくると優しく微笑み掛ける。



「お前なら出来るはずだよ」



 そう言いながらラファガが差し出したクラベルの花は、トリエノの細い指が触れた途端——ポンっと弾けた。そして、気付けば金色に輝く鍵へと姿を変えている。



 ——それこそがトリエノが求めていた、次の一手に繋がる鍵。




「ここは兄妹の情に免じてあげよう」



 ラファガは、トリエノにそれを受け取らせると屋敷の奥へと歩き出す。



「……また道に迷ったら、この兄に頼りたまえ!」


 

そして階段を駆け上がるとその途中で振り返り、大袈裟にスーツのジャケットを翻した。その姿は、まるで舞台の一場面——。




「このラファガ・ベンティスカにな!!!」




 そう言い残すとラファガはその名の通りに突風の如く、トリエノの目の前から去っていった。




 玄関に取り残されたのは、トリエノと——サビオの二人だけ。



 思わずサビオがトリエノの方を振り返ると彼女は自分の掌に比べれば随分と小さな鍵を握り締めながら吹き出した。



「おかしな人でしょう?」

「あ……ええっと……」



 トリエノからの問いかけにサビオは微笑む。




「絶対に悪い人では……ないですね……」




 その答えにトリエノは、小さく頷いた。

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