あの冬の日

みたか

あの冬の日

 時間を戻してやり直したいか。そんな質問がよくあるが、おれは絶対したくない。失敗したこと、怖かったこと。そういうことにもう一度対峙するなんておれには無理だ。時間を戻してやり直したいと思うやつらはきっと、次はうまくやれる自信があるんだろう。おれにはそんなことはできないから、やり直したいとは思わない。

 自分を守って、ぐずぐずしていたおれ。時間を戻したって、そんな自分は変えられないだろう。おれはおれなんだから。自分を卑下するなって言われるかもしれないが、それが事実なんだ、おれにとっては。

 でもそんなおれでも、あのときこうしていたら、なんて気持ちになることがある。手を差し伸べるのが怖くて、大切なものをすくい上げることができなかったから。全てこぼれてしまってから気づくなんて、遅すぎた。



「お兄ちゃんを見習いなさい」

「お兄ちゃんみたいになりなさい」

 おれはそう言って育てられた。おれもそれを当たり前のように受け入れていて、大きくなったら兄ちゃんみたいになりたいと思っていた。勉強ができて、足も速くて、いつも友達に囲まれている兄ちゃん。色んな人から褒められている兄ちゃん。おれも頑張ったら、そんなふうになれるかもしれない。そう思っていた。三歳差なんて今思えば大したことないのに、あの頃はすごく大きな差に感じていた。兄ちゃんを褒める大人たちの言葉も眼差しも、おれには眩しかった。

 おれから見た兄ちゃんは太陽みたいで、おれの頭を撫でてくれる手はいつもあたたかかった。学校の勉強が分からなかったときも、兄ちゃんだけはおれを馬鹿にすることなく聞いてくれて、ひとつひとつゆっくりと教えてくれた。「兄ちゃんは将来先生が向いてるんじゃない」なんて、無邪気に言ったことがある。兄ちゃんのことなんて何も分かっていなかったのに。

 兄ちゃんが高校を卒業するとき、うちはすごく揉めた。兄ちゃんが大学に行かないと言ったからだ。入学試験当日、兄ちゃんは試験に行かなかった。それが親にバレた。

「これからどうする気だ! お前は何がしたいんだ!」

 親父の怒声に兄ちゃんは一言も返さなかった。親父が怒鳴っている間、兄ちゃんはずっと微笑んでいた。

「なんだその顔は! 笑うな!」

 兄ちゃんの顔を見て、親父はもっと怒った。いつもにこやかな兄ちゃんの顔。それが貼りついた笑顔の仮面みたいで、初めて兄ちゃんを怖いと思った。親に反抗した兄ちゃんを見たのも初めてだった。

 その夜、兄ちゃんは親父に殴られて、家を追い出された。雪が降るほど寒かったのに、靴もコートもなしに放り出されたのだ。

「放っておけ」

 すぐに外へ出ようとしたおれに、地を這うような親父の声が刺さった。言うことを聞かなかったら、次はお前だぞ。そう親父の目が言っていた。

 夜中になってから、おれはこっそり家を抜け出して兄ちゃんを探しに行った。行く場所は見当がついていたから。

 近所の公園に向かうと、予想通り兄ちゃんがいた。ジャングルジムの一番上に乗っかって、遠くを見ていた。兄ちゃんは昔からそうだった。みんなに囲まれて笑っていても、ふと気づくとジャングルジムの一番上で一人になっていた。

 ジャリ、という砂の音で振り返った兄ちゃんは何か言ったみたいだったけど、おれは聞き取れなかった。ジャングルジムに近寄って触れると、氷みたいに冷たかった。夜の空気に冷やされた鉄の山は、いつもより大きく見えた。棒を掴む手が震えた。

 上まで登って靴とコートを渡すと、兄ちゃんは掠れた声で「ありがとう」と言ってくれた。せめてあたたかい飲み物でも持って行ったら良かった。おれはいつも気が利かない。

 兄ちゃんに並んで座ると、住宅街の明かりがよく見えた。まだ起きている人がこんなにたくさんいるのかと驚いた。少し上に登っただけで、景色が変わったような気がした。

「頬っぺた大丈夫? 痛い?」

「平気だよ」

「……これからどうするの?」

 そう尋ねたおれに、兄ちゃんは困ったように眉を下げて笑った。親父の前で見せた顔とは違う笑顔。おれは少し安心した。

「家を出たい。遠いところに行く」

「遠いところって、どこ」

「誰も僕を知らないところ」

 風が吹いて、雲が流れた。千切れた雲が隠していた月が、ゆっくりと顔を出した。月の光がおれたちを照らして、誰かに見つかりそうで落ち着かなかった。

 なんで家を出たいの?

 出て行かないでよ。一緒にいてよ。

 おれの中で言葉が溢れたけど、ひとつも声にならなかった。兄ちゃんがずっと心の奥に隠していた本当の気持ち。それに触れてしまいそうな気がして、言葉は喉の奥で燃えて消えた。

「ミチルも来るか? ミチルとだったら、一緒に生きてもいい」

 兄ちゃんはまっすぐおれを見た。その目は深い海の底みたいで、大きな不安がおれを襲った。おれは首を縦に振れなかった。

「ごめん、うそだよ」

 そう言った兄ちゃんの声は消えてしまいそうなくらい弱くて、おれはたまらず泣いてしまった。止めようと思ってもどうしようもなくて、涙と鼻水でぐしゃぐしゃなおれの顔を、兄ちゃんは優しく拭ってくれた。

 兄ちゃんの手から血の匂いがした。手のひらには鉄の汚れがついていた。おれが来るまで、ここで一人で、冷たくなった鉄の棒を握って耐えていたんだ。そう思ったら、兄ちゃんの手のひらが血で汚れているみたいに思えた。

 あたたかかった兄ちゃんの手のひらは、本当はずっと前から血まみれだったのかもしれない。

 呼吸するたびに白くなる兄ちゃんの息。それが生まれて消えるのを、滲んだ視界の中で見ていた。



 兄ちゃんがいなくなってから、何度も考える。あのときおれが頷いていたらどうなっていたんだろう、と。何が正しくて、どうするのが正解なのか分からなかった。兄ちゃんの目が怖かった。親父に殴られるのも怖かった。どっちに進むのも怖かったんだ。

 でも、いなくなった兄ちゃんのことを、嫌いにはならなかった。正直すごいと思う。ここで行動しないと絶対後悔するということが分かって、ちゃんと動けるんだから。おれはそういう嗅覚がどうも鈍いらしい。やらなかったら後悔するということをやれないし、こんなことをしたら後悔するだろうということをやってしまう。あべこべなんだ、何もかもが。そのときは全然気づけなくて、ずっとあとになってから分かる。間抜けだろ。

 もしおれがあのときに戻れたとしても、結果は同じだと思う。何もできずに終わるんだ。おれは兄ちゃんみたいにはなれないから。

 時間を戻してやり直したいか。その質問にはノーと言いたいけど、こうやって何度も思い出しているんだから、時が戻っているのと同じなんじゃないか。今ここで思い出しているおれと、時が戻っても何もできないおれ。二人のおれが重なっていく。あの夜を何度も生きている。



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