0-2 最後の静寂

 隊舎の傍の喧騒から離れた集積墓地の脇、海岸沿いの砂浜に一人。 

 曇りの空の陽も暮れて、少し離れた基地内は、最後のかがり火が盛大にたかれ、遠目にもまばゆいばかりだった。 

 配給の乾燥豆が手の中にわずかに一掴み。


 300からいた百戦錬磨のスピリッツバーナー隊の生き残りも旗手を含めてわずかに8名。元隊長は後送先のサンドストリームで夜襲に会い2月も前に死んだ。自身が何者かを思い出すのは、血で汚れほつれ切った徽章きしょうばかり。からっけつの夜だった。




「アクセル見てくれ。現代医療ってのは発明そのものだろおい」


 振り返ると、10分前に救護所に向かったはずのクーラカスが立っていた。

 サグラ人らしからぬ巨漢の髭面で、愛嬌のある瞳を持つこの男は、俺より5歳年上で、階級は同じく伍長。1年前の部隊再編で同じ中隊に配属されて以来の戦友だ。

 南方神殿の名のある神官様の末っ子で、本人は志願して最前線の下っ端兵士になったという異色の経歴の持ち主でもある。


 何かに憤るクーラカスに俺は尋ねた。

「ずいぶん早かったな。幕舎の前で従軍司祭が集会してるけどいかなかったのか?」


 クーラカスは歯をむいて笑った。髭をなでつけ、のんびりした調子で、

「ああん? 祈祷はもう一生分済ませたからなぁ。今となってはこの状況全てがウォブの思し召しとさえ思えるぜ。『人はなぜ戦い、なぜ人は滅びるのか?』 敬虔なサグラ人も、聖書で尻を拭くようなどうしようもねぇできそこないの、お前らアールア人も等しく手を取り合って、明日には丘を登り空に浮かんでいく。ウォブの慈悲そのものってやつだな」


 いまだ食前の祈りを欠かさない男の、心底意外な告白につられて笑ってしまった。

「ふふっ……真理に触れたな。故郷の父上殿には聞かせられない話だ」


 渋面のクーラカスは顔の前のハエでも払うような仕草を見せたあと、右ひじを突き出した。

「そんなことより見てくれ! 包帯変わりに奴隷用のチュニックの袖だぞこれ。しかも3ゾットも取りやがる! 事ここに至っても金むしりやがって救護所の馬鹿ども」


 鼻息を荒げてクーラカスは続ける。

「あの世には無一文で行けだと! これぞウォブの思し召しだぜ」


 元の色が想像もできない緑がかった包帯に、言い知れぬ怖気おぞけが浮かぶ。死体からはぎ取ったことまでは容易に想像できたが、死因が皮膚病でないことまでは確信できない。

「工夫の賜物で医者はぎりぎり息してるんだろ。それに毟られようが、かぶれて病気を貰おうが、かまわないだろ。苦しむのはどうせ明後日の自分だ」


 クーラカスは意を得たりと、にっこりと頷く。

「明日別れる世界に3ゾットの未練。これで俺が生き残りでもすれば後世、医局の糞どもを戦国の英雄として歌にして崇めてやる! 孫の孫の代までこの馬鹿汚ねぇ布を我がサグラ人の宝として祀ってなぁ」


 クーラカスは腰帯から投げ斧を外すと浜辺に突き刺し、俺の隣にどっかりと腰を下ろした。


「やるか?」

 俺は雑嚢の底から虎の子のブリキ缶を取り出すと、油紙に包んでしまってあった最後の紙巻きたばこを差し出した。


 目を剥き、でかい体をせせこましく畳み、両手でうやうやしく一本受け取るクーラカス。

 そのまま火のついていない紙巻を鼻に当てたっぷりと香りを吸い込むと、

「お前の友人で良かったと今初めて思ったぜ。どこに隠してやがったんだ」


「その包帯が収まるにふさわしい場所からの贈り物だ。北の空に感謝しろよ」


 クーラカスはうんうんと頷き胸の前で十字を切るとそれきり静かになった。


 それから並んでタバコを吹かした。無数にたかれたトーチが照らす海はととても穏やかで、幕舎から離れた浜辺は月のない夜にどこまでも静かだった。


 二つ並んだ小さな赤い光だけがときおり思い出したように、明滅し、脳裏に浮かんだあらゆる全てを緩やかに押し流す。

 灰を運ぶ風は止み、貴重なこの時間に流れるのは打ち寄せる波と、二人の呼吸の音だけだ――。




 沈黙を破ったのはクーラカスだった。

「……お前はいいのか? その……巫女様とは同じ魔法学校で旧知の仲なんだろ?」


 どうせ知られる話だった。

「……よくわからん」


 クーラカスがこちらに向き直るのが気配で分かったが、俺はただ海を見つめる。

「なぁアクセル。俺が言えた義理じゃないが、もしかしたら……その巫女様が待ってたりなんて」


 俺はほとんどさえぎるように、

「――よくわからん。……もう一生分話したような、全然何も話せてないような」

 情けない表情をしていることは、鏡を見ずともわかったが幸い辺りは暗かった。


「明日俺はソルベールのために1秒でも時間を稼いで死ぬ。……それで十分だ。25年も生きた甲斐があったって心底思える」

 それだけで十分。暢気な暮らしを続け、ずっとふざけて生きてきた最後が戦場とは、あの頃思いもしなかったが、これも避けがたい運命なんだろう。殺しが嫌で捨てたはずの魔法に、今は頼って生きている。

 

 転変より早3年。


 最前線で泥を啜って辛うじて生きる俺。

 全身に刻まれた古傷。顔に負った火傷と、失った片耳。 

(今更会っても俺と気づかんだろうなぁ……)


 彼女は民草に担ぎ上げられ、あの細い肩に人類の命運を背負い遥かに険しい位置で、この世の地獄に向き合っている。


 そしてあまりに生きる道が違う俺達も、明日には同じ地平に立つ。


 ふう


 プカリと吐きだした紫煙に溶けて肩の力が抜けていく。


「お前のところの教えだとあの世で話す時間はいくらでもあるんだろ? だったら気長に探すさ。聖女様を辞めた後なら暇ができるだろ」


 根元まで灰になった紙巻を着火の魔法で焼き尽くすと、長く最後の紫煙を空に吐く。 


 静かに黙って聞いていたクーラカスが鼻を鳴らすと、

「ふん。俺はこのかび臭いだけの豆と別れられるってだけで、喜んであの世に行けるな」


 のろのろとクーラカスに視線を巡らせる。


 俺はそこで、肩をすぼめた大男が胸のポケットから取り出した乾燥豆をまとめて手に取り、一瞬胸の前で十字を切り、すさまじい表情で口に運ぶ光景を見た。


(そういえば元々こいつは金持ちのせがれだったな) 


 農夫のせがれと大学まででた神官見習いが背中を預ける戦友同士だなんて、いったい如何なる因果で行き着いたんだ。人種も崇める神も違う交わるはずもない人生。   

 平等に与えられるのは死ばかりと思ってはいたが、神の計らいもいよいよわからん。


 潮が引いた浜辺は積もった灰を沖に押し流し、仮初の正常を人間の手にかえすようだった。明日も明後日もきっと変わらずそうあるんだろう。


 そして、まるで俺自身の人生を象徴するような最後の静寂が帰ってくる。

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