空の戦い

 完全に飛行機が離陸を果たし、雲の上で高度を安定させると、グインドは再びグラスを用意して水を注いだ。

「それで? お前はいくつなんだ?」

 酒に酔った声が消えかけていた会話の火種に油を注いだ。

「ほらマニング。恥ずかしがることはないんですよ」

「違えよ! 別に恥ずかしいわけじゃねえ」

 そういったマニングはまだどこか顔に赤みが残っている。

「お前ら、笑うなよ」

 マニングは俺と店長にそう言って真剣な瞳を向けてきた。

「私はいいのですか?」

 煽るようにグインドは口を開く。

「うるさい。黙れ。お前はその手で口でも覆っておけ」

 マニングがそう命令すると、グインドの手が口元まで移動し、笑うことができないように隙間無く口元を覆い隠した。それを受け「んーんー」と騒ぎながらグインドはマニングに睨みを利かせていた。

 俺はその光景に少々の違和感を覚えたが、自ら手をどかさない点を除けば、あまり不自然な点は無いようにも思える。

「俺はな……、俺は、もう二十一だ」

 少し照れるように頬を掻いてそう言ったマニングは俺達から窓の向こうに見える海へと視線を移した。

 彼の視線の先にある海は昼に近い晩秋の日を受けてまばゆいばかりに輝いている。

 そんな中「は?」という店長の呆けた声が機内に響いた。

「いやお前、そのなりでその年齢はありえねえだろ」

 店長は続けて口を開いた。その意見には俺もまったくの同感だ。

 その年齢は彼の容姿とはあまりにも乖離している。

「うるせえな。こっちにも事情があるんだよ」

 マニングの衝撃的な言葉を受け騒ぐ店長をよそにぼそりとマニングはそう言った。事情……? いったいどんな事情だよ、と静かに一人心の中でマニングにツッコミを入れる。

「もう喋っていいぞ」

 状況に置いて行かれる俺と店長をよそにマニングはそう言って隣に座るグインドの肩を軽く叩いた。するとグインドの手は一気に脱力し、勢いよくその膝の上に落下した。

「別に笑う気はなかったのですが」

 少し青くなった顔で、不満そうにグインドはマニングを見下ろした。だが、マニングはそんなことを気に留めた様子も無い。

「まあ、そういうことです。人は見かけによらない。その言葉の体現者みたいなものですね、彼は」

 視線をこちらに戻したグインドはまとめをするかのようにそう言い放った。

 まあ、確かにその言葉通りではあるが、なんかこう、軽過ぎないか。事情とか、相当のっぴきならないものなんじゃないのか。

 そんな特に役に立たないとことを思案し、俺は一つの推論をたててみる。

 もしかしたら彼、グインドの敬語口調から推察される人格と、彼の本当の人格は大きく異なっているのかもしれない、と。それも悪い方向に。

 そこまで考えた俺は、その答えはいずれ分かるだろうことを期待してコップの中にあった水を一口だけ含んだ。

「これで満足か?」

 マニングは俺を見ていった。

「――はい。満足というか、うん、疑問はおさまった」

「ならいい。俺は少し寝るから適当に時間が経ったら起こしてくれ」

 そう言ってマニングは席を立ち、飛行機の奥のほうへと向かって行こうとした。おそらく、奥にあるベットで眠るつもりなのだろう。

「ゲームはしないんですか?」

 グインドは歩き去るマニングの背中にそう声をかけ、さらに続けた。

「しないのなら、不戦勝ということでゲームは私の勝ちにしますよ」

 チェスボードを机の上に用意しながらグインドはマニングに向けて煽りに近い発破をかける。

 傍目から見ればやめておけばいいのにとも思えるが、そういったことをこうして笑いながら出来る相手だからこそ、この二人はこうしてコンビを組めているのだろう。

 先ほどの言葉を受け、つかつかと通路を戻ってきたマニングを見てそんなことを思う。

「おい天権代理。お前が寝ねえなら俺がベッド使っていいか? それにお前としてもこっちの席の方がやりやすいだろ」

 店長は席に着こうと戻ってきたマニングに横から声をかけた。

 そんな店長の顔はマニングのものとは別の理由で耳の先まで真っ赤に染まっている。

「ん、ああ。助かる。……吐くなよ?」

 感謝を述べた後一拍置いて、マニングは店長に向かって釘を刺し、そして店長も「分かった」とだけ返事をすると、彼と席を交代した。

「宮代さん。何か欲しい飲み物があったら遠慮なくいってくださいね。食べ物でも大丈夫ですから」

 グインドはチェスのコマを並べながら言ってきた。俺のコップにはまだ最初に入れた水が残っている。俺はその水を喉に流し込むと、グインドにリンゴジュースを頼んだ。

 理由は特に無いが、リンゴジュースはふとした瞬間に飲みたくなる。

 俺は新しく注いでもらったものを片手に、窓の外を見た。そこにもはや陸地は見る影も無く、窓の向こうに見えるのは青く染まった絶海、そしてその大海原を西へ東へと航海を続ける大型船だけだ。

 水平線に目を向ければ二つの青が溶け合い、その境界を朧げにしているのが見える。頼りになるのは空を漂う僅かばかりの白い塊のみだが、少しするとその頼みの綱さえもきれいさっぱり視界から消えてしまい、空と海は完全に溶け合って見えた。

 時計を見る。日本では午前の十一時過ぎ。昼の日差しが俺の膝を温かく照らすせいで次第に瞼が重くなってきた。隣ではチェスのコマの動かされる音が響いている。邪魔するのは申しわけないが――。

「あの、到着までってあとどれくらいですか?」

「今、何時だ」

 グインドは盤面から目を離さずに言った。

「今は丁度十一時を過ぎたくらいです」

「そうか。なら、あとだいたい五時間くらいだな」

「そうですね。寝ててもかまいませんよ」

 そう言ってグインドはナイトを前に進め、黒のビショップをとった。マニングはそれを冷静に眺め、的確に相手を追い詰める手段を模索している。

「……ならそうさせてもらいます」

 俺は座席を後ろに倒し、その上に体を横たえた。

昼寝にはもってこいの時間と温度。気持ちが安らぐ。

 瞼は自然と重くなり、視界を黒く染めてゆく。俺の不安はどこへやら。

 気が付くと俺はもう眠りに落ちていた。



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