離陸、あるいは覚悟のとき

 日本コミュニティ 飛行場

  

 荷物検査を終えた俺達はグインドの誘導に従ってタラップを上っているところだった。

 この時になって初めて思い至ったことだが、俺はパスポートを持っていないが大丈夫なのだろうか。

 命は助かったが、着いた瞬間拘束なんてのは御免こうむりたい。とはいえ、彼らもそういったものを提示した素振りはない。というかそもそもパスポート自体受け取るためには公のものが必要だし、魔術師にそういったものがあっては、何とも言えないが、まずい気がする。

 飛行機の入り口には搭乗員だろうか、二人の女性が立っていた。だがこの二人もロビーにいた人々と同様に目は虚ろで心ここにあらずといった様子に見える。

 俺達が搭乗口前に来ると、その二人は軽く会釈をして手で中に入るようにと誘導してくれた。そんな彼女達を横目に、俺達は飛行機の中へと足を踏み入れた。

 飛行機の中の第一印象は豪奢、だった。

 世間ではこういったものはプライベートジェットと呼ぶのだろう。革製の上品なシートに、大型テレビ、冷蔵庫にベッドのようなものも奥には見える。壁には丸い窓が付き、床は肌触りの良さそうな絨毯が敷かれている。

「お前らいいの乗ってんな」

 店長は荷物を奥のスペースに積み込んだ後、いかにも高級そうな革製の椅子に腰を落とすと目の前に座る二人の天権代理に向かってそういった。

「当たり前だろ? 俺達を誰だと思ってるんだ」

 マニングは鼻をならしてなぜか自慢気にそう言った。

 だが、グインドの一言によってその態度は一瞬で崩れ去る。

「どうしてあなたが自慢気なのですか、これは私達の私有物ではありませんよ。その驕り癖は治した方がいい」

 その言葉はさながら研ぎ澄まされたナイフのように。流れに乗るということを知らないその言葉は彼の心を抉るには十分だった。

 胸を一突きされたマニングは返す言葉も無く、ただ椅子の上でうなだれている。

「そんなことより、マニング。長旅になるのです。飲み物の一つでも取ってきてもらえませんか?」

 つい先ほど、自ら行った忠告を〝そんなこと〟と一蹴したグインドは有無を言わさぬ圧力とともにうなだれる少年に語りかけた。

 それを受けたマニングは、口をとがらせて不平不満を言いながらも、冷蔵庫の方へ向かっていった。

「すいません。彼、少し調子に乗りやすいので」

 グインドはそう言って近くにあった棚から人数分のグラスを取り出す。

 まあ調子に乗りやすいし、癪に障るのは事実だが、ここまでバッサリと斬られてはこちら側も何とも言えない気分になるものだ。

 というか、最初はマニングの方が立場が上だと思っていたが、この様子ではもしかしたら違うのかもしれない。

 テーブルの上に並べられた四つのグラスにマニングの持ってきた水が注がれる。

「離陸まではもう少し時間があるので、何かお話でもしましょうか。なんならゲームも出来ますよ」

 そう言ってグインドは棚に置いてあったトランプやチェスを示した。

「ゲームは今はちと遠慮だ。それよりビールとかは無えのか?」

 店長は水をグイッと一気に飲み干した後、グラスをテーブルの上に乗せてそういった。

「いや、いい。勝手にあさらせてもらう。どうせ金は本部の連中らが持つんだろ?」

「ええ、そうですね。お好きに」

 店長の予想に対し、グインドが答えを口にする。

 だが、店長は彼が口を開くより先に席を立って冷蔵庫の中身をあさろうと歩き始めていた。グインドは若干の呆れ顔。まあ、分からないでもない。

 俺の前に座っているマニングはというと、頬杖をつきながら静かに出発前の滑走路を眺めている。

 その眼差しは子供のとは思えないほど鋭いが、彼の容姿は誰が見ても子供だと言うほどにまだ幼気を残していた。おそらく俺の三つ下ほどだろうか、まだ中学生になったばかり、少なくとも高校生ほどの年齢だろうとは到底思えない。それに先ほどから拗ねているところもいかにも子供らしい。

「なんだよ。俺の顔になんかついてんのか」

 俺の視線に気づいたマニングはキッとこちらに鋭い眼光を向けてそう言ってきた。

「いや、そういうわけじゃなくて……」

「なんだよ、はっきりしねえな。言いたいことがあるなら言えよ」

 若干、イラつき気味に言葉に怒気がこもった。

「……いやぁ、その。マニングの年齢はどれくらいなんだろうと思って」

「――ふっ」

 グインドが笑った。俺の質問を聞いてグインドが笑ったのだ。目の前のマニングを見ると、目を丸くして何かを言いたげに口をパクパクさせている。

 何? 聞いたらまずい話だった? 

「……お前。逆に聞くが、俺が何歳に見えるんだ?」

 ようやく舌をまともに動かすことの出来たマニングは、口元とはちぐはぐな圧のこもった視線とともにそう言った。

「えと……。十六か五歳くらい……?」

 そう俺が言い終えたとき、再びグインドが笑う声が聞こえた。

 すると、俺の前に座っていたマニングの顔が耳の先に至るまで次第に赤くなっていく。と、そこへさらに話をかき乱すであろう第三者が戻ってきた。

「ん? お前ら、なんか楽しそうだな。そんな仲良かったっけか?」

 店長は目当てのものを無事に冷蔵庫の中から見つけ出すことが出来たようで、その顔には酒を飲んだとき特有の幸福感が浮かんでいる。

 そんな店長のことを横目に口元に手を当ててグインドは笑っていた。

「さて、それで? 何があった。仲間外れにするなよ。減るもんじゃないだろう?」

 そう言って俺の隣に戻って来た店長は俺とグインドの顔を交互に見た。

「分かった! こいつに彼女がいるとか、そんな感じだろ!」

 店長は対角線上にいたマニングを指さして続けた。

「考えにくいよなぁ。これくらいのが女侍らせてるとか」

 失礼極まりない店長の言葉はグインドのツボに入ったのか、もはや彼は笑いを隠す気も無くひたすらに笑い転げている。

 肝心のマニングはと言ったら先ほどよりも一段階ほど顔の赤みが増したようにように思える。

 店長は随分と酒に弱いらしい。今彼は俺の横で「どうだ?」と言いながらひたすら赤面するマニングと笑い転げるグインドを交互に見やっていた。

 さながら地獄絵図とはまさにこのこと。飲み屋の中も驚きの盛り上がりだ。まあ、飲み屋に行った記憶なんて無いけど。

「いや――。さすがに、さすがにそんな話じゃないですよ」

 ようやく笑いの収まったグインドは苦しそうにそう答えた。

「ん。なんだ、そうか……」

 それに対し店長は残念そうに言った。

 まあ確かにこれだけの反応を見せられて、違ったということであれば残念に思う気持ちも分からなくはない。

「話はもっと簡単ですよ」

「簡単~?」

 グインドの言葉に訝し気に訊き返した店長は、濃いあごひげに手を添え思考を巡らせた。だが酔った頭には限界があったようで、三十秒もしない内に降参だと言って両手を挙げてしまった。するとグインドはそれを待っていたかのように笑いを落ち着けると、一呼吸置いて口を開いた。

「簡単ですよ。彼の年齢です。ちなみにヘイルズ。あなたはどう思いますか?」

 グインドはいかにも愉快気に、満面の笑みで店長に向かって質問を投げた。

 おそらくだがこの回答によってはこの先立ち直れない何かをマニングは被ることになるのかもしれない。

 俺がそう思ったところで、店長は細めていた目を元に戻し口を開いた。

「十……、七。いや六か? 少なくともこいつよりは下だろう」

 そういう店長は俺の頭にその大きく角ばった手を乗せ、ぐしゃぐしゃと撫でてみせた。だが、その答えは既に俺がしたものだ。一歳の差など誤差の範疇。グインドも笑いをこらえるのに必死だった。

「はい……。分かりました。――マニング? 答えを教えてあげてもいいのでは?」

 そういわれたマニングはグインドの横で肩を震わせている。

 もしかしたら俺達は相当屈辱的な仕打ちを彼にしてしまっているのかもしれない。

 頭に浮かんだそんな疑念と、答えを待つ静寂が俺の意識を支配し始めたころ、丁度それを打ち砕くかのようにして機械的な声が室内に響いた。

「お待たせしました。当機はこれより離陸に入ります。乗客の皆様におかれましてはシートベルトの着用をお願いいたします」

 そう告げたアナウンスは僅かな雑音の後にプツッと音を立てて切れると、再び静寂にその場の支配権を譲ったのだった。

 そのアナウンスを受けて十数秒後、丁度俺達がシートベルトをつけ、卓上の片付けが終わったころ、機体は滑走路に向けて動き出し始めた。

 窓の向こうには恐らくもうしばらくは見ることのできないであろう日本の原風景が広がっている。

 その光景は俺の内に燻っていた最後の不安を煽るには十分で、一筋の涙が俺の頬を伝った。やはり記憶が無いとはいえ、慣れ親しんだ土地を離れるのだということは不安を加速させる。

 だが、もう後戻りはできない。不安はあるが心は既に決まっている。

 そんな俺の決心をさらに押し固め、固定するかのように飛行機は次第に加速し、俺の体には強い加速度が襲い掛かる。シートに張りつけられた俺の体は自然とこわばり、気が付いた時には涙はもう止まっていた。




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