日常の裏側へ

「準備出来てるなら行くぞ」

 マニングはそう言って俺に部屋を出るようにと促した。

 部屋を出ると、例の広い一室が俺達を出迎えた。マニングは先行して部屋の右側にあった廊下を進んでいる。

 彼の後に続く。その奥は行き止まりになっていたはずで、あるものと言ったらトイレくらいだったはずだがと思いながらも、俺は黙って彼の後ろをつけて行った。

 これでマニングが方向音痴と分かれば、それは今までの侮辱に言い返すネタにもなるからだ。

 この廊下はトイレの奥に三メートルほど進んだ場所で壁となっており、それ以上先はない。だが、彼はつかつかとトイレを過ぎても歩を緩めることはなかった。

「お前、前が見えるか?」

 マニングは歩きながら意図の掴めない質問をしてきた。

 今この場にいるのは俺と彼だけなはずで、ということはつまりその質問に答えるべき人物は俺ということになる。だが、前を見る限りその答えは質問するまでもない。明白だ。

「え、壁……ですけど?」

「まあ、そうだよな」

 彼は落ち着いた様子でそう言って俺の答えを肯定した。

 何を言っているんだ。ここに壁以外のものがあるはずがないだろう。何せ、どこを見たってそれ以外のものはないのだから。

 彼が肯定したせいで、ますます先ほどの質問の意図が読めなくなってきた。

「なら、見ておけ。……これがお前が足を踏み入れる世界だ」

 そういったマニングは歩調を緩めることなく壁に向かって、その向こう側へと消えていった。

 待て、何が起こった。

 たった今目の前で起きた現象の認識に理性が追い付かず、小さなパニックが俺の脳内で発生する。

 壁の前で立ち止まり、きょろきょろと周りを見まわしてみたが、他に道があるわけでもない。というかそもそも、この壁に向かって消えるところを見たのだから他の道にそれたということは絶対的にありえないのだ。

 ならば――、と恐る恐る少年を飲み込んだ壁に向かって手を伸ばしてみる。

 すると、壁などそこに存在しないかのように俺の手はその幻影をすり抜け、この向こう側にあると思われる部屋の空を切った。再び目を向けてみてもそこにあるのは紛うことなき壁で、こうして実際に手がその向こうまで貫通した今であっても、俺の目に映るその光景は受け入れがたいものであることに変わりはなかった。

 手に続いて、足をその壁に向けて動かしてみる。だがこの踏み出した足も先ほどの手と同じようにこの壁の向こうにある空間へ入り込み、その床へと着地を果たした。かくして、心を決めた俺は壁に衝突をしに行った。否、目の前の壁を超え、もう一歩足を踏み出した。

 脳が視覚情報と行動の食い違いにエラーを引き起こしながらも、俺は歩みを止めず一思いにその壁の向こう側へと飛び出した。

 いざ越えてみると何ということはない。何の反発も無く、暖簾に腕押しだった。実際布一枚も押しているような感覚は無く、ただ見かけ倒しの壁をすり抜けたといった感じだ。俺はまるで幽霊にでもなったような気分で、壁の先に出ると、最悪なことに再び理性の限界に出くわすこととなった。

  なぜならそこに広がっていたのは部屋からの風景からは想像もつかないような光景だったからだ。

 正確に言えば、壁を抜けた先の廊下の窓の外にその景色が見えただけなのだが、それは先ほどまでの世界との差を感じさせるには十分なもので、片側二車線以上ある大きな幹線道路に、立ち並ぶビル群、道の先にはここでは見ることもないだろうと思っていた大型ショッピングモールらしきものも見える。

 だが、普通の都会とは少々様相が異なっているようで、通りに面している店達の名前はどれも見たことがない。行き交う車も現代の街で見ることの出来るような車から、一昔前のような空気抵抗など無視した四角いデザインの車、果てには道を馬車が走っている姿も見えた。

「飛行場でグインドとヘイルズの二人と待ち合わせだ」

 マニングは歩みを止めることなく進みながらそういった。彼の手にはいつの間にか紺色のボストンバックが握られている。

 俺は、それについていこうと小走りになって彼を追いかけた。ふとその途中で後ろが気になって、俺達が出てきたはずのところを見てみたが、その先にあったのはさっきと同じただの壁だった。

 建物を出たマニングは立ち止まることなく、通りを下っていく。

 俺はと言えば、日本の原風景から一転、東京やそれに準ずる大都会を思わせる風景に変わったことにもはや思考を放棄し、ただ青く澄み渡った空を見つめながら彼の後を歩いていた。

「おい、大丈夫か?」

 マニングはそう言うとようやく立ち止まって俺の方を振り向いた。

「いや、大丈夫というか、まあ体調の方は問題無いんだけど、頭が追いつかなくて」

「最初の内はそんなもんだ。昨日説明されたと思うが、ここは日本のコミュニティだ。それがあんな小さなぼろっちい建物一つのわけがないだろう」

 マニングはさぞ当たり前だとでもいうかのように、理解が追い付いていない俺を笑って続けた。彼の言うことも一理ある。

 よくよく考えてみれば、世界的な組織があんなちっぽけなわけがない。



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