再出立
目が醒めた。このベッドで迎える二度目の目覚めだ。今日も昨日と同じで空は良く晴れていて、山には少し霞がかかっている。
枕もとに置かれていた腕時計を見ると、時刻は朝の六時過ぎ。東の空がほどよく白んできたころだ。
室内と言えど、十月中頃の朝となれば寒気を感じる。ましてや服装が服装だ。上は薄いシャツ一枚となればそれは当然寒いだろう。本音を言えば温(ぬく)い布団に戻って二度寝をしたいところだが、次に寝ては一時間後に起きられる自信が無い。
俺は、惰眠の誘惑から逃れるようにもそもそと身をよじらせながら布団から出た。
布団を出るなり、寒さに震えた俺はこの寒さに何とか身を慣らそうと考え、窓を開けようとして窓際まで歩いた。
すると、何やら窓の下の方から煙が昇っているのが目に入った。窓を開けると、煙草特有の匂いが鼻を衝く。俺が窓を開けた音に気が付いたのか、煙草を吸っていた彼は煙草を口から離し、こちらを向いた。
「お、お目覚めか。お前も一本吸うか?」
店長はジャケットの内側から煙草の箱を取り出すと、一本抜き出して俺に差し出してきた。
「いや、大丈夫です。まだ未成年なんで」
「本気にすんなよ、冗談だっての」
そういった店長は再び煙草を口に当てて、有害な煙を朝日差す瑞々しい森にまき散らし始めた。
「……ずっとその部屋にいたら退屈だろう」
森の向こうに目をやったままの店長はぶっきらぼうに口を開いた。彼が見ていたのはまだ朝霞の晴れていない彼方の山々だ。
「まあ、そうですね。でも寝てれば一日なんて一瞬ですよ」
少し笑ってそういった俺の声はやはり寒さのせいで震えている。ところがその僅かな揺らぎを嘘ととったのか店長は、本当か? と聞き返してきた。
「本当ですよ。単純に、少し寒いんです」
「なんだ、そういうことか。それなら部屋に上着があっただろう? それを着ればいい」
なるほど、それは気が付かなかった。それを聞いてすぐに上着掛けのほうを向くと、確かに俺の制服の後ろに隠れて、随分と暖かそうな上着がかかっているのが目に入った。冷え切った床の上をペタペタと音を立てながら歩く。
上着を取り、窓際に戻ると、店長は先ほどまで吸っていた煙草の火を踏み消しているところだった。
「俺としちゃあ、念願なんだけどなぁ……」
店長はぽつりと小さな声でそんなことを呟くと、大きく伸びをしてこちらを向いた。
「お前、降りてこないか?」
朝日に照らされた店長の顔は晴れ晴れとしたようにも見えるが、先ほどの言葉もあって強がっているようにも見えなくはない。
なぜ、と問いたい気持ちがふいに沸き起こったが、小さな声で言った言葉だ。彼には彼なりの理由、彼なりの思いがあるはずだ。それに対して不用意に、それも何も知らない一般人が土足で踏み入るのは、いくら見知った仲とは言え関係を悪くすることは明白だ。
少なくとも、俺なら何も事情をわきまえていないようなヤツに自分の内面へとずかずか入り込まれたら、気分が害されるのは間違い無い。
そうして色々と思いを巡らせた俺は結局、自分の疑問を込めて、あたりさわりのない答えをすることにした。
「そうしたいんですけど、出ていいんですか?」
「いいもなにも、俺達は奴隷じゃねえぞ。いちいち部屋を出るのに許可があってたまるか。……だから大丈夫だ。降りてこい。そんな心配そうな顔すんな」
彼はそう言いながら、俺に向かって早く来いと言うかのように手招きをしてみせた。
確かにそれはそうだ。
外はここよりも寒いだろうが、長い間部屋にいたせいで感じる閉塞感からは解放されるだろう。
部屋のドアノブに手をかける。
ドアノブは金属製で、氷のように冷えていた。
どうして暖房という便利なものがあるこの現代で、こんな寒い思いをする必要があるのだと心の中で悪態を吐きながら俺は部屋を出た。
するとスリッパの音が妙に響く。不思議に思い、俺は足を止めて顔を上げた。
そこに広がっていたのは高い天井の長い廊下。
高さはおそらく五メートルほど。床は俺のいた部屋と同じで木製。壁は漆喰で塗り固められている。
窓がなく、寒い上に暗い。
明かりは無いのかと、天井を見たがそれらしいものは見当たらなかった。壁に沿って視線を動かせば、自分が出てきたのと同じ扉が四つ並んでいて、さらにその少し先には天井に当たる光が見える。
恐らく階段だろう。
暗くて足元が見えなかったため、俺は壁に手を当てながらその光の差す方へと向かった。向かう途中、階段じゃなかったらどうしようとか考えたが、辿り着いてみればそこには予想通り下へと続く階段があった。
ただ、それを前にして思ったのは、随分と急な傾斜だということ。
スリッパで下るにはいささか不安が勝る。
だが、いざ下り始めてみれば大したことはない。問題無く一階にまで下ることが出来た。
一階は二階とは打って変わって明るく、現代色が強く感じられた。と言っても、それを感じた原因が大きな窓と自動販売機という理由であって、基本の木造であるという点はあまり変わってはいない。
階段を下りると今度は幅五の広い巨大な廊下に当たり、その廊下から等間隔で他の場所へ通じると思われる道が伸びている。
外に出る道は思いのほか簡単に見つかった。
ドアについたガラス越しに外を窺うと、先ほどよりも明るくなっているのが分かった。白んでいた空もより一層青みを増して、太陽が山の影から顔を出しただろうことを俺は悟った。
こちらのドアノブも俺のいた部屋と同じで冷え切っている。しかし、こちらは回して開けるタイプではなく、ドアノブを下に引いて開けるものだったため、部屋を出る時とは違って指先だけでも開けることが出来た。
外に出るとそこに広がっていたのは、完全なる田舎の景色だった。森の中の少し開けた場所に建っているこの施設の周りには、およそ建造物と呼べるものは無いように見える。大きなショッピングセンターどころか、舗装道路が無いとは、ここは完全に自給自足なのかと驚きを抱きながら俺は店長のもとまで急いでいった。
「遅かったな。道にでも迷ったか」
彼は変わらず瑞々しい森を背中に太陽の光を浴びていた。
「まあ、そんなところです」
「馴れないところだし、迷うよな」
そう言いながら店長は、もう少し開けた場所に置いてあったベンチまで歩いていき、そこに腰をかけた。
ベンチは丁度朝日の当たる場所にあったおかげで、座面を濡らしていた朝露は既に気化した後だったようだ。
「ほら、座れよ」
店長はそう言ってベンチの隣を示す。
「あ、はい」
俺はそれに従って彼の隣に落ち着いた。だが、彼の体格はあまりにも良すぎるため、このベンチでは少し窮屈だった。
「……」
しばしの沈黙が朝の森に流れる。朝日は俺達の背中側から差し、完全に冷えた体をぽかぽかと温まらせるには、それ以上ないほど最適な手段だ。
日光を浴びると自然と頬がほころぶというもの。そうして、体も温まり始め、僅かな眠気が蘇って来たとき、彼は再び口を開いた。
「時計、悪かったな」
彼はそう謝った。眠気のせいで一瞬何の事か分からなかったが、すぐにあの時のことだと頭の中に伽藍堂での出来事が甦ってきた。
「いえ、別に今じゃもう気にしてませんよ」
「……気づいてくれたか?」
不安そうに店長は質問を重ねてきた。おそらく枕もとにあった腕時計のことだろう。
「ええ、ありがとうございます」
そんな彼をなだめるように俺は慎重に言葉を発した。
「そうか、なら良かった。気づいてなかったらどうしようかと思ったもんだ」
店長は緊張が解けたかのように、前かがみだった姿勢を起こして、その厚い胸板の張った胸部を露わにした。
「一応、それが確認したかったんだ。腕のは大丈夫だったか?」
「そっちに関しては元から何の問題もなかったですよ」
俺は上着の袖をめくりあげて、時計を付けていた手首を彼に見せつけた。
「あぁ、良かった良かった」
店長は俺の方を向いて、朝日の中、顔をほころばせた。
「今日、出発だな」
店長は先ほどと同じく、その顔に僅かな影を覗かせながら、感慨にふけるようにそう言った。
「そうですね――」
――そう。今日で今までの宮代巌志という人物は一旦終わる。俺は何も知らない、でも確かにあった「宮代巌志」という一人の男の世界はここで終わるのだ。
そして、これから始まるのは「魔術師、宮代巌志」の人生。何も知らず、何の前触れも無く突然奪われた自分を取り戻すための新しい人生。
一度踏み出してしまえば、戻ることはできない長い旅路。俺はそんな終わりの見えない旅へと出るのだ。
分かっていたつもりだったが、改めて考えてみると無謀ともいえる道だ。だが、俺は自分を取り戻したい。失ったものを、全て。この想いだけはどうあっても変わらない。
だから――。だからきっと、俺のこの選択は間違いではないのだろう。
「まあよ、なんか困ったら頼ってくれよ。これでも魔術師の端くれではあるからな」
店長はそう言うと胸をバンッと叩いてみせた。
確かに、顔見知りが一人でもいるとなれば心細さなんてのはほとんど感じなくなる。
「何かあった時はそうさせてもらいます」
「おうよ」
そう言って優し気な笑顔を浮かべた店長は、手を差し出してきて続けた。
「記憶の欠落者同士、頑張っていこうや」
その言葉に、俺も差し出された手をしっかりと握り返して、出来る限り元気に「はい」とだけ答えてみせた。
その後、店長との会話は時間のこともあってあまり長くは続かず、それぞれの部屋に戻ることになったせいで話の続きは出発の時まで持ち越しとなってしまった。
俺が殺風景な部屋に戻った時には、冷えていたはず体も、もうすっかり陽光で温まっていた。枕もとの腕時計を見ると、時刻は七時の十分前。俺は、昨夜の内に机の上にまとめた荷物の中に新しく薄汚れた寝巻きを詰め込み、スリッパから元々履いていたスニーカーへと履き替えた。靴裏には泥がこびりついているようだが、それはまあいいだろう。最後に、俺は枕もとに残っていた腕時計を手に巻き付け、ベッドに座って時が訪れるのを待った。
そうして、ほどなくすると旅立ちを告げる一人の少年の部屋の扉を軽く叩く音が室内に小さくこだましたのだった。
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