邂逅 1
同日 「館」の森
息が上がる。
かれこれ三十分ほど森の中の斜面をただひたすら下り続けているが、一向にふもとに出る気配が無い。
そのうえ霧は一層濃くなり、足元の視界すら奪っていっている。
「ハァッハァッ」
自分の激しい息遣いだけが夜の森に反響する。
館の横でのあの出来事の後、特に誰かが追ってきているような気配は無い。
俺はただひとりで山を駆け下りている。
とにかく、追手も無く逃げられたのならそれはそれで僥倖だ。
このまま坂道を下り、山を抜け、人のいる街に出よう。 度々木の隙間から街の明かりや車のライトらしきものが見えた。
人が住んでいることは間違いない。
そこに出たら、俺は――。
……ふと、立ち止まって考える。
今は近くにいないだけで追手はいるかもしれない。
仮にそうであれば立ち止まるわけにはいかないのだが、この単純な疑問には答えを出さなくてはならない。
でなければ……。
でなければ、俺はどこに帰ればいいのか分からない。 このとき俺の頭に降って湧いた疑問はとても単純なものだった。
――俺はどこの誰だ?
いや、分かっている。
自分は宮代巌志だ。
帰るとしたらそれは自分の住んでいた家で、そして育った街だろう。
だが、それが分からない。
穴だ。
元から無かったかのような記憶の欠落。
思い返せば、このハンドタオルを買った理由も思い出せないし自分の通っていたはずの学校も思い出せない。
隣の席に座っていたはずのアイツも、きっと居たであろう先生も、弁当の桃を切ってくれた人も全て記憶の中から消えている。
冷えた夜の森の中、疲れ切った体で必死に推理する。
――そうだ、財布の中に何か入っていないか。
そう思い至るとすぐにリュックを開け、中からそれを取り出した。
スマホをかざし身分証となるものを探す。
カードポケットに入っていたものを全て引っ張り出して一枚一枚確認した。
そして、残り二枚となったとき。
片方のカードに「学生証」と書かれているのを発見した。
だが、それを見て俺は絶句した。
そこにはあったのは名前、顔写真、そしてこのカードが何であるかを示す「学生証」という文字だけ。
反対に、その他の情報、つまり学校名であるとか、学籍番号など、そういったものがまるで最初から書かれてなどいなかったかのように空白となっていた。
マジかよ――。
息を整え深呼吸をする。
これで俺は完全に自分がどこの誰かが分からなくなったわけだ。
だが、かといってあの館に戻ろうという気は無い。
このまま山を下り、下に見えた街まで行く。
今はそちらに集中しよう。
そう胸の中の不安から自分を騙すと、俺は再び霧にまみれた山道を駆け出した。
それからさらに二十分ほど斜面を下った。
すると斜面が次第に緩やかになり霧も晴れ始め、ついには木々の向こう側に白く輝く街の明かりが見え始めた。
へとへとになり、笑っていた膝に活力が戻る。
あと少し、あと少し行けばこの霧から抜け出せるんだ。そう自分を元気づけ、最後の力を振り絞った。
走る、限界を迎えた体力と体に鞭を打ち必死に走る。
喉は血の味がするし、何度捻ったか分からない足首は今にもねじ切れて無くなってしまいそうなほど痛んだ。
それでも足を止めない。
伸びきった草は走る俺の顔面や腕を強打するが、それも今はどうでもいい。
ただ、目の前のあの場所にめがけて走るんだ。
そして、ついに俺は霧の森を抜け出した。
霊柩車のように黒い車が街の中を走る。
後部座席の窓から外を覗く少年は、「はぁ」とため息をつき、運転手の青年へと語りかけた。
「グインド。車を止めろ。出るぞ」
少年は運転手に命令すると、目を閉じ、ぶつぶつと何かを唱え始めた。
運転手は命令通りに車を止めると、後部座席の少年が静かになるのを待ち、その車から降りた。
「――ッ。間に合わなかったか……」
グインドに続いて車を降りた少年は、辺りを見渡してそう言った。
「そうですね」
「せめてなんか痕跡くらいは見つけて帰んねえとな。俺らの保身もそうだが、そうしねえと、誰よりここに居たかもしれない奴らが浮かばれねえ」
マニング苦い顔で周囲の探索を始める。
「待ってください、マニング。貴方の単独行動はもう許しません。先行しすぎないでください」
車のトランクから細長い筒のような形状をした何かを取り出し、肩にかけながらグインドは先を行く彼を呼び止める。
「分かってるって。だから待ってんだろ。早く来い」
マニングはポケットに手を入れ、車から少し離れたところで彼を待っていた。
それを見たグインドは駆け足でマニングに追い付く。
「それ、要るか?」
マニングは駆け寄ってきたグインドに彼が肩にかけている筒を指して質問した。
「ええ、必要です。特に私は貴方たち上位と違って力も強くはないのですから」
「ハッ、よく言うよ。身内狩りもこなすくせしてよ」
「人聞きが悪いですね。こっちだってやりたくてやってる訳じゃないですから。問題があったのだとしたら、それは彼らの魂のあり方ですよ」
「まあ、ものは言いようってやつだな」
そう言うとマニングは再び車内と同様、何かを唱え始める。
グインドはそれを横で見ながら胸ポケットから煙草を取り出し、それを一本口にくわえると、ライターで煙草の先に小さな火を灯した。
煙が夜空に昇っていく。
空には星々が煌めき、山の上では月が輝いている。
「あっちだ」
そう言ったマニングは車から見て右斜め前方、丁度月の浮かんでいる方向を指さした。
「お前また煙草吸ってんのか?」
「いいでしょう。これくらい。それにしても便利なものですね、その――の力」
煙をくゆらせながらグインドは、マニングの「力」について言及する。
「お前にはそう見えるのか……。でも実際は結構面倒くさいぞ。正直、なるなら八位がよかった」
「本当ですか?
だって……四位ですよ? 三位までが空位の今、実質的にはトップなんですよ?
それでもですか?」
「何言ってんだ、馬鹿。昔の話だ、昔の。
今はこの力を俺以外の誰かがまともに扱えるとか思っちゃいねえよ」
そう言ってマニングは否定するように手を振ると、指をさした方角へと歩き出した。
グインドもそれに従い、煙草を下ろしてそちらの方向を見る。
月の下、山から街へ向けて広がっている森の上に覆いかぶさるように霧が立ち込めている。
先を行くマニングは、歩調を緩めずそちらに歩いていった。
グインドもそれに遅れないよう、煙草を踏み潰して火を消すとそのあとを追った。
俺は森を抜けた。
視界を僅かに覆うばかりになっていた霧はもはや無く、俺の眼前にはある景色が突然立ち現れ、そして俺はその色に目を見開いた。
白。
視界に飛び込んでくるのはその色ばかり。
地面も、建物も、道路横の街路樹も、皆全て色を失い、月光に照らされ白く、それもかつて見たことのないほど美しく輝き、その輪郭を暗い夜の中にはっきりと映し出していた。
膝から崩れ落ちる。
必死に走ったってのにこれか……。
これで全て合点がいった。
なぜあの時追ってこなかったのか。
――それは俺には館へ戻るしか残されている道がないからだ。
一瞬、自死の道を考えたが、どうやら肝心のカッターをどこかに落としてきてしまったらしい。
はぁ、とため息をつく。
この足で館まで戻れるだろうか。
しばらく時間を置けば何とかなるかもしれないが、少なくとも今は無理だ。
今はもう何も考えたくない。
きっと記憶が残っていれば、この景色を見て何か感情を抱くことも出来たんだろう。
だが今の俺には無理だ。
この町が俺の住んでいた街かどうかすら分からないのだから。
俺は天を仰ぎ、夜空を眺めた。
今日は、やけに星がきれいに見える。
星々はきらきらとそれぞれの色に光り輝いて、黒い世界をその光で照らし出していた。この純白の街もあの星々の僅かな光と、沈みかけの月光によってこれほど美しく輝いているのだろう。
ああ、同じだ。
俺も、記憶という今の俺を照らし出してくれるものがなければ、自分が分からない。
クソ――。一粒、涙が頬を伝う。それは目の前の街を見て出たものではなく、足の痛みから出たものでもない。
それはただ、悲しむことすらできない自分への悔しさから来たものだ。
「よぉ。噂通りやってきたな」
まだ若い、少年のような声が白い街に響く。
声のした方を向くと、おそらく今声を発したと思われる一人の少年と、その背後に彼に追従する形で歩くスーツ姿の男がいた。
「この少年が『痕跡』ですか?」
「ああ」
二人の話していることがよく分からない。
何だ、痕跡って。
痕跡……。何の――、!
そこではっと気が付く。
「っ……」
「お、このガキ意外と勘が鋭いじゃねえか」
少年は涙でぐちゃぐちゃになった俺の顔を覗き込んで感心したように言う。
「ああ、たぶんお前の想像通りだ。
お前が見てきたものがどんなものか、俺たちは知らねえ。だが、俺たちはここをこうしたヤツを、都市喰いっていう存在を知っている。
この街がヤツの被害にあったことは過去の記録と照らし合せても明白だ。
だから……今ここで吐け。お前の見てきたものを、全て」
「分かり――ました。
でも、……あの、その前に、ちょっといいですか?」
そんな俺の言葉に、目の前にいた少年の目が驚いたかのように大きく見開かれた。
あり得ない。
なぜこのガキは吐かない。相手はただのガキだぞ。じゃあなんだ? あのガキは俺より『上』ってことか? 嘘だろ、冗談キツイぜ。
心の中で頭を抱えながらマニングは執行官として次の手を考えることに意識を集中させる。
こんなガキ程度に『上』を取られたことは癪だが、今はそれを気にしてる場合じゃない。
こうなったらこいつを強制的に無力化してからの方がいい。
「グインド。……構えろ。こいつは俺より『上』だ」
その言葉が一気に緊張を走らせる。
グインドと呼ばれたスーツの男はその言葉を聞くと、すぐさま担いでいた筒を開け、中世の騎士道物語にでも出てきそうな銀色に輝く剣をその中から引き抜いた。
「いや、ちょっと待ってくれって……」
ようやく出会えた助けかと思ったのにこれかよ……。
せっかくあの館から逃げられたってのに、ただ訳も分からず殺されるのだけはごめんだ。
相手の目を見れば分かる。
彼らはもうこちらの話を聞く気が無い。
「グインド。相手は民間人だ。それまで使う必要は無い」
「ですが……」
少年は、なぜかスーツの男に剣を下すように指示している。
逃げるのであれば今がいいだろう。
そう判断した俺は、足の痛みなど全てを無視し、白い街の中をめがけて持てる力を全て使って走った。
だがもはやそれは牛の歩みも同然だった。
グインドと呼ばれた男には先回りされるうえに、体力も気力も全てが限界だった俺は十メートルも走らないうちに自分の足でもつれて転んでしまった。
「とりあえず、確保だな」
視界の外側から少年の声が響くとほぼ同時、俺の腕は背中側に曲げられ、体の上にあのスーツの男がまたがってきた。
だんだんと意識が朦朧とし始める。
折り曲げられた腕の痛みすら、次第に薄れていって、周りの音も少しずつ遠くなっていく。
「結界の方は普通に効くのか、お前。何なんだ」
そう言って少年は不思議そうに俺の顔を覗き込んだ。
「そうだな……、さすがに本部まで一気に連行ってのは難しいだろうが、日本の■■■■■■までなら保つか。グインド、そいつを車へ運んでくれ。俺はこの街の後処理をしてから行く」
「ですが……」
「大丈夫。どうせ抵抗できねえよ。
それに、初めての収穫だ。そんなに心配だったら今のうちに縛り付けておけ」
遠く霞む意識の向こうで少年がそう言うと、俺の体はスーツの男に軽々と持ち上げられその肩に担がれた。
朦朧とする意識の中、遠ざかっていく純白の街と、そこに立つ少年を見る。
少年は右手を掲げていた。
何か言っているが、もう遠すぎて声は何も聞き取れない。
意識はだんだんと遠のいていく。
そして、意識が切れる寸前。
肩に担がれた俺の目に最後に映ったのは、少年を中心にして円形に青白く輝いた地面と、巻き起こった風圧の中から現れた埒外の異形の姿だった。
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