脱走
逃げる必要がある。
と言ってもここは二階。
窓の外は下の分からない暗闇だ。
何かいいものがないか、と思いながら室内を見渡すと、あるじゃないか。まあ正直。こんなものを使って降りるとか海外映画でしか見たことないけど……。
俺はそれのかかった壁に近づき、取り外すことができないかとその周囲を探る。
生地は結構厚めでしっかりと結べば途中で破けるなんてことはなさそうだ。
だが、果たしてこれに正しい結び方があるのかなど、甚だ疑問ではある。
今はスマホが使えないから手探りでやるしかない。
上のレールを見る。
作りは単純なもので、レールにあるフックにカーテンのフックを引っ掛けて設置するもの。おそらく、机にある椅子を持ってくれば俺でも手が届くだろう。
「よし、やるか」
ひとり合図のようにそう呟くと、俺は椅子を移動させ、かけられていたカーテンを取り外し、ベッドの上で命綱を作る作業へと入った。
カーテンは全部で二か所にある。
だから結んでしまえば遮光カーテンだけでもそれなりの長さになるし、その後ろにある採光カーテンも合わせれば下の地面にも届くだろう。
唯一の痛手といえば、ここの下の部屋の様子が分からないこと。
本来ならこんな博打は避けたいところだが、今回ばかりは賭けてみるしかなさそうだ。
全てのカーテンを結び、命綱を完成させると俺はあることに気が付いた。
窓とベッドの距離だ。
実際に結びあげた命綱を並べるとその不足分がはっきりと分かる。
少し頼りないけど、ここはベッドのシーツでも結んで長さを稼ぐことにしよう。
幸運なことにシーツと命綱を結び付けてみれば、窓とベッドの間にあった不足分はしっかりと埋まってくれた。
これでこの命綱を固定することが出来る。
さて、次は着替えをしたいところが、俺の制服はまだ返ってきていない。
だからこれは後回し、次は荷物の整理といこう。
リュックの中身を机の上に広げる。
ノートが二冊に厚い教科書が一冊。筆箱と歯磨き道具、財布と定期、そしてワンポイントの刺繍の施された小さなハンドタオルが一枚だ。
まず教科書だが、これは走るには少し邪魔になるためここに置いていくことにしよう。
次にノートだがこれも同じだ。
幸い、ここにある教科書もノートもものすごく大事な教科ではないうえに、授業に関してはプリントが主軸になるものばかり。
ノートが無くても問題はない。
筆箱もこれに同じ、と言いたいがこの中にあるカッターくらいはまだ使い物になるかもしれない。
財布と定期券だがこれは極力持っていきたい。
こんなところに個人情報を残したら、それこそどうなるか分かったもんじゃない。
次に、ハンドタオルだ。これは持っていった方がいいだろう。
そして、あとは弁当箱だが――。
まあ、置いていった方がいいな。
嫌いではあるが中の桃くらい食べていくか。寝起きで口の中に水分がほしいところだし。
そう思い、リュックとともにかけてあった袋の中から弁当箱を取り出し、その蓋を開けて昼の残りの桃に手を伸ばす。
するとなぜだろうか、学校での一コマが頭をよぎった。桃……。
俺は運がよかったのだろうか、そのことを思い出すと桃を勢いよく頬張った。
昔の自分の発言が頭の中で反響する。『こんな話、興味を持っている奴なんてこの時代そこまで多くはないだろうに』。
果たして、これであの神話通りにいくのか。
川を渡ってきたあたり、こちらが彼岸の可能性があるためこれを食べた訳だが、この行動が吉と出るか、無駄な行動となるか。
それは実際に逃走を図ってみないことには何とも言えない。
深呼吸をする。
服はまあしょうがない。この渡された寝巻きだけでも十分とは言える。
もう一呼吸おく。
初めての試みに胸が高鳴る。
結びあげた命綱をベッドの足に結び付けた。
しっかりと、解けないように。
何度か引っ張って解けないことを確認し、それを窓まで持っていく。
ところで、夜闇のせいで地面が見えないという脱出において差し迫った問題は、あの価値の急落した板切れによって解消されることになった。
画面をタップし、現代を彩る人工の光を自然の闇の中に落とす。
鈍い音を立てて地面へと落ちたそれは、狙い通り地面の上で目印のように煌々と輝いている。
俺は命綱を下に垂らしていく。カーテンと窓枠が音を立ててこすれた。
身を乗り出し、それが下についたことを確認すると、俺は随分と軽くなったリュックを背負い、足を窓の外に出した。
窓枠に手を付いてゆっくりと体の向きを変える。
そして俺は足を命綱に絡ませ、最後の手を放した。
どうやら命綱自体は十分に俺の体重に耐えられるようで、ひとまず安心だ。二階から落下することはなかったのだから。
俺はゆっくりと降下を始めた。
一歩、また一歩と着実に目印のある地面へと近づいていっている。
そして数分後、俺は無事に地面へと至った。
やっぱりこっちの方がいいな。
地に足付いている方がいい。地面を軽く蹴って俺はそんなことを考えた。
森はしんとしている。
音一つなく、虫の声や草の揺れる音すら無い。背後に館の明かりがあるが、霧と夜闇のせいで木を一本超えた向こう側はほとんど見えない。
地面に落としたスマホを拾い上げ、ポケットにしまう。
これから自分がこの闇の中に身を投じると考えると足がすくみそうになるが、今はそんなことを言っている場合じゃない。
意を決して一歩踏み出す。
ジャリと砂を踏みしめる音が聞こえる。
森まではあと二歩も進めば入れる。
館から声は聞こえてこないし、ひとまず脱走の第一段階は成功といえるだろう。
さらに一歩、前へ進む。
もう森は目と鼻の先だ。この中に入ってしまえば後は斜面を下に進むだけ。
あと少し。
そうして、さらに前へ。
森は静かに来訪者の到来を待ち続けている。
「巌志様?」
声が響いた。
不安げな色を帯びたその声は、這うように俺の耳に入ってくる。
聞きなじみのある声だ。
彼女はこの俺が館にいた僅かな時間の中でも最も俺と関わりがあった人物だ。
だからだろうか、頭がとっさに声のした方向を向いてしまった。
頭の中ではそれが今取るべき行動ではないことは分かっている。
だが、ときに人間はそういった合理的ではない行動を取ってしまう生き物なのだ。
彼女と目が合う。
俺をじっと見つめる彼女の双眸は漆黒で生気を感じる光が無い。
虚ろな目とでも言うのだろうか。
何かが違う。
俺の知るあの彼女と。
俺はとっさに身の危険を感じて後ずさった。
しかし彼女もそれに合わせて前に出てくる。
それはさながら獲物を追い詰める蜘蛛のように。
俺の後ろには夜霧に包まれた森が大口を開けて待っている。
「どこへ行かれるのですか?」
生気の無い目のままソレは口を開いた。
「夜の森は危ないですよ。さあ、こちらへ来てください」
ソレは手を伸ばす。
きっと数時間前の俺ならこの手が蜘蛛(すくい)の糸に見えただろう。
だが、今は違う。
「いえ、大丈夫ですよ。二葉さん」
そっとリュックのポケットに入れたカッターナイフに手を伸ばす。
相手は埒外の何かだ、これっぽっちの小さな武器で対抗出来るなんて思っちゃいない。だが、こんな小さな武器でも無いよりかはましというものだ。
「怒りますよ」
二葉さんの形をしたソレは、抑揚の無い無機質な声で淡々と最終警告を発し、また一歩近づいて俺に手を伸ばす。
だが、今回差し伸べられたその手は以前の救いを差し伸べる手ではない。
ただ、獲物を逃がさぬようにと伸ばされた手だ。
また一歩、確実に獲物を捕えようと彼女は近づいてくる。
「……二葉さん」
ソレは俺の呼びかけに一瞬反応を示し、その歩みを止めた。
「――さよならです」
その言葉を聞いた瞬間、アレの顔が怒りに染まっていくのが分かった。
だが、ここで止まる訳にはいかない。
俺を捕えようとアレが走り出すより早く、俺は体を翻し、夜霧の満ちる森の中へと全速力で駆け込んだ。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます