推理

何か、大きなものが廊下の壁を擦ったような音。

 目の前の壁の向こう側からその音は聞こえてくる。

 加速させていた思考は勢いそのままに、入り口のドアを確認すると、直感に従って全ての行動を停止させた。

 これは――、ダメなやつだ。

 人間として、この世に生きる者としての直感の全てが壁の向こうのナニカから逃げろと強く促してくる。

 ゾクリ、と汗とともに悪寒が背筋を流れていった。

 幸い、入り口となる部屋のドアは閉められている。

 恐らく、この机上灯の光だけでは部屋に明かりが灯っていると気づかれることは無いはずだ。

 そんなことよりも……、向こう側のアレは関わってはいけないものだ。

 生物としての次元が違う。

 そう、俺の中の本能が、悲鳴を上げた。そして、それに共鳴して俺の心拍も一気に跳ね上がる。

 ――ズ――。……ガチャンッ。

 再びそれが壁を擦った音を出した後、花瓶が割れるような音が廊下に響いた。

 俺は椅子の上で息を殺してソレが過ぎ去るのを待つ。 これがターニングポイントだった。

 永遠に思えたその時間の中、加速した俺の思考は頭の中で先ほどの歌と、この音とを急速に結び付けていく。

 まず、この館の主は誰だ――それは霧の主だ。

 では今その主はどこにいる――出先、もしくは今壁の向こうを通り過ぎていったアレだ。

 仮にアレが主人だったとしても、明らかに人間ではないぞ――お前は今日既に人間離れしたものを見てきたじゃないか。

 なら俺はこれからどうなる――歌の七節目、みんな食べましょう……。

 あの歌が現実を表しているというのか――そうだ。既にお前は夢と現実の境を歩いたじゃないか。

 根拠はそれで十分だろう。

 その結論に至ったのは偶然だったかもしれない。

 だが、それで十分だ。

『生きていたい』俺がここから逃げ出そうとしていることの理由。

 最も原初的、かつ最も強い願い。かくして、俺の行動は決まった。

 確認は不要だ。

 推察しろ。

 二葉さんや他のメイドの言葉。屋敷の位置。ここまでの道のりの全てが要素だ。

 目を開けろ、どんなにあり得ないようなことも、他の全てを排除して残ったのならそれが答えだ。

『街を見つめて今日もにっこり』なぜ笑う? 

 街に何かがあるのか。

 それとも街そのものが目的か。

 これだけではどちらの可能性もある。

 二葉さんは主について何と言っていた。

 飯を食べる俺を見て主人と違うと言った。つまり、主人はご飯を食べても感想を表現しない、もしくはそもそも食べないか。

 仮に食べないとしたらそれはなぜだ。ダイエット? 太り気味で無知な主人であればそれはあり得るが、整えられた食器や料理に使われていた食材を見ても、ダイエットをするために食事を抜くようには見えない。

 それどころか、食には一定のこだわりがあるように見える。

 では料理を作る側の問題か? 

 いや、それは論外もいいところだ。

 これほどの豪邸、メイド達使用人を個人的に雇っている可能性の方が高い。

 であれば、即座に解雇ということもできよう。

 では、街で美味しいものを食べるから街を見て大口を開けるのか? 

 いいや、それも違う。

 アレはそもそも人間ではない。

 そうであるのなら、どこか街の施設を利用するということではないはずだ。

 であれば、目的は街そのもの。

 街そのもので腹が満たせるのか? 

 それは分からない。

 街にいる人間を食うのかもしれないし、街そのものを食べるのかもしれない。

 では俺は食われないのではないか? 

 いいや、それもない。

 二葉さんは主人と違うと言っただけだ。

 まだもう一つ、館の中の者を食べてしまう可能性も残っている。

 仮にこちらの場合もあり得ると、俺はいつかは食われることとなる。

 最悪の場合、両方の可能性を満たしているなんてこともあり得る。

 結局のところ、主人は人を食べるのか街を食べるのか、そこまでは分からない。

 だが畢竟(ひっきょう)、俺はどんな場合であっても命の危険がある。

 ここはやはり何度考え直しても変わることのない部分だ。

 であれば、俺は今すぐにでも――。

 そうして俺が思考を行動に変えようとしたその時、コンッコンッとメイドさんがするのと同じように部屋の扉を叩く音が聞こえた。

 ドクンッと心臓の跳ねる音がする。

 額には緊張で汗が滲み、顎に当てていた手は若干震えていた。

「……」

 答えるか? 答えてもいいが命の保証は無い。

 だが何かしらの理由が無ければ俺の部屋を訪ねてきたりはしないだろう。

 もう一言だ、もう一声ドアの向こうの誰かが発するのを待ってから返答をしよう。

 すると、コンッコンッと再び扉がノックされ、それに続いて聞き慣れた声で俺の名前を呼ぶ声が聞こえてきた。

「巌志様。もうお休みになられておりますか?」

 安心に胸を撫でおろす。

 だがよく考えろ。彼女もアレを主として慕う身だ。

 完全に信用はできない。

 言葉は慎重に、でも不自然さのないように。

「いえ、まだ起きていますよ」

 そう返答しながらリュックの中から教科書を取り出した俺は、机の上のメモを隠すようにしてそれを広げ、さも勉強をしていたかのように取り繕う。

「あ、よかった。巌志様。夜、これ以降の時間は館内の自由な行動は禁止されております。

 ですので、くれぐれもお部屋を出られないようにお願いいたします」

 そう、いかにもな連絡を済ませると、彼女は「失礼します」とだけ言って俺の返事を待たずに扉の前から去っていった。

 彼女の気配が扉の前から消えるまで少し間があったから、おそらく一礼をしてから去っていったのだろう。

『これ以降の館内の自由な行動は禁止する』か。いかにもじゃないか。

 拾い集めた要素を頭の中でパズルのように組み立て、一つの確信へと至った俺は、その結末に身震いをした。

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