ユメの呼び声
――夢を視た。
俺は、見たことがあるはずの街の中にいた。
そこを歩く人々は、皆路地の真ん中で立ち尽くしている俺を存在していないかのように扱い、静かに横を通り過ぎていく。
まるで自分が透明人間になったかのような、自分だけが取り残されたかのような、そんな錯覚。
そして、俺はその中に見知った影を見た。
紺色のブレザーを着て、胸元には
その影は、あの公園で見た半透明人間にとてもよく似ていて、俺の目は彼女を自然と追いかけていた。
顔は……。
今の俺に見えるのは彼女の背中だけ。歩き去っていく彼女を追いかけようとするが、まるで足が地面に縫い付けられているかのように動かない。
声を出そうにも吃音症になったかのように最初の一言がずっと繰り返され続け、まともな言葉を発することができない。
その間も彼女は止まることなく先を急ぐ人々の中を歩いていく。
そして、彼女は終ぞ振り返ることなく夕方の街の中へと消えていってしまった。
だが、その後も夢は続いた。
場面は変わり、今度はどこかで見たことのある気がする家の中。
四十代ほどだろうか。
一人の女性が深刻そうに俯いてテーブルの上で手を組んでいる。
彼女の眼は追い詰められた獣というべきか、どこかを見ているようでどこも見ていない。
ここでも俺の状態は変わらなかった。足も声も出ない。ただその光景を傍観するだけ。彼女の事情を知りもしないのに何かしら声をかけようとするのは少し傲慢な気がするけど、今じゃそれもできない。
ただ、時間だけが過ぎていく。
と、突然、再び場面が変わった。
今度はどこかの駅。
俺は歩道橋の出口に立っている。駅名を探して辺りを見回した。だが、それの書かれた看板らしき物は見当たらない。
時間帯は変わらずに夕暮れ時。
そこそこホームが埋まるくらいには人がいて、電車が来るのを待っている。
一番近くにいる眼鏡をかけた男は現代人らしく光る板に視線を落とし、不要な情報の収集にいそしんでいる。
他の人々も様々だ。
学生は単語帳を広げる人物に、椅子に座って談笑をしている人物もいる。彼らが身を包んでいる制服は単語帳の人物と同じだからきっと同じ学校に通っているのだろう。
その談笑を繰り広げる学生たちの奥には、これはまた時代遅れに、駅のホームで新聞を広げる男がいる。
他にも音楽を聞きながら前を見つめる者。スマートフォンでゲームをする者。
現代における娯楽とは一体何を指すのかが分かるほど、このホームにいる彼らの行いは様々だった。
数分ほどして、電車が来た。
人々は次々にそれに乗り込んでホームは空となり、俺の場面も新たなものに切り替わった。
新たな世界は一面の黒。
夜闇の中にいて目が見えないだけかと思ったが、どうもそうではないらしい。
ただの黒。
何も無く、どこまで広がっているのかすら分からない。一瞬、ノイズが走ったように視界が揺れた気がしたが、結局何も起きなかった。
俺はそのままその場に立ち尽くし、暗闇を見つめ続ける。
また、少し時間が経った。
視界は相変わらずの黒。
だが、僅かな変化があった。
それは音だ。
何も無かったこの空間に、音が聞こえてきたのだ。とても小さく、他に何か音があればかき消されてしまいそうなほど小さな、極小の音。
次第に音はその形を露わにし、体裁を成した一つのリズムを刻み始めた。
歌っているのは二人の女性だ。緩やかな優しい歌声で彼女たちは言葉を紡ぐ。
「入るなかれよ、進むなかれ」
その言葉に空気が震える。
寒くはない、何か気味の悪いものを見たわけでもない。それなのに、鳥肌が立ち足が震える。
「街を眺めては今日も大口」
「ここは霧の主のお社よ」
その歌はさらに歌い手の姿を伴わずに続く。
「隠しましょう、隠しましょう。穴に落として、霧に隠して」
「海の向こうは今日も真っ白」
「羊はみんな食べて返しましょう」
「行きはらくちん」
「帰りは
「入るなかれよ、出でるなかれ、ここは霧の主のお社よ」
その歌は強く、はっきりと俺の記憶に残った。
仮に夢が覚めたとしても、この記憶は消えないだろう。
そして、その歌が止んだ後も、その音だけはいつまでも暗闇の中にこだまし続け、俺の意識を暗闇に縛り付けていた。
だが、どれくらいの時だろうか。
少なくともあの歌が五回は歌えるほどの時間が経過したとき、再び視界にノイズが走り、夢の場面は突然に終わりを告げた。
それと同時に俺の体は緩やかな覚醒へと入る。
今日に入って三度目の覚醒。
閉じられていた瞼を開き、俺は手足を動かしてベッドの上で上体を起こした。
時間を知ろうと癖で枕もとのスマホに手を伸ばしたが、その途中でそれが無意味なことを思い出し、伸ばした手を戻す。
代わりに部屋にある窓の外に目を向けた。
カーテンの隙間から見える外はまだ暗い。
日は変わったかもしれないが、まだ朝は迎えていない。
そこで、俺は夢で聞いた歌を忘れないうちに書き起こしておくことにした。
壁にかけられているリュックに近づき、筆箱と裏が白紙の一枚のプリントを取り出して、備え付けの机につく。
「入るなかれよ、進むなかれ
街を眺めては今日も大口
ここは霧の主のお社よ
隠しましょう、隠しましょう
穴に落として、霧に隠して
海の向こうは今日も真っ白
羊はみんな食べて返しましょう
行きはらくちん
帰りは霧中の道
入るなかれよ、出でるなかれ
ここは霧の主のお社よ」
書き記してみたものをまじまじと眺めてみるが、何も分からない。
ただの夢に意味を見出そうとすること自体おかしなことかもしれないけど、珍しく夜中に目が覚めたんだ。
この時間をただ浪費する訳にはいかない。
頭を回す。
だが、気合だけではどうにもならないこともあるものだ。
三十分ほど経ったはずだが、一向にアイデアが浮かばない。
もはや手詰まりか、そう、思いかけたとき。
ズ――と奇妙な音が聞こえた。
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