ム中館 3
夕食を済ませた俺はあてがわれた部屋へと戻った。
床に下ろしたはずのリュックは部屋の角にあったハンガーラックにかけられている。
おそらく他のメイドがやってきて整理したのだろう。皺のついていたベッドもきちんと伸ばされ、床に落ちていた僅かなゴミすら無くなっている。
夕食も済ませ、空腹を満たされた俺は残された睡眠欲を満たそうとするかのように真っすぐにベッドに向かい、その上に突っ伏した。
「疲れた」
ぼそっと独りきりの部屋でそんな言葉を口にした。開かれていた瞼は欲に忠実で、次第に重力に沿って下へと落ちてくる。
思い返せば、山登りなんていうそこそこハードな運動をした後だ、風呂には入りたい、と理性は叫んでいるが瞼はそんなことお構いなしに重くなっていく。
そして、必死に叫ぶ理性の声も虚しく俺の意識は微睡みの淵に立たされた。
意識は絶え絶えになり、僅かに聞こえていた虫の声も遠ざかって俺は音の無い暗闇へと落ちていく。
「巌志様。浴場の用意が整いました」
どれくらい経ったのだろう。
絶えた意識の隙間に聞き覚えのある声が入り込んでくる。
あぁ、あのメイドさんの声か、と微睡みの淵で細い記憶の糸を辿って意識を覚醒させた。そうして目を開けた俺は上体を起こし、その声に答える。
「すいません――。ちょっと寝ていたので……。その、少し待っていてもらってもいいですか?」
「はい。かしこまりました。どうぞごゆっくりと」
彼女は考えた様子も無く、あらかじめ定められたマニュアルに沿うかようにフォローも欠かさず、間髪入れずに返答をした。
脱ぎ捨てた靴を履きなおし、ポケットに入ったスマホを取り出して画面をタップする。
電源は入るくせに相変わらず電波は届いていないし、画面表示以外の一切の機能は喪失されたままだ。
もはやこんなものただの板切れとなったも同然だろう。
なにせこのスマホの目的を果たせていないのだから。俺はそれをベッドの上に放り投げ部屋を出た。
道のりはさっきと変わらない。
一階に降りたあと、館の奥に進み、先ほど二葉さんが出てきた廊下を進む。
折れ曲がった廊下の先には木製の両開きのドアがあった。玄関扉ほど豪華ではないが、一般家庭に比べれば十分すぎるほど豪華である。
「私はここまでとさせていただきます」
扉を開け、その横に立った美しいメイドはさらに言葉を続けた。
「お着替えはタオルとともに中に準備いたしました。浴場を出られる際は入って左手の壁にございますインターフォンで我々をお呼びつけください」
「分かりました。……ただ、上がるときは自分一人でも大丈夫です。メイドさんたちもお仕事が多いと思うので、一応連絡はしますけど、わざわざ来ていただかなくても大丈夫ですよ」
俺がそう言うと、彼女は一瞬だけ残念がるように顔を俯かせたが、すぐに気を取り戻し、俺が中に入るのを見届けて仕事へと戻っていった。
中は脱衣所というにはあまりに広すぎた。
ただの一般家庭が持つリビングなら二部屋分は余裕で入るだろう。
俺はそんな光景を見て、修学旅行で訪れた温泉旅館でもここまで広くはなかったぞ、と思いながらある違和感に気が付いた。
――俺の通ってた中学校の名前は何だったっけ。
まるで虫食いの葉のように、記憶に穴が空いている。思い出そうとしても、そこだけが最初から存在しなかった記憶であるかのようにすっぽりと抜け落ちている。
中学校の名前に関する一切の情報が俺の頭の中から抹消され、一つも見当たらない。
ただのど忘れか、今日の出来事で疲労が溜まったせいなのか。
それとも、当の本人である俺すら預かり知らぬ嫌な記憶があって、それを封じ込めているのか。
様々な思考を巡らせる。
だが、思い出そうとすればするほど中学校の名前はおろか、その周りに位置するであろう、その頃の記憶も朧げになってゆく。
まるで記憶が霧に隠されていくかのように。
まあ、こういう時は思い出そうとすればするほど坩堝に嵌るものだ。
そして、そういう時に求めていたものは往々にしてまったく関係の無いときに、空から降ってきたかの如く頭の中にその姿を現す。
だから今は無理に考える必要は無い。今考えるべきなのはここからの帰り方だ。
そんなことを考えて俺は服を脱ぎ、設置されていた扉を開けた。
すると俺の目に飛び込んできたのは、こちらもまた一般の家庭ではあり得ないような大きな湯舟だった。
というか、そこらの銭湯でもなかなかお目にかかれないほどの広さはある。
天井は高く、どこかから垂れた水滴の音が広い浴室全体にこだまする。
まるでローマの浴場を思わせるアーチが至る所に施されたその浴室は、まるで異国にいるかのような錯覚を俺に引き起こさせた。
そんな訳で俺は、高校二年生になっているのにも関わらず、年甲斐もなく、風呂場ではしゃぎ、ついには湯舟で泳ぎだしてしまった。
こんなところを誰かに見られでもしたら……、と想像する。
だが、実際はそんなことは起こり得ない。
なぜなら、今この館にいるのは俺と二人のメイドだけだし、仮に入ってくるとしても帰宅したこの館の主人だけだろう。
でも、あの二葉さんでもさすがに俺がいることは忘れないだろうし、紅ちゃんと呼ばれたメイドも向こうにはいる。
だから結局、誰かが入ってくるということはなかなか起こり得ないと考えられるわけだ。
ひとしきり禁断の遊びを楽しんだ後、俺は体を洗い、浴室を出た。
シャンプーや石鹸は全ていい香りがして、若干のくせ毛だった髪の毛も心なしか風呂を上がった後には直っていた気がした。
用意されていた着替えもサイズがぴったりで、着心地がいい。
俺の脱いだものは籠から消え、ポケットに入っていた物だけがその中に残されていた。
恐らくあの二人のどちらかが制服を持って行ったのだろう。
きっと明日にはきれいになって返ってくる。
脱衣所を出る。
言われたとおりに脱衣所を出る前、入り口横の受話器を取って内線電話をかけた。
電話の向こうからは二葉さんの声ともう一人別の、それも男性の声が聞こえたため、主人が帰って来たのかと聞いたが、彼女は落ち着き払った口調でただ「違います」とだけ答えると、「お迎えに上がります」と続けたため俺は慌ててそれを断って受話器を戻した。
部屋に戻ると、俺の眠気はいっときだけでも睡眠を取ったからか、一旦の終息を見せていた。
といっても、特に出来ることは無い。
スマホで何かしようにも、画面表示以外何もできないのなら、そこにある価値は子供の光るおもちゃ以下だろう。
かといって、リュックの中に何か物があるのかと聞かれても、この暇を潰せそうなものは無い。
今日は週末ではないから教科書の半分以上は学校に置いてきてしまったし、本も入っていない。
なぜ今日という日に限っていつも持ち歩く本を置いてきてしまったのだろうと、そんな後悔を抱きながら俺は仕方なくベッドに入った。
だが、まるでベッドには魔法がかけられているかのようで、俺の瞼はすぐに重くなってきた。
何度か目をこすり、その眠気に抗う。
しかし、その抵抗も虚しく、俺の意識はどんどんと深い暗闇の中に落ちていった。
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