ム中館 1

「ここは……」

 辺りを見渡す。

 頭上には天を覆いつくすかのような樹木の屋根。足元の草はカサカサと風に揺れ、逢魔が時の山にその音を響かせている。

 正直、さっきの得体の知れない一本道に比べたらこっちの方がまだ安心感を得られるというものだ。

 他の人が見れば大差ない。場合によっては山の中の方が恐怖を感じる人もいるだろうが、謎の半透明人間が現れるどこか分からない一本道とか恐怖でしかないだろう。

 それにこの山、この景色に俺は見覚えがある。

 今度こそ本当に、道の先に館があるのだ。

 俺は記憶を辿り、夢の山道と目の前の山道を比較して確信に至った。

 道といっても獣道といった方が適切もしれない。

 それほどに荒れた山道だ。

 だがその道は確かに斜面を真っすぐと伸び、霧に覆われた山頂に向かっている。

 一歩踏み出す。

 足元に堆積した枯葉は、踏み出した足に押し付けられ、パリパリと音を立てて崩れていく。

 倒れ込むように山道に生えていた草を掻き分け、俺はさらに斜面を上った。

 そういえば、壊された時計はどうなっているのだろうか、そう思い目を向け確認する。

 腕時計の文字盤は歪み、針は四時半を指したところで止まっている。

 文字盤に被せられていたガラスのフタはひび割れ、今にも崩れてしまいそうだ。

 ため息が出る。結構お気に入りだったのに。帰れるなんて保証はないけど、あの店主に会えたらもう一度しっかり謝ってもらおう。

 でも……、謝ってもらったところでこの時計が壊れる前のあの時計と同じ時計に戻るわけではない。

 もし何かの奇跡で今までのことがなかったことになれば、それはあり得るのかもしれないが実際そんなことがあり得るはずがない。

 とりあえず、今はこの山道を登って館に行くしかない。

 一本道からこの山に出たとき確認したが、スマホは相変わらず機能喪失状態だったし、引き返そうにも道が分からない以前に後ろには獣道と呼べそうなものすら無く、草木が鬱蒼と茂る林があるだけだった。

 つまり、ここは実質的には一本道と同じ、退路の断たれた、外部からは隔絶されたどこかであるということしか俺には分からない。

 ということは、だ。

 俺は山の上にある館に行って助けてもらうしかないわけだ。

 たとえそこにいるのが人間でない別の何かだったとしても。それが俺の命を脅かす何かでない限り。

 止まっていた太陽は俺が山を登るにつれてだんだんと動き出し、永遠に思えた夕暮れのオレンジは次第にその暖かさを失って、森の中にも暗闇が増え始めた。

 風に揺れる枯葉の音だけだった山の声は、夜の到来を告げるかのように虫の鳴き声に変わり、太陽もついにはその日輪の半分以上を山の陰に隠し、森は僅かな太陽の残り火が照らすだけとなった。

 夢の通りに行くのであれば、そろそろ小川に出るはずだ。

 たしか、この道をもう少し行ったときに少しだけ下る道があり、その先に小川が流れている。

 茂る草を分け傾斜を登ると、予想通り夢で見たのと同じ緩やかな下り坂があった。

 そして道の先には小川が流れ、朽ちた小さな木製の橋が架かっている。

 この先は知っている。

 俺は道を進むと、迷い無く橋に足をかけてその川を渡った。

 橋は軋みを上げ、苔や木のくずをぱらぱらと暗い水面に降らせる。

 橋を渡り終え、再び森の中に入った俺はさらに続く山道を夢中になって登った。

 足は歩きっぱなしなせいで若干震えていたし、体力も気力も限界が近いのに、俺はまるでそんな限界は存在していないかのように今まで以上のペースで足を動かし続けた。

 太陽は完全に沈み、空には白い満月が煌々と輝き始めた。

 月の光は気温の低下でより濃くなった霧に反射し、森の中を白く照らし出している。

 そのおかげで視界不良ではあったものの、暗闇による恐怖に押し潰されることもなく俺は目的地であった霧中の館へと辿り着くことが出来た。

 館の外観、それは夢で見たものと一切を異にしていなかった。

 明かりの無い窓。表札の無い豪華な入口。白いレンガ調の壁。バルコニー付きの二階。

 そのどれもが夢の中の洋館と同じである。

 館の前に立ち、深呼吸をする。

 森の中だからか、いつも吸っていた空気とはその新鮮さというか純度というか、そういったものが異なっているように感じられる。

 俺は覚悟を決め、館のドアの前に立ってノッカーを鳴らすために一段上にある玄関ポーチに上った。一歩進めば、もう手が届く距離にそれはある。

 一歩前に出る。


 ドアノッカーに手をかけると、手のひらにひんやりとした金属の質感が伝わってくる。

 俺はそれを持ち上げると、三回ドアに打ち付けた。低く鈍い音が夜の森に響く。

 すると、夢の中さながら、そこにあった荘厳な木製扉は大きく内側へと開き、長らく見ていなかった人工の光が中から差してきた。

 突然の光に俺は思わず目を細め、その中を窺った。

「おかえりなさいませ。我らが御主人様」

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