彼女の血は青い

おんせんたまご

彼女の血は青い

 それはある日の放課後のことだった。教室に宿題を入れたファイルを忘れてきたことに気づいた僕は、チャリを飛ばして学校に戻った。5時を過ぎると、学校からは教師と部活生以外の気配が消える。僕は人気の少ない廊下を歩いて教室にたどり着いた。


 カギは閉まっているだろうな、と思いながら引き戸に手をかけてみると、扉はガラガラと音を立てて開いた。どうやらまだ開いていたようだ。僕が自分の机に行こうとすると、「彼女」の姿が目に留まった。


 クラスの中でもおとなしくて目立たない少女、市川は自分の席に座って右手を見つめていた。僕はその光景に目を奪われた。―――こんな時間になぜ一人で教室に残っているのか、そんな疑問が吹き飛ぶほどに衝撃的なものだ。


 市川の手には傷がついていた。そしてその傷口からは鮮血が垂れていた。それを見た僕は目を疑った。今まで見たことのないような、真っ青な血だ。空の色とも、海の色とも違う、見たことのない「血の青」。


「青……」僕の口から、そんな一言が漏れた。その声に反応して、市川ははっと

僕の顔を見た。二つの視線が絡み合う。


「絆創膏、持ってない?」彼女はこちらに目を向けたままそう言った。青い血の通った冷たい目を向けて。


「あ、えと、持ってる」彼女の声でふと我に返った僕はポーチから絆創膏を取り出して彼女に渡した。彼女は絆創膏にプリントされている猫のキャラクターには目もくれずに淡々と絆創膏を傷口に巻いた。僕はなんだかそれが少し残念に思えた。


「ありがとう、助かった」そう言うと市川は、いつも付けているマスクの位置を直して立ち上がった。今まで気づかなかったが、彼女の背は僕より高い。僕を見下ろす彼女の目は切れ長で、美しく、吸い込まれそうだった。


「今日のこと、絶対に、誰にも言わないでね」


「……わかった」


 僕は去っていく市川の背中を放心状態で見ていた。一人になった僕はゴシゴシと両目をこすった。今日のことは何かの見間違いだ。だから忘れよう。そう思ってもあの青い血が脳に焼き付いて消えない。帰り道でも、家で宿題をしようと思っても、どうしても市川のことばかり考えてしまう。あんなものを見てしまったのだから当然だ。


 そもそも、人間の血が青いなんてことがあるのか。僕は青い血について調べた。どうやらイカの血液は青いらしい。ヘモグロビンの代わりにヘモシアニンという物質がイカの血液にはあるんだとか。しかし、人間の血が青い、という事例は出てこない。中世の貴族は血が青い、という話は出てきたが、それは肉体労働をしない貴族の白い肌に青い血管が浮き出ている様をあらわした比喩であって、本当に血液が青いわけではない。どんな人間だろうが、普通は同じ赤い血が流れている。


 でも僕は、本当に特別な存在と出会ってしまった。あの光景が幻でなければ、市川という少女には青い血が流れている。彼女は、一体何者なんだろうか。今日までは、教室のすみっこで一人で本を読んでる目立たない女の子といった印象しかなかった。僕は市川のことを何も知らない。市川のことをもっと知りたい、僕はそう思うようになった。



 次の日、僕が学校に行くと、市川は何事もなかったかのように一人本を読んでいた。クラスのムードメーカーたちが大声で騒ぐ度、市川は迷惑そうに眉間にしわを寄せる。


 話しかけに行こうか、と一瞬考えたが、話しかけに行って迷惑がられても嫌だし、やめておくことにした。チャイムが鳴ると、市川は本を閉じてカバンに戻し、教材を取り出した。僕も慌ててノートを広げた。


 昼食のとき、市川が教室からいなくなっていることに気づいた。昨日までは彼女が姿を消していることにすら気が付かなかったのに、今ならその理由までも何となくわかる気がする。


 市川は見られたくないのかもしれない。いつもマスクをしてるのも、夏でも長袖の制服を着てるのも、昼食時にいなくなるのも、ひょっとすると教室で目立たないようにしているのも。青い血が流れている自分を隠したいから。


 そのことに気づいた僕は、何となく優越感を感じていた。市川の秘密を、僕だけが知っている。市川が特別な存在であることを。


 放課後、クラスメイトが続々と教室を出ていく中、市川は教室に残って一人で本を読んでいて、一向に帰ろうとしない。帰宅部の僕はチャイムと同時に教室を出て家に帰るので知らなかったが、いつも放課後はこうしているのだろうか。教室で二人きりになると気まずいので、僕は教室から出て隣の自習室で時間をつぶすことにした。


 しばらくして、市川が教室から出てくるのが見えた。手にはバラの花瓶を持っていた。彼女には似合わない深紅のバラだ。教室に花が置かれていることは知っていたが、市川が世話をしているのは知らなかった。また一つ、市川のことが知れて僕は嬉しくなった。



 それからというもの、僕は気が付けば市川を目で追っている。彼女を見られると思うと、毎日の学校が楽しみで仕方なかった。そうしているうちにだんだん、市川以外への興味が薄れてきた。友達とあまり話さなくなった。あんなにやりこんでいたアクションゲームも、彼女の存在に比べたら暇つぶし未満のものになりつつあった。ある日彼女が学校を休んだ日があった。その日は僕も早退した。市川のいない学校に行く必要性を感じられなかった。


 ストーカーじみている、と言われるとそうかもしれない。でも、僕は決して彼女に恋愛感情を抱いているわけではない。これだけは断言できる。僕は彼女と付き合ったり、キスしたり、それ以上のことをしたりしたいなどと思ったことはない。僕はただ、市川という人間について知りたいだけだ。市川という存在を、その身に流れる血の最後の一滴までこの目で見てみたい。僕はそんな好奇心に駆られているのだ。


 彼女は毎日、授業を受けて、休み時間に本を読んで、放課後花瓶の水を替えてから帰宅する。クラスメイトとは、事務的な会話以外はほとんどしない。体育の時間ですら、ずっとマスクを着けている。放課後、花の世話を自らやったり、教室の汚れているところを見つけたら自分で掃除するなど、気の利く一面がある。右利き。下の名前はあおい。歩き方は若干内股気味。うるさいのが嫌い。字が丸っこい。国語が得意で数学は苦手。理科の授業での教師の発言に、声を押し殺して笑っているときがある。市川について知るたびに、僕は高揚感に包まれた。そしてもっと知りたい、という感情とともに彼女への執着が一層強くなった。



 市川の秘密を知ってから約一ヶ月が経った。僕の頭はすっかり彼女のことで埋め尽くされていた。市川のいない世界が、想像できないほどに。


 ある日僕は、自室で右手の人差し指にカッターナイフで傷を付けた。ちょうど市川がケガをしたのと同じところだ。刃の先が抵抗なくスーッと肌を通り、痛みとともに赤い鮮血が滲んできた。ありふれた、陳腐な赤だった。血を好むサイコパスや吸血鬼は、のどこに惹かれたんだろう。こんなくだらない、誰にでも流れている赤い血なんかより、もっと珍しく、美しく、素晴らしい血が流れている人間がいるのに。


 そんなことを考えているうちに、もう一度、あの血を見ることを思い立った。あれから一ヶ月、僕は市川の血を一滴も見ていない。もう一度、今度はしっかり僕の目でとらえたい。そしてあわよくば、何らかの形で記録に残したい。僕はカバンにカッターナイフと大きめの絆創膏を詰めた。



 次の日の放課後。僕は教室に市川が一人になるのを隣の自習室で待った。彼女は一人になってから、花瓶の水を替えに行く。その間に僕は教室に戻った。教室に戻ってきた彼女は、僕の姿を見て驚いたが、そのまま花瓶を元に戻しに行った。僕はそのすきに教室の扉にカギをかけた。


 しばらく沈黙が流れる。僕は緊張と興奮で震える体を落ち着けて、ゆっくり彼女のもとに近づいた。彼女は僕を見て、驚いたような、不思議がっているような表情を浮かべている。彼女が口を開きかけたその瞬間、僕は彼女の口をふさいで押し倒した。


 彼女は声にならない声をあげて抵抗する。彼女の唇の感触が僕の手のひらに伝わってくる。僕のほうが背は低いとはいえ、男である僕のほうが力は強い。抵抗する彼女の四肢を押さえつけて、僕はポケットからカッターナイフを取り出した。


 僕は市川の制服の袖をまくった。青白い右腕が露になる。僕はその肌の美しさに思わず見とれてしまい、手を止めた。緊張と興奮で、心臓の鼓動が早くなる。僕の赤い血は流速を速めている。そしてそれはきっと彼女も同じだ。僕は「ごめん」とつぶやいて、カッターナイフの刃先を青白い肌にうずめ、そのまま真横に滑らせた。


 カッターナイフではメスのような切れ味とはいかず、少し力を込めて肌を裂かなければならなかった。彼女は叫んで暴れようとしたので、より強く押さえつけた。刃の通る感触とともに、あの青い血が滲み出てくる。僕の興奮は最高潮に達した。僕は顔を近づけて、食い入るようにそれを見た。彼女の血は、涙のように腕を流れ落ちた。その青は海よりも深く、空よりも澄んでいて、どんな染料よりも美しかった。窓から差し込む夕日とのコントラストで、青はさらに際立った。僕の人生で、これ以上に美しいものを見ることはないだろう。僕はそう確信していた。



 しばらく彼女の血を見つめていると、ふと外から聞こえる声に気づいた。名残惜しいが、そろそろ終わりにしなければ。僕は傷口の血をティッシュでふき取り、消毒液を吹きかけて絆創膏を貼った。僕が力を緩めると、市川は勢いよく起き上がった。目には涙が滲んでいた。彼女は腕を押さえて立ち上がった。僕を見る彼女の目には明らかな「恐怖」があった。


 僕は急に、罪悪感に襲われた。市川に、痛みを感じさせてしまった。でも後悔はしなかった。むしろ今ここで死んでもいいと思えるほどの満足感を覚えていた。


 彼女は外へ行こうとして、扉の前で立ち止まった。彼女は誰かに今日のことを伝えることはできない。伝えてしまったら、彼女の秘密も知られてしまうことになるから。普段から必死で隠してきた秘密を、わざわざ自分からばらすようなことをするような人間じゃないのは、ずっと見てたから知っている。でも僕だって捕まるのは嫌だし、一応口止めすることにした。


「あのさ」


 僕が話しかけると、彼女は肩を震わせながらこちらを向いた。


「今日のこと、誰にも言わないでね」


 彼女は小さくうなずき、カバンを持って教室を出た。夕日に照らされた教室は、真っ赤に染め上げられていた。





 あの後すぐ、市川は転校した。結局あの日のことは、僕と市川以外の誰にも知られていないようだった。市川がいなくなってから、僕は毎日がひどくつまらなくなった。彼女が転校したのは僕のせいだから、そういう意味では後悔した。


 結局市川は何者だったのだろう。宇宙人か、UMAか、あるいは改造人間か。いろんな想像はできるが正解は分からない。いつかまた会えたら、その時に彼女についてもっと聞こう。そう心に決めて、僕はまじめに学校へ通った。


 そうしているうちに、僕の市川への興味はだんだん薄れていった。僕はまじめに勉強に取り組む優等生になっていた。僕は医学部を受験して外科医を目指すことに決めた。もちろん、人の役に立ちたいという気持ちもあった。けれども僕は心の底で期待してしまっていたのかもしれない。もう一度あの「青い血」を見ることを。

 

 

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