第5話
よく知っている香りが漂っている。
目を開けたら、一番先に入ったのは見慣れない天井だった。
ふかふかなベッドから身を起こして、次に感じるのが解放感だった。体を見れば服装はドレスからナイトウェアに替わったと気付いた。
「あら奥様、おはようございます。よく休まれましたか?」
小さく狼狽えながら声が聞こえる先に視線を送れば、そこにはテーブルの前に立っているハンナがいる。今日初めて会った人に寝起き姿を見られて、すこし恥ずかしい。
「ええ、おかげさまで」
「よかったです」
ハンナは優しく笑顔を浮かべた後、再びテーブルの方に顔を向けた。
彼女の視線を辿れば、そこには見慣れているが、今あるのが少し不思議なものがあった。
「それは、リュゼラナ?」
「はい!」
思わず首を傾げた。今は五月であり、リュゼラナの季節がもうとっくに過ぎている。そもそも、昔ならまだしも今のゼベラン国の土地ではリュゼラナのような繊細な花はそう簡単に育てられないはずだ。
ハンナは花瓶を一撫でして微笑んだ。
「ルカ坊ちゃまが、奥様の寂しさを紛らわすために用意してこいって頼まれました」
「閣下が?」
「ええ、そうですよ。隣国とはいえ、家族からお離れになり、身一つで知らない地に来られましたので……だから、せめて好きなお花を飾らせて、だそうです」
「そっか、閣下が」
「まあ、口にしてくれませんが」と、ハンナは苦笑いしながら説明した。
素直に驚いた。ここに来てもまたリュゼラナを目にするとは全く思わなかったのもあった。だけど、それよりも、感情一つも見せてくれない彼の気遣いがとても衝撃的だった。
同時に、体の、胸辺りが少し温かくなった。
ベッドから降りて、リュゼラナが飾ってあるテーブルに近づいた。瑞々しく咲き誇るリュゼラナを左手で一撫でをすれば、自然と唇が緩んだ。
「私は、ほっとしました」
「ハンナ?」
「あの坊ちゃまが、ようやく結婚なされたことに、すごくほっとしました」
ハンナの声色と横顔はどこかで、寂しさを帯びているように見える。
「坊ちゃまって、本当に国と仕事のことばかりで、あまり自分のことを大事にしてくださいません。先代もそうなんですが、最愛と出会い、結婚して、子供を授かってからようやく落ち着きまして」
ハンナの言葉に体が一気に冷えた。悟られないように、リュゼラナを撫で続ける。
「小さい頃から見守った坊ちゃまも、少しでも自分を大切にして欲しい気持ちがありますが、彼が結婚に前向きではないので、心配しておりました」
「ハンナ、私は、その」
私は決して彼の「最愛」ではないんだ。表向きではそう思われるかもしれないが、これは政略結婚だ。
罪悪感と共にその言葉を呑み込んだ私を見て、ハンナは申し訳なさそうに言った。
「出過ぎたことを言ってしまい、申し訳ございません。年寄りの戯言だと思ってください」
ハンナは「では、奥様。後程ソフィが準備のために参りますので、どうぞゆっくりとお過ごしください」と言って、一礼をしてから部屋から出た。
「子供」。
小さくため息を吐いた。
嫁いだら、貴族の女性は様々な責務を担うようになる。
屋敷や使用人の管理はもちろん、社交場に出て、夫の手助けになる人脈作りなど、やることが沢山ある。
だけど、その中で一番重要なのが「世継ぎを産む」ことだ。
分かっている。確かに、この結婚は同盟のためであったが、歴とした貴族の結婚でもある。
そして、私の相手は彼の誇り高きロートネジュ公爵家の人間だ。
ここに向かう長旅の途中、護衛騎士を務めてくれるゼベラン国の子爵家の次女であるカレンが色々教えてくれた。
現地の人にしか分からない情報や常識、そしてゼベラン国民のロートネジュ家への熱意も。
「あの妖精姫が我々の英雄の隣に立つ! それだけで活気づきます!」と言われた時に笑顔でしか返事できなかったくらいに。
分家があるとはいえ、竜の血を濃く受け継いでいるのは現ロートネジュ公爵だけだ。彼の結婚はどれくらい待望されているのか、世継ぎがどれ程熱望されているのかは彼女の表情と語り口から充分に伝わった。
この結婚の重要性を嫌になるほど実感してしまう。
ここまでの旅は馬車で二週間も掛かった。護衛騎士の話を聞きながら、いや、それ以前からでも心の準備をしていた。
そのはずなのに、現実に直面すると心が揺らいでしまう。昼のことを思い出したら自分が情けなく感じてしまい、思わず苦笑が溢れだした。
窓の外を見ると、今は太陽が傾き始めた頃だと分かった。夜まで、時間がまだたっぷりある。
テーブルの傍にある椅子を引っ張り、その上に腰を掛けた。
右手を胸に当てれば、心臓の鼓動が伝わった。深呼吸をして、固く握った左手から力を抜く。
今でも、私はまだ躊躇っている。
聞いた噂との違いに対する安心感もあるが、疑う気持ちも確かにあった。
(でも、まさかあの会話を覚えてくれるとはね)
目の前に咲いている青い花を見つめたら、一つ小さな気持ちが芽生えた。
(もしかすると、彼となら、できるかもしれない)
そうやって、私は再び願望を抱いた。
* * *
リュゼラナに落ちる影が茜色から黒になった頃、ドアがノックされた。入室を許可したら、満面の笑みのソフィが現れた。
「こんばんは、奥様。さあ、準備をしましょう」
その一言で、彼女の仕事が始まった。
入浴からナイトウェア選び。テキパキと動く彼女に全部素直に任せ、あっという間に手入れまで終わった。
それが夜の始まりの合図だ。
ソフィに案内されて、私の部屋と主寝室を繋ぐドアの前に立っている。
口の中に溜まった唾を飲み込み、私は腹をくくりながらドアを開けようとした。
「奥様、信じてくださいとか、そんな無責任なことはいえないのですが」
「ソフィ?」
呼び止めたソフィは、一輪のリュゼラナを私に渡した。
あまりにも唐突で、唖然としながらそれを受け取った。
「ルカ坊ちゃまって他国では色んな噂が出回っていますし、本当に言葉が足りない上に、口を開けば失礼なことばっかりをいう方で男としてダメダメなんですが」
ソフィはリュゼラナを持つ私の手のひらを両手で包んだ。
「人としては、いい人なんですから」
ぎゅっと、彼女の手に力が入った。私を安心させるよう、自分の言葉を保証するように。
「奥様が、幸せでありますように」
祈りとも呼べる言葉だった。
まだ、会って間もなくなのに、その言葉から確かな温かさを感じる。
目の奥から溢れだしそうになったものを堪えて、なんとか笑顔を作って、頷いた。
「ありがとう、ソフィ。とても心強いわ」
「はい! 何かあったら私に教えてください。奥様のために、私が旦那様を懲らしめて差し上げましょう」
元気よく拳を作りながら右手をあげるソフィを見て、もう一度頷いた。
そして、覚悟を決めて、ドアを押した。
暖炉に火がついている。春と言っても、フルメニアよりも北にあるゼベランの夜は未だに冷えているからだろう。
部屋の中を見渡せば、どうやら彼はまだここにいなかった。
ため息を吐き、とりあえず窓際に置いてある椅子に座る。
彼がまだいないと分かった瞬間、安堵はした。だけど、同時にこの拷問がまだ続くのかと落胆するところもあった。
目を閉じて、深呼吸を繰り返す。
どんなに待ってても、彼は未だに来ていない。
もう一度大きなため息を吐いて、左手に収まっている青い花に視線を向けた。
(幸せ、か)
私の幸せって、なんだろうか。
二ヶ月前なら「ファルク様を支えられる立派な妃になること」と即答するだろうね。
だから、苦手な妃教育を受けても頑張れるし、辛くても我慢できた。だって、これは将来に繋がるからと分かっているから。彼の「ありがとう」は溢れるくらい私の心を満たす。
そうやって、彼の感情が私に向けられた瞬間は私の喜びだった。
愛してくれる家族と優しい婚約者に囲まれた日々がとても眩しい。
だから、あの日まで、私はちゃんと幸せなはずだった。大変なことも確かにあるけれど、幸せだった。
じゃあ、今の私にとって、幸せってなんだろう。
(私は――)
ガチャ。
その音は私の思考を中断した。
それに刺激されて、抑えた鼓動が再び鳴り出した。
そこから現れたのは、この部屋の主であるロートネジュ公爵だ。
彼はそのまま歩き、向こう側にある椅子に座った。
「待たせてすまない」
「いいえ、大丈夫です」
「そうか」
窓から月明かりが彼を照らし、彼は確かにこの次元で存在していることが浮き彫りになった。異様にこれから起きることが強調された気分になった。
無言を貫く彼に、私の緊張は高まるばかりだ。
それでも私は俯きたい気持ちに逆らって、背筋を伸ばして、姿勢を正す。
私は無知ではない。だが、これからどうすればいいのかがわからない。だから、目の前にいる彼に託すことにした。
「シエラ嬢」
「は、はい!」
少し気まずくなった頃合いに、彼はようやく口を開いた。
(ここから先が、怖い。でも……)
ようやく、この想いを完全に埋葬できる。
あの方が終止符を打ってくれない。だから、私自身がそれを打てばいい。
あの方への想い、あの方との想い出を全部全部、心の奥に固く仕舞い込む。
そうすると、この胸を苦しめる想いから解放される。
そう、目を閉じながら思ったのに。
だけど、彼の口から出た言葉は想定外なものだった。
「君に伝えたいことがある」
彼は温度を感じさせない声で告げた。
「俺は君を抱くつもりはない」
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