第6話
「えっ?」
彼の言葉で心臓が止まった。
虚を衝かれた。
これは、今の私に一番ぴったりな表現だろう。
「閣下、それはどういう」
「意味ですか」とまで言えないほど、私は驚いている。あまりにも唐突で、わけがわからなすぎる。
「そのままの意味だ」
私の目の前にいる人は、一体何を言ってるのだろうか?
真っすぐな瞳で断言された。その瞳を見ても、何一つ理解できなかった。
何で、どうして? 彼は貴族で公爵家の人間で、世継ぎは必要なはずなのでは?
視線に疑問を込めながら彼を見つめる。口の中だけではなく、喉の奥まで乾いている。痛い。
それでも、疑問を投げかける。いや、投げかけないといけないのだ。
「ですが、ロートネジュ家の跡継ぎは、まだ」
私の声はカラカラで、震えてもいる。
朦朧としだした意識を保ちながら、彼の意図を探る。
そんな彼はあらかじめ用意された文を読み上げるみたいに淀みなく答えた。
「跡継ぎは大丈夫だ、分家の従弟から了承を得て、彼の息子が継ぐことになった」
どういうことだ? こんなことは初耳だ。こんなの知らないわ。
急な展開に思考が追いついていない。
「それでもゼベランは……俺は国の同盟を覆すつもりもない。君を蔑ろにするつもりもない」
「でも、どうして」
ぶつぶつ、ぶつぶつ。体の内から熱い何かが沸き上がってきている。気のせいなのか、吐いた息まで熱くなって、とても気持ち悪かった。それを抱えながら、私はその短い質問を投げかけた。
その質問に、彼は私から顔を背けた。
「俺と君には子供がいらないから、それだけだ」
頭の中が真っ赤になった。熱い衝動が一気に溢れだした。
バタンと音と共に左手を勢いよく上げた。
それを思う存分下に振ろうとしたが、彼と目が合った。わずかに開けられたそれを見て、私は軽く息を呑んだ。
さっき、私は一体何をしようとしているんだ。まるで自分が自分ではない衝動に恐怖を覚えた。
でもそれと同じくらい目の前にいる人の顔をぐちゃぐちゃにしたい。ぐちゃぐちゃにしないと済まない強烈な感覚が胸の中に潜んでいる。
その感覚に危機感を抱いた。
身を委ねたら、何かが壊れてしまう。
今まで大事にした何かが全部泡になってしまう。
深呼吸を何回も何回も繰り返す。混じりに混じった思考を停止する。
今は考えてはいけない、理解してはいけない。
じゃないと、私が壊れてしまう。
積み上げたものが全部、崩れてしまう。
肩で息をしていたら、額から汗が流れる。熱くなった目の奥を誤魔化すために何回も瞬きを繰り返した。ゆっくりと、爪が食い込むほど強く握った左手を自分の膝の隣にまで降ろした。
早く、早く。
早くここから出ないといけない。
早く、彼を視界から追い出さないと。
「わかりました、それが閣下のご意向であれば」
そのために、笑え。
「いらないことをしてしまい、本当に申し訳ございませんでした」
笑え。
「では、部屋に戻りますね」
笑え!
「おやすみなさいませ」
私はあの部屋から逃げ出した。振り返らずに逃げた。
彼の顔は、見ていられなかった。見る勇気なんてどこにもなかった。
* * *
静かな部屋の中に扉を閉める音が響く。
震えている足から力が抜けて、扉に背中を預け、体が床に崩れ落ちる。
上下する肩とドクドクとしている鼓動が私の体を支配している。
呼吸を何回か繰り返したら、彼の言葉が頭によぎった。
『君を抱くつもりはない』
彼の声が頭から離れてくれない。
わけがわからない。本当にわけがわからない。彼の意図も、先ほど私を支配する衝動も。
喜べばいいのに。だって、好きでもない相手に体を差し出さなくてもいいから。
安心すればいいのに。それでも彼は同盟を守ってくれると誓ったから。
気にしなくてもいいのに。別に彼は私を冷遇するつもりはないから。
別にいいじゃない、「私」には損がないんだから。でも、なんでこんなに胸の中がズキズキと痛いんだ。
矛盾している。私の中にある何かが矛盾している。そして、その矛盾は私を苦しめている。
「私」にとっては喜ばしいことなのだ。喜ばしいはずなのだ。
でも。
貴族として生まれた女性の一番重要な義務は、世継ぎを産むこと。
世継ぎを産まない貴族の妻になんて、どんな価値があるのか? 世間からどう捉えられるのかを想像したら、背中に寒気が走る。その言葉がよぎった瞬間、体が震え出した。
石女。
そんな女性が社会ではどう見られるのかは知っている。
父や母はそれを聞いてどう思うのだろうか。想像するだけで震えがさらに強まった。
それだけではなく、「ロートネジュ家」の、「ゼベランの英雄」の世継ぎが期待されている。
では、それを産めない私は? 産むことすら許されていない私は?
私の価値は?
この二ヵ月近く、絞りに絞ってかき集めた覚悟が虚しく感じる。向き合うための努力も、葛藤する時間も全部、無意味だった。
勝手に「いらない」と言われて、そのまま使わずに捨てられた覚悟をどう扱えばいいんだ。
馬鹿にされた気分だ。
滑稽すぎる。手のひらの上で踊らされてるような気分になった。プライドも努力も何もかもが全部引き千切られた。
目の奥から熱が溢れだした。さっきから耐えた涙がぽろぽろと青い花びらの上に落ちた。
膝の上にあるあれを眺めれば、あの日の会話が頭の中によぎった。
『閣下は、リュゼラナがお好きですか?』
『ああ、好きだ。君は?』
『私は』
リュゼラナなんて、昔から大嫌い。
この甘すぎる香りも嫌い。
フルメニア国を象徴するところも嫌い。
妖精の青を象徴する色も嫌い。
苦しめているだけのものを好きになれるわけがない。
でも、好きでいないといけない。
だって、私はフルメニア国の貴族であり、アルブル家の娘なんだから。
国花が、妖精の花が嫌いなんて死んでも言えるはずがない。
皆、それを求めていないから。
頬に落ちた涙と同じ数、無言の「嫌い」という言葉を繰り返した。今まで心の奥に秘めた本心を何度も何度も繰り返した。
自然と左手に力が入った。何かが潰れた感覚が伝わった。拳になったその手を開けば、正気に戻った。
『奥様が、幸せでありますように』
そこには無様に握りつぶされたリュゼラナがあった。
先ほどまであんなに美しく咲いていたのに、今はもう面影すら残らなかった。
視線を上げたら、机の上に置いてある花瓶は空っぽだった。
『ルカ坊ちゃまが、奥様の寂しさを紛らわすために用意してこいって頼まれました』
なんということだ。
それを見て、絶望がさらに深まるばかりだ。
貰った良心を、自分の手で壊してしまった。
だけど、私に止めを刺したのが他でもないその良心の欠片をくれた相手だった。
愛されなくてもいい。それでも子を産んで、貴族として役目を果たして、妻として彼を支える。
今はまだ少し怖いけど、これからそうやって少しずつ夫婦としていい関係が築けたらいいなと思った。もしかすると、変哲もない会話を覚えてくれた彼とだったらできるかもと呑気に思った。
彼の一握りの優しさはそうやって私を惑わす。
勝手に期待して、勝手に裏切られて、勝手に怒りを抱いた。
踊らされているのではなく、一人で勝手に踊っているだけではないか。
そんな私は、明日からどんな顔で彼と向き合えばいいんだ。
涙が止まらなかった。止められなかった。止まるどころか、激しくなる一方だった。
両手でその残骸を自分の体ごと抱きしめ、嗚咽を噛み殺した。
複雑に絡み合った感情が一つになって私の喉を絞める。そして、それが引き金となった。
奥深く埋めたかったのに、また「あれ」を掘り起こしてしまった。
溢れる、溢れてしまう。
こういう時、隣に彼がいつもいたのに。私の頭を優しく撫でて、宥めてくれたのに。
「ファルク様」
助けて。
辛いの、苦しいの。
でも、泣いても泣いても、胸が軽くならなかった。
隣に彼がいない。彼の隣にはもういられない。
その現実を知らしめられるだけだった。
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