第3話
あの日から太陽が二十四回も繰り返し昇っては沈んだ。
そして、今日はあれが空に昇った二十五回目の日だった。
今日は私の十六歳の誕生日だ。
なのに、寝起きはいつにも増して最悪だった。なんとかベッドから降りて、メアリと身支度をした。
重い足を運んで部屋から出たら、母の笑顔と父の形容しがたい顔が私を迎えた。
「お父様、お母様、おはようございます。私は最後でしょうか? 待たせてしまって、すみません」
「シエラ」
父が顔をしかめ、言葉を詰まらせた。
普段の凛々しく、模範貴族のような佇まいをしている人とは思えないくらい父の視線が彷徨っている。
「シエラ、十六歳の誕生日おめでとう! そして、今日も相変わらず可愛くて美しいわ!」
母がいつも通りの明るい声をあげた。
先ほどのどんよりとしている雰囲気が薄まり、自然と微笑みがこぼれた。
あの日以来、この家にいることが億劫になった。
いつにも増して眉間に皺を作っている父や、静かに怒りを滲みだしている姉。会うたびに暗い顔をしている弟や必要以上に気をかけている使用人たち。
皆の気持ちは、とてもありがたいと思っている。大切にされている、想われていると肌に感じることができた。
だけど、何故か。何故か、そうされる度に喉が鷲掴みされたみたいに息がしづらくなった。
その中で、いつも通り接してくれた母は唯一の救いだった。
「ありがとうございます。お母様もとても綺麗です」
「ふふふ、ありがとう。さすが私の娘よ!」
母は私の手を取り、階段の方に歩き出した。
彼女の足取りに従い僅かに歩けば、後ろから「シエラ」と父の固い声が耳に届いた。
「お前は無理して参加しなくてもいい」
「あなた!」
思ってもみなかった言葉だった。
まさか、あの堅物な父がこんな大事な催しに不参加を許してくれる日が来るとは。
「そんなことは、できるわけがないでしょう!」
「いや、ロディネだって参加していない。だから、シエラもっ」
「お父様」
普段なら絶対やってはいけないが、父の言葉を私の言葉で被せた。
それに対して「貴族の娘らしくないわ!」と叱る、マナーに厳しい母も口を閉ざしている。
姉が参加しないと分かった時の安堵感。
一瞬だけだとしても、あの罪悪感が今でもくっきりと心に刻まれているから。
だけど、その後湧き出たのが。
「ありがとうございます」
参加しない? できるわけがない。
できるはずがない。だって、これは私に残された唯一の価値だもの。
特殊な立場を持つ姉は許されるとしても、私には――。
「シエラ……」
「お父様、私は先に、馬車に行きます」
ぐっと左手で拳を作り、それ以上何も言わず私は階段を降りた。
赤いカーペットの上に足を進めて、外で待機している馬車に向かう。
私をファルク殿下とアクイラ殿下の結婚式が挙げられる神殿に連れていく馬車に向かう。
* * *
(素直に、お父様の優しさに甘えればよかったかもしれないね)
と、頭の痛みで叩き起こされた回想が終わったと同時に内心そう呟いた。
「ファルク殿下とアクイラ殿下に幸あれ!」
神殿の入口付近に立ち、歓声に耳を傾けながら周りを見渡す。
目の前には青い空が広がっている。その真ん中に太陽が爛々と輝いている。
それに照らされたのは青いリュゼラナに囲まれた白い神殿の前に立っているファルク殿下とアクイラ殿下。
鼻には甘く漂うリュゼラナの香り。耳には民衆の歓声。それらが二人の結婚がどれほど祝福されているのかを証明した。
まるで違う場所にあるかのように、青い花びらを降らせる国民とその中心にいる新郎新婦を見つめる。
彼らを祝ってくれたのは天気と国民だけではない。
数々の他国の大使や親善大使も参列している。あのルナード国の王弟殿下であるカリオール殿下までもいらっしゃる。
その事実は、外交官として動いているファルク殿下の功績が具現化された。それだけではなく、国民がアクイラ殿下に向けた熱気も凄まじかった。そんな二人がお互いを見つめ合って、そして幸せそうに笑っている。
心の中からポキッと何かが折れた音がした。
あの日から二十五日もすぎた。されど、二十五日しかすぎていないとも言える。
何年もかけて大切に育てた心を埋めるには足りなかった。
小さな刺激一つだけで、一所懸命埋めたものが無様に掘り起こされた。そして、再び私の胸を黒く蝕む。
呼吸ができなくなった。体は苦しみに素直で、身を翻して走ろうとしたその時。
「きゃあ!」
突風が吹いた。そして、リュゼラナの花びらで詰まっている籠が私に向かって飛んできた。
小さな悲鳴に変わった歓声と共に、左手で顔を庇ったが。
(あれ?)
待っていた衝撃は訪れなかった。
その代わりに、僅かに、森に似たような香りが漂っている。
同時に魔力の圧を感じた。
足から力を奪い、背筋に悪寒と冷や汗を走らせるほどの魔力。
見てはいけない。見たくもない。直感がそう訴えている。
「大丈夫か?」
低くて、無機質な声だった。
「もしかすると」と思って意を決して、震えと戦いながら顔を上げた。
視線の先には濃厚な蜂蜜のような、透明感がある黄金の瞳があった。
それはあまりにも真っすぐで、心の奥底が見透かされた気分に襲われた。
うなじから腕まで、鳥肌が立った。
美しすぎるものは恐怖をもたらす。これは本当だった。不気味さで全身の動きが奪われた。そのせいで、私の視線が黒髪の男性に固定された。
「大丈夫、です」
私は、上手く笑っているのだろうか。絞った声が僅かに震えている。こんな時まで、私は本当に情けない。
彼は数回瞬きをし、「そうか」と低い声で答えた後、私に横顔を見せた。
どうやら、彼が私を庇ってくれたらしい。
風も鼓動がおさまり、余裕が生まれた。そんな私は彼を横目で盗みして観察する。
上から下まで、結婚式には相応しくない真っ黒だった。
彼は煌びやかではなく、非常にシンプル、だけど品を感じさせる服装をしている。
見た目より、動きやすさ、軽やかさが優先されている身だしなみ。まるで、いつでも動けるようにと身構えるような印象を受けた。
それ以上何も言わない彼に私は小さくため息を吐いた。安堵からなのか、達成感からなのか、感じた圧が少し和らいだ。
これで、やるべきことを成し遂げた。
その特徴的な黒髪と黄金の瞳に圧倒的な魔力。
称えれば戦果多き英雄、罵れば戦争狂い。
三百年前、ルナード国からゼベラン国の独立に導いた竜の血筋が流れる男。
そう、彼こそが私の新しい嫁ぎ先である現ロートネジュ公爵、ルカ・ロートネジュだ。
居心地悪い無言が訪れた。周囲の賑やかさがそれを浮き彫りにした。
彼の服装も相まって、こちら側だけが葬式に参列している気分になった。
そう感じて、自然と口から乾いた笑いが浮かぶ。
気を抜いたその時、私の髪が誰かに触れられた。
瞳をぐっと閉じて、肩がびくっと小さく跳ね上がった。同時に、胸の鼓動が速まる。
一つ、吐かれた息が聞こえた後、彼が言った。
「リュゼラナが」
恐る恐る目を開けると、黒い手袋に包まれた手と青色の花びらがあった。
どうやら、先ほどの風で私の髪に花びらがついている。
それ以上何も言わずに、ロートネジュ公爵は手にしたそのリュゼラナを眺める。
笑みこそはないが、彼の視線から温もりを感じる。だからなのか、思わず聞いた。
「閣下は、リュゼラナがお好きですか?」
私の質問に彼は目を丸くしたが、でもすぐそれを細めた。その変化を見て、うるさかった心が僅かに凪いだ。
完璧すぎる顔の下から彼の人間性が見えると感じたからだろうか。そのせいで、私の視線は彼に釘付けになった。
「ああ、好きだ」
一瞬だけだった。笑みと捉えてもいいだろう変化が身を潜め、彼は再び真顔に戻った。
「君は?」
思いがけない質問に息を呑んだ。
リュゼラナ。薔薇に似ている青い花。王族の瞳と同じ色で、妖精の花とも呼ばれるもの。
頭の中によぎった答えをすぐ掻き消して、差し出された花びらを右手で受け取った。
そして、すぐそれを手放す。
一枚の青い花びらが穏やかな風に乗った。
それを目で追えば、まずは国民たちが見える。そして父が、母が、弟が。最後に彼と目が合った。
また掘り起こされた。
そして、またそれを埋めた。今度はより深い所に埋めた。
「私は、好きですよ」
公爵に振り返り、笑顔を作って、そう告げた。
自分の立場を思い出して決心したはずなのに、でも何故だろうか。胸が重い。
「とても、好きです」
私の言葉に、彼は目を閉じながら「そうか」と答えた。
それ以上何も言わずに、視線を新郎新婦に戻した。私も彼に倣い、姿勢を正し、顔を上げた。
息苦しさに気付かないふりをして、前だけを見つめる。
その後、それ以上の会話がないまま、私たちは結婚式を最後まで見届けた。
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