第2話 賢者モード

 勝沢は、苛める方でも苛められる方でもなく、絶えず他人事として苛めを見ている方だった。

 学生時代は、他の傍観者と同じで、

「自分に火の粉が飛んでこないようにするために、君子危うきに近寄らずという言葉通りにしなければいけない」

 と思っていた。

 そんな学生時代だったので、彼のモットーの一つとしては、

「絶えず他人事であり、自分は自分だ」

 と考えるようになっていた。

 だから、人に嫌われることはないが、何かあった時、助けてくれることもない。だが、それも勝沢が自分の選んだ道と思っていた。

 どうせ、人に気を遣って、自分を犠牲にして他人のために何かをしても、しょせん、

「相手に見返りを求めるというのは、褒められたことではない」

 と言われるのだ。

 そんなことは分かり切っていることであり、当たり前だ。だからと言って、

「じゃあ、どうして皆人に気を遣うのだ?」

 と聞いて、何と答えるだろう?

 答えようがないではないか? 見返りがないのだから、

「人のために何かをすると、いずれは、自分にいいことが返ってくる」

 と答えたとして、

「じゃあ、それって、言葉を変えただけの見返りではないのか?」

 というと、果たして、諭そうとしている人は、その後の言葉が続くだろうか?

 たった一言で、すべてが決まってしまい、いい返すことができなくなってしまう。

「結局、世の中、何かの見返りを求めることが前提なんだよね? だって契約だって、売買だって、すべて、こちらかのアクションが見返りとなって返ってくるわけではないか。そうじゃないと、どちらかの立場が強くなり、差別や支配、さらには、拘束と言ったことに関わってくる。一歩間違えれば、犯罪に絡んでくるのではないだろうか?」

 というと、それこそ、相手はぐうの音もでない。

「そんな屁理屈を言われても」

 と相手はいうだろうが、

「屁理屈」

 という言葉、結局は、言い訳にもならない、相手からすれば、

「ギブアップ」

 とでも言っているかのようである。

「三すくみ」

 ということと、

「他人事」

 ということ、それぞれに、相反するものではあるが、苛めの際の、傍観者が、三すくみの一角を担っているのだとすれば、ここに、一つの矛盾が出る。

「三すくみの一角を担っているのに、それが、相反するものだということで考えてみると、傍観者における第三者という考えと、三すくみから離れた、相反するものとしての第三者としては、それぞれに、種類が違うのではないか?」

 といえるのだろう、

 それを考えてみると、

「三すくみというのも、がっちりとスクラムを組んでいる時はいいのだが、どこかのバランスを崩したり、三すくみに見えていたが、時間が経つにつれて、力の均衡が崩れてきて、結局、お互いのバランスが保てなくなり、三すくみではなくなる場合があるのではないか?」

 と考えられる。

 つまり、そこには、自然界の

「生態系という理論」

 が崩れていくということになるのではないだろうか?

 それを考えると、勝沢は、

「俺の他人事という考えは、三すくみの中の、一角とも、三すくみに対しての相反するというものとも、違っているのではないか?」

 と考えるのであった。

 自分を、

「他人事」

 と考えるということは、

「自分は自分だ」

 ということであり、少なくとも、模倣であったり、人まねというのを毛嫌いするようになるといってお過言ではないだろう。

 確かにその通り、何といっても、

「自分は自分だ」

 という考えは、ある意味楽であった。

 なぜなら、一番つぶしが利くし、言い訳のように聞こえにくい言い訳がいくらでも使えるからだった。

 一つ言えることは、

「皆が、自分は自分だと思っているのではないか?」

 と考えられることだ。

 本当は、その考えに乗っかりたいのに、それができないのは、社会的な立場や地位が邪魔しているのだ。

 特に社会の歯車の一部として生きていると思っている人にとって、波風を立てることは一番のタブーだと思っていて、そのタブーを犯すことは、自分が、

「社会の歯車でしか生きることができない」

 と、自覚することで生きていくことを、自分なりに覚悟しているはずなのに、その覚悟を覆すものとなるからだった。

 特に社会の中で、雁字搦めで生きていかなければいけないことを自覚し、覚悟をしたと思っている人は、最初に立てた戒律は、死んでも守ろうとするだろう。

 自分の覚悟を自らで崩すということは、これから生きていくうえで、一度自分で自分を裏切ってしまったということになるからだ。

 そのことを自分で分かってしまうと。

「最初から、一度でも裏切ることはできない」

 という、戒律に縛られてしまうことになる。

 逆にいえば、

「戒律が一度でも破られると楽になった気分になり、そのため、よく言われる、『悪魔のささやき』なるものが、耳元で聞こえてきて、そこから逃れられなくなる」

 というものだ。

 人間、楽な方に進んでしまうと、楽なこと以外は考えられなくなり、それが自分を追い詰めることになると言われる。

 そういう意味で、

「自分は自分」

 という考えは、楽なのかも知れないが、じゃあ、まわりの人に合わせて、自分から何も考えないような人間というのは、どうなのだろう?

 まわりに合わせるということは、自分の考えを持たないということと、同意語である。

 そんな自分が嫌で、許せない気持ちになるというのは、誰もが思っていることだろう。

 しかし、この世知辛い世の中を生きていくには、自分を殺してでも、人に靡かなければいけなくなるだろう。

 だが、それだけではダメだということで、昔からテレビドラマというと、

「アウトロー」

 であったり、

「人と同じではダメだ」

 といっている人が主人公になっている。

 特に、

「世の中の大きな仕組みに逆らう」

 などという、官僚だったり、政府という大きな組織に立ち向かう、いわゆる。

「ノンキャリ」

 と言われる人間の活躍が、目を見張っているのである。

 そんな世界を、今のキャリアも分かっているのだろう、

「しかし、自分が生き残るためには、偉くなるしかない」

 ということで、世の中に逆らおうとする。

「抗う」

 という言葉もあるが、これはきっと、逆らった中で、実際に、逆らえている場合に使う言葉ではないか?

 実際には、

「逆らうというのは、自分が悪いことの方が多い場合で、抗うというのは、権力関係上、こちらが弱いのは分かり切っているが、それを自分で何とかしようと思うことである。つまりは、逆らっているのではなく、抗っていると言った方が正解なのかも知れない」

 といえるのだった。

 彼は、

「抗うというのは、逆らうことの延長だ」

 と思っていた。

 逆らうというのは、

「自分から、自分の抵抗勢力のようなものに抵抗することで、社会勢力のようなものが相手なので、見方によっては、こちらが悪い」

 というように見られてしまうことが多い。

 しかし、抗うというのは、どちらかというと、肉体的なことに対しての感情をいうのではないだろうか?

 相手に逆らうことで、そのうちに、逆らうことが、自分の中でマヒしてきたり、あるいは、逆らうということが、まるで自分の生きる意味のように感じられると、まるで、子供の頃の反抗期を思い出してくる。

 子供の頃には分からなかった、

「相手に逆らうことが快感だ」

 という思いが自分の中で芽生えてくると、それが抗うということになるのだろう。

 抗うというのは、相手が自分よりも立場的に強いか弱いかなどということは関係ない。

「自分が、逆らえないことが起こるかも知れない」

 と感じることであった。

 立場的に自分よりも強いものに対して逆らうことは、覚悟さえ決めてしまえば、何とかなるものなのかも知れない。

 しかし、抗うというのは、

「肉体的に耐えられない」

 ということであり、それは、何も嫌なことだけではなく、自分に襲ってくる快感を避けることができない場合にも言えるのだった。

 つまり、それが、性的欲求であり、我慢できるかできないかというのは、逆に自分が抗えるか抗えないかということになり、それは、自分の中である程度分かっていることではないだろうか?

 性的欲求を我慢できないのは、あくまでも本能であり、しかも、満たされてしまうと、その後に残るのは、

「賢者モード」

 である、

 賢者モードというのは、男性にしかないものだ。

 女性の場合は、絶頂に至れば、その瞬間は、我に返るものだというが、その我に返っている時間というのは極めて短く、また欲求がこみあげてくる。

 ただ、その間に、

「満たされたい」

 という気持ちが強いのか、男性にしがみついたり、優しくされたいという感情も、最高潮になるのだろう。

 しかし、男性は逆で、絶頂に至ってしまうと、そこから先、また欲求がよみがえってくるまでには、かなりの時間が掛かる。正直、シンボルが、役に立たなくなってしまっているのだ。

 しかも、精神的にも、身体に襲ってきたと同じけだるさが漂っていて、罪悪感と、自己嫌悪に包まれる。それを、

「賢者モード」

 というのだが、悪いことに、身体が敏感になりすぎて、相手と密着していれば、

「気持ち悪い」

 とまで思ってしまうのだ。

 よく昔のドラマなどで、ラブホテルに男女がいて、愛し合った後の瞬間、オンナが男にしがみついているが、男は仰向けになって、タバコを吸っているが、オンナに触ろうともしない。

 会話も差しさわりのないようなもので、

「ただ、時間が過ぎればいい」

 とばかりに、

「たった、数分で、男ってこんな風になってしまうのか?」

 と感じたが、すぐに、

「これはドラマで、この男だけのことなんだ」

 と思ったのか、どうか、今から思い出しても、その時の感情は分かったものではない。

 勝沢は、就職してからすぐくらいの頃、

「風俗に嵌っているということを、会社の人に知られないようにしないといけない」

 という気持ちから、

「なるべく回数を減らすようにしよう」

 と考えた。

 そおために、風俗に行っていた回数分、会社の近くのビジネスホテルに泊まることにしたのだ、

 それは、癒しになるからということであり、特にそのビジネスホテルは、温泉が出ることで、ちまたでは有名だった。

 だが、平日であっても、そこまで満室になることはなかった。その日の予約でも、十分余裕で取ることができるし、ダブルベッドの広さで、くつろぐこともできた。部屋では、サニタリー関係はそれぞれ独立していて、ユニットバスになっていないところがありがたかったのだ。

 部屋で風呂を使うことはなかったが、トイレに入ったり、洗面所に風呂屋トイレが見えるのは、非常に気持ちの悪いものだった。

 月に一度くらいは、利用していた。

「どこか、旅行にでもいけばいいのに」

 という人もいるだろうが、そこまでは考えていない。

 旅行に出かけてしまうと、行き帰りだけで疲れてしまい、せっかく、旅先での疲れを癒した分が、却って疲れとして溜まってしまう」

 と感じたのだ。

 それは、元々、性欲を発散させるという趣旨での癒しを求める分には、マイナス効果であった。

「疲れを癒すという言葉は二つの意味があり、疲れを解消するというのと、癒すという似た意味ではあるが、それぞれに満足させるためには、少なくとも、疲れを残してはいけない」

 という思いがあったのだ。

 だからこそ、疲れが禁物の中で、疲れてしまうであろう遠出は、選択肢になかったといってもいい。

 そういう意味で、ビジネスホテルにある温泉であるが、この温泉にも、入る回数は決めていた。

 本当であれば、

「何度でも入りたい」

 と思うのが実情だろうが、

「夜は2回まで、そして、早朝は一度きり」

 と決めていた。

 温泉は確かに癒し効果や、疲れをとるという意味で効果はあるのだが、何度も入ると、身体がふやけてしまうというのか、却って疲れが溜まってしまうという、

 夜は、到着してから、すぐに入るという、

「疲れを癒す」

 という意味での入浴、そして、2回目は、

「ぐっすり眠るための、安眠効果」

 として、適度な疲れやだるさを身にまとうことで、心地よい睡眠に入ろうという気持ちだったのだ。

 その間に、最初は疲れを癒すという意味で、部屋でボーっとしながらテレビと見ていたりしたが、まだ、20代前半の頃のバイタリティからは、それで満足できるほどではなかった。

「これでは、却って欲求不満が溜まってしまう」

 ということで考えたのが、絵を描くということだった。

 絵を描くといっても、そんな大げさなものではない、スケッチブックに、ネットなどで見た画像を自分なりに描いてみるというだけのちょっとした趣味であった。

 前から絵を描きたいという思いがあるのは事実だったが、実際にやってみると、

「見るに堪えない絵だ」

 と自分で思うのだから、やる気にもなるものではなかった。

 しかし、実際にやってみると、前にやってみたいと思った、ちょうど3年くらい前に描いた絵に比べれば、少なくとも自分で納得できるくらいの絵になっていたことに、自分ですらビックリしていた。

「俺にこんな絵が描けるなんて」

 と正直感じたのだが、描けるようになったのは、

「遠近感が自分なりに捉えられるようになったからだな」

 と感じた。

 最初にどこから描き始めるかというのは、別に問題ではなく、その時に描いた一部分が、自分が描こうと思っているスケッチブックの広さにマッチしていれば、それでいいのだった。

 つまり、

「最初にどこから描くかということが大切なのではなく、最初に筆を落とした部分が、キチンと枠に嵌るかどうかを自分が判断できるか?」

 ということである。

 それができるかできないかで、絵が描けるか描けないかが決まってくるのだ。

 もし、それができるようになれば、自分の中で、

「遠近感を掴むことができたのだ」

 と感じることだろう。

 それを感じることができると、

「絵というものが、だんだん上手になるステップなのだ」

 と思っている。

 もちろん、途中にいくつも節目があるが、芸術というものは、

「これから自分が、どんどん先に進んでいけるというものになるだろう」

 と考えられる。

 だから、絵を描くだけではなく、文章にしても、音楽にしても、結構、先に進むことができるのだろうと思うのだった。

 そして、それが、

「俺はスタートラインに立つことができたのだ」

 と、言えるところまではきているに違いない。

 しかし、問題はそこからだ。

 まったくの未知数の段階で、それまで、スムーズに上達してきたので、

「これからも、上達の一方だ」

 と考えているのだろうが、なかなかそうもいかない。

 つまり、スタートラインに立つまでは、誰にでもできることであり、そのために、

「俺は、天才ではないだろうか?」

 と、勘違いする人もいるだろう。

「芸術というのは難しいので、俺にできるわけはない」

 と思っている人が多い中、逆に言えば、そう思うから、誰も手を出さないのだ。

 手を出してしまうと、スタートラインまでは誰でも行けるといってもいいのだから、そこまで行けたことで、それをスタートラインではなく、半分くらいまでは行けているという勘違いをしている人が多いのだ。

 だから、おかしな商売に騙されたりもする。

 以前、出版業界にて、

「自費出版業界」

 というものが流行ったことがあった。

 それは、

「本を出しませんか?」

 という触れ込みで、原稿を募り、

「必ず、あなたの原稿を拝見し、批評とともにお返しします。そこで、作品の完成度によって、こちらから、出版のご意思のある方には、そおプランを見積もりにして、ご提案いたします」

 というものであった。

 20世紀くらいまでは、

「作家になりたい」

 あるいは、

「本を出したい」

 という人の敷居というと、有名出版社の新人賞や文学賞に入選するしかなかった。

 しかも、入選しても生き残れるのは、ごく一部、入選するまでに気力を使い果たして、本来なら、ここからの次回作が重要なのに、ぱったりと書けなくなるという人が多かったのだ。

 そういう意味で、小説家になるには、本当に狭い門であった。

 もちろん、小説家に限らず、マンガ家であったり、画家などの、芸術関係一般に言えることだった。

 さらに、他の方法としては、

「原稿を直接、出版社に持って行って、編集者に見てもらう」

 という、持ち込みという方法であった。

 しかし、持ち込みに関しては、ハッキリいうと、まったくどうにもならない。原稿を持って行っても、相手は受け取ってくれるであろう。しかし、原稿を受け取って、持ち込み者の姿が見えなくなると、秒でゴミ箱行きだ。

 しかも、編集者の表情は、困惑以外の何者でもなく、恨めしそうに、

「この無駄な時間を返せ」

 とでも言っているかのようだった。

 つまり、編集者は、

「俺は、他のプロの先生や、部下の指揮、そして、自分の仕事と忙しいんだ。素人の遊びにつき合っている暇なんかないんだ」

 と言わんばかりである。

 つまり、持ち込みというのは、見てもくれないということだ。

 自費出版社の連中は、実にうまい。それを分かっているから、

「応募原稿には批評を書いて送り返します」

 と書いてあるのだ。

 そして、実際に批評が乗っていると、送った方は安心する。

「ちゃんと見てくれたんだ」

 ということである。

「見てくれたということは、見積もりも正確なはずだ」

 と思う。何しろ、相手の批評が、うまいからだった。

 最初に、残念なところを並べる。もちろん、言葉は、最期に、

「残念」

 という言葉をつづり、決して相手にショックを与えない。

 そして、批判をしたうえで、

「あなたの作品の素晴らしいところは」

 といって、いいところを並び立てる。

 これには、二つの利点がある。

 最初に悪いことを書いているのだから、後半の良いことしか書かれていないので、読んだ本人は、いい気持ちで読み終わることができる。しかも、批判があったということは、

「いいところばかりを書こうというあざとい意識がない」

7ということになるので、相手に安心感を与える。

 疑う余地を与えないということだ。

 そして、もう一つは、相手の読解力の深さを感じさせることだ。

 そして、褒める時には、こちらの心境を想像して描いてくれるので、批評というものが、

「痒いところに手が届く」

 という、素晴らしい内容のものになっているのだ。

 だから、送った人は、その人を信用する。そして、そんな人を雇っている会社なのだからといって。会社を信用するのだ。

 だから、その後、少々、

「おかしいな」

 と思うようなことを言っても、おかしな気分にはならないだろう。

 それがm自費出版社関係の会社の、

「あざといところ」

 であった。

 しかも、小説を書くというっことが大変であるのを分かってくれる相手、つまり執筆が、どれほど孤独なものなのかということを、今まで一人でしてきたのだ。

 街のカフェなどで、小説を書いていても、パソコンを広げている人は、少々いるが、そのほとんどは、仕事に勤しんでいて、小説を書いているという人はいない。

 何よりも、自分のまわりには一人もいたこともなく、見たこともないのだ。

 だが、それなのに、自費出版会社が、年に一度くらい、コンテストと称して、原稿を募集することが結構ある。

 今まであった、有名出版社の新人賞などへの原稿応募数というと、数百くらいだ。

 それも、500になることもない。

 それなのに、自費出版関係は、桁が違う。

 いつも5000件は超えているのだ。

 確かに、応募規定はそんなに厳しくもないし、多重投稿もかなわないし、さらには、サイトで公開している作品もいいという。

 かなりの数の応募があるのは、想像できるが、それにしても、桁が違うというのは、想像を逸脱しているのではないだろうか?

 そんなことを考えると、応募数がどれほど多いのか、想像を絶するという。

 しかし、逆にそれだけ競争率は高い。

 しかも、結果発表の後、

「あなたの作品は、もう少しで入選だった」

 などと言って。出版社と共同出資という形での本の製作を言ってくるのだ。

 だから、皆その言葉に載せられて、本を作る人が多い。

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