最後のオンナ

森本 晃次

第1話 苛め問題

この物語はフィクションであり、登場する人物、団体、場面、設定等はすべて作者の創作であります。似たような事件や事例もあるかも知れませんが、あくまでフィクションであります。それに対して書かれた意見は作者の個人的な意見であり、一般的な意見と一致しないかも知れないことを記します。今回もかなり湾曲した発想があるかも知れませんので、よろしくです。また専門知識等はネットにて情報を検索いたしております。呼称等は、敢えて昔の呼び方にしているので、それもご了承ください。(看護婦、婦警等)当時の世相や作者の憤りをあからさまに書いていますが、共感してもらえることだと思い、敢えて書きました。ちなみに世界情勢は、令和4年7月時点のものです。風俗界のことは、あくまでも想像に近いですが、客としてであれば、作者だけではなく、誰にでも分かる部分だと思います。フィクションに仕立てたお話としては、面白いのではないでしょうか?


「浅倉ななせ。今年、確か25歳だといっていたが、見た目は、その通りの女に見える。四年制の大学を卒業し、事務員として入社してきた。四年制を出ているのであれば、営業職とか、もっと他に実力を発揮できる場所もあるだろうに、本人の希望なのか、事務職をこつこつとこなしていた」

 そんなことを考えているこの男、勝沢正樹という、35歳の主任である。そろそろ係長の昇進があってもいい年齢であるが、まわりから見ると、どこか捉えどころのない男で、

「しっかりしているというわけではないが、いい加減でもない。ただ、やる気というのが見れないところが残念なんだよな」

 と、上司からは見られていた。

 そういう意味では、仕事が決してできないというわけでもないし、むしろ、言われた仕事は迅速にトラブルもなく、いつも無難にこなしている。そんな勝沢という男、

「何か、隠しているんだよな?」

 と、同僚の一人から見られているようだが、実際に、そんな疑いを持っているのは、その人だけだった。

 まわりの疑惑が一人だけだったら、誰も何も言わないかのようにスルーするのだろうが、皆心の中に、

「ひょっとして」

 という思いを隠していた。

 彼は、確かにまわりにいろいろ隠している。特に性欲に関しては、他の誰よりも強く持っているということをである。

 だから、自分が、

「風俗は、よく利用している」

 ということを、自分から口外していた。

 そういうことをいうことで、

「あいつは、自慢でもしているつもりなのかね? そんなやつに限って、風俗なんかに行ったことはないんだろうな」

 と、まるで、強がっているかのように思ってくれれば、こっちの思うつぼだというものだ。

 彼の気持ちとしては、

「オオカミ少年」

 と、

「木を隠すには森の中」

 ということわざの合わせ技だったのだ。

 どちらも発想は同じだが、

「ウソも言い続けていれば、本当になる」

 という思いと、

「ウソというのは、隠そうとするよりも、実際に晒していて、そんなところにはないということを示したうえでの錯視を行う」

 というのが後者になるのだ。

 つまり、前者としては、

「継続性が肝になる心理的な要素」

 であり、後者とすれば、

「錯覚や錯視を利用したものとしての、心理トリック」

 といってもいい。

 どちらも、心理トリックではあるが、前者の方が、

「自分の目に囚われないトリックだ」

 といってもいいだろう。

 実際に彼は風俗マニアだった。最初に先輩から連れて行ってもらってから、マニアになあったのだが、それが、高校二年生の時だった。

 もちろん、まだ素人童貞であり、初体験は、

「ソープのお姉さん」

 だったのだ。

 勝沢にとって最初が、プロのお姉さんというのは、正直ありがたかった。他の人から見れば、

「モテないから、童貞を捨てられないということで、プロのお姉さんにお願いしたんだ」

 と思われるだろうが、実際、勝沢はモテなかったわけではない。

 だから、まわりの友達からすれば、

「俺、まだ童貞だぜ」

 と言われると、耳を疑う人もいるくらいで、そいつが童貞だったとすれば、

「おい、そんな気の遣い方するなよ。却って俺たちが惨めになるだけだ」

 といって、信じないどころか、変な気の遣い方をしていると思われてしまうことだろう。

 つまりは、それだけ、まわりは勝沢はモテるものだと思っているのだ。しかも、勝沢自身も、決してモテないわけではなく、

「別にお金を払わなくたって、初体験くらいはできる」

 と思っていたのだ。

 だが、彼にはコンプレックスがあった。それは、人には言えないコンプレックスで、ただ、それは勝沢がそう思い込んでいるだけなのかも知れない。たぶん、まわりの人にいえば、

「お前の思い込みでしかない」

 と言われるに違いない。

 しかも、この話は、説明しようとすると、少しややこしくなる。勝沢が、オンナにモテないような男であれば話も簡単なのだし、そして勝沢は人に説明しようとすると、どうしても、理屈っぽくなってしまい、相手が聞く耳持たないと思うと、話をすぐにやめてしまい、それ以上話をすることはないのだった。

 勝沢は、何が苦手なのかといって、

「優しい言葉」

 が苦手だったのだ。

 苦手というよりも、表現としては、コンプレックスと言った方がいいかも知れない。なぜなら、

「優しく言われると、どこか社交辞令でしかない」

 と思ってしまうからだった。

 勝沢は、どちらかというと、裕福な家庭に育った。家族のまわりは、ある意味上流階級の人ばかりが多かったこともあり、話のほとんどは、家族の自慢であったり、

「この間、どこそこのブランドのバッグを買った」

 だの、

「海外に一か月旅行に出かけていた」

 などと言う話が、日常になっているので、裕福とはいっても、そこまでの人たちと台頭でいられるほどではなかった。

 つまり、

「上の下ではなく、中の上を行ったり来たりしているので、見栄を張るとしても、かなりの無理が必要になる」

 というものである。

 家族が、その犠牲になるのだ。

 父親が見栄を張る時は母親が、母親が見栄を張る時は父親が、そして、その二人の間に挟まれて、いつも理不尽に思っていたのが、勝沢だったのだ。

 勝沢にとって、親の見栄は、慣れるまでがきつかったが、慣れてしまうと、他のことよりもむしろ楽であった。

 要するに、

「他人事だ」

 と思えばいいわけだ。

 しかし、その甘い考えが、自分の気持ちを押し込めていたようで、

「他人事だと思ってしまうことが、意識しないようにしようと無理をしていることになるのではないか?」

 ということであった。

 だから、少々のことは、すべて、言葉の裏を読むようになった。

 言葉の裏を読まないと、

「本当に言葉の裏なんてないんだ」

 と思い込んでしまう自分がいたからだった。

 勝沢はそんな感覚があったからか、

「人の優しさは、見せかけでしかない」

 と思うようになった。

 だから、人の優しさに見えるものは、次第に、

「承認欲求の表れではないか?」

 と思うようになったのだが、それを感じたのは、自分が子供の頃、承認欲求が強かったことを自分なりに感じたからだ。

 自分では思い出せないが、子供の頃は子供の頃で、コンプレックスがあった。そのコンプレックスを解消しようと、なるべくまわりに自分を分かってもらうべく、目立とうとしていたのだ。

 しかも、人の会話を押しのけてまで前に出ようとすると、それはさすがに周りから白い目で見られ、次第に鬱陶しがられるようになるのも仕方のないことだろう。

 そんなコンプレックスというものが、自分の中にあるとは分かっていなかったので、まわりが自分から遠ざかっていくのがどうしてなのか分からなかった。

 無理にでも追いかけようと思えば追いかけられたのだろうが、どうしても、足がすくんでしまった。

 もし、あの時強引にでも、逃げる人を追いかけていったりすると、まわりから苛めの対象になったかも知れないと思った。

 ちょうどその時、ハッキリと他に苛めのターゲットがいて、結果、その人が苛められなくなるまでにかなりの時間を要したことで、何とか自分に火の粉がかからなくてよかったのだ。

 苛めをしている連中は、相手が誰であれ、苛めをやめることはできないのだろう。苛める相手がいないからと言って、苛めなくても我慢できるのであれば、自分が苛めに怯えることはないのだろうが、どうしても、まわりから苛められたらどうしようという気持ちが離れなかったのは、まわりの視線に、

「ちょっとでも油断すれば、つけこんでやる」

 とでも言いたげなものを感じたからだった。

 苛めを実際に受けたわけではないが、いつも精神的には苛めを受けているような恐怖があった。それを被害妄想というのだろうが、それだけ、いつ、自分が苛められるようになってもおかしくないと感じていたのだが、その時に感じたのが、

「苛める側でなければ、安心はできない」

 ということであった。

 つまり、苛められている人は最初から安心などはないが、苛めに関係していない第三者、いわゆる、

「傍観者」

 と言われる人たちだって。

「いずれは自分たちが苛められることになるんだ」

 ということが分かっている。

 もちろん、ほとんどが被害妄想による、幻影なのだろうが、いつも心の底で怯えているのは間違いないのだ。

 苛めという行為が招く、その場の雰囲気は、当事者の様々な思惑を感じさせる。

 苛められている人間は、苛めっ子に対して、

「逆らうと、もっとひどい目に遭わされてしまう」

 という思いから、逆らうことをやめて、ただ、その時をエスカレートさせず、ただ、やり過ごすだけを考える。

 そして傍観者に対しては、基本的には何も感じない。苛めっこに対してだけ見ているだけでも大変なのに、いちいち傍観者の視線など感じる余裕などないはずだからである。

 だが、もし感じるのだとすれば、

「一番恐ろしいのは、お前たちだ。いじめっ子は確かに悪いが、あいつらは、気持ちで感じていることを態度に表すから、まだわかりやすい。こっちがやり過ごそうとすればできるのであって、お前たち傍観者は、きっと容赦しないんだろうな」

 と感じたのだ。

 だが、傍観者の中にもいろいろいて、

「傍観していないと、俺たちまで苛められる」

 と思っているのだ、

 下手にいじめられっ子を助けでもして、今度はターゲットが自分に変わってしまうのであれば、全体から見て、何の解決にもなっていない。

「余計なことをしたばっかりに」

 と思う。

 それは誰が考えても同じことで、

「だったら、何もせず、何も感情を持たずに、その場をやり過ごす」

 と思っているのだ。

 これは、いじめられっ子と感覚は同じである。

「やり過ごす」

 という思いは、いじめられっ子が、実際に受けている被害であるのに対し、傍観者たちにとっては。

「一歩間違えれば、いじめられっ子はこっちになってしまう」

 という被害妄想を抱いてしまう。

 そうなると、不安というのはどんどん膨れ上がってしまい、不安を解消することはできないが、

「目の前で苛めを受けているやつが、自分だったら」

 というリアルな思いがさらなる新しい考えとして、頭に浮かんでくるのだった。

 つまり、実際に自分の身に置き換えて考えられる事実が目の前で繰り広げられているわけだから、それこそ、

「触らぬ神に祟りなし」

 と思うのも、無理もないことだろう。

 自分のことを苛めているところを、目の前で苛められている人間がいることで、重ねて見てしまうと、逆らうことはおろか、

「いずれは、我が身」

 ということで、よりリアルに感じさせるのだ。

「苛めが行われている時、何もできずに、傍観している連中も同罪だ」

 といっている人もいるが、実際に苛めの現場に遭遇した時のその雰囲気を、本当にその言葉で言い切れるのかどうか?

 そんなことを考えていると、それこそ、そんなことを言っている、

「評論家気どり」

 の連中が、どれほど他人事であるかということだ。

 まったく被害が及ぶことのない、

「蚊帳の外」

 にいて、

 同じ傍観者とはいえ、いつ自分が被害者になるか分からない人を非難できるというのは、ありえないと言えるのではないだろうか?

「同じ傍観者でも、当事者ともなると、そうはいかないのだ」

 と、当事者としての傍観者は、火の粉が飛んでこない、飛んでくるはずもない場所から好き勝手言っている連中が、憎らしいというくらいに感じていることだろう。

 いじめられっ子も、傍観者も、どちらも、実質的なという意味と、妄想でという意味で、直接的な被害を受けている。加害者としては、苛めっ子なのだが、彼らがすべて悪いというのだろうか?

 正直、苛めっ子になったことがないので、その心境は分からないが、

「一度、誰かをターゲットにして苛めというものをしてしまうと、満足がいくまで、苛めが辞められないのではないか?」

 と感じるのだ。

 しかし、苛めを実際に辞められない。つまり、ターゲットが変わってでも、苛めということをやめる気配すらまったくないというのは、彼らは彼らなりに、

「どんなに誰かを苛めても、満足感が得られない」

 ということだろう。

「満足感が得られないということは、自分が納得できていない」

 ということであり、時間が掛かればかかるほど、不安が解けることはなく、どんどん苛めがエスカレートしていくのだろう。

 最初はそういう理屈も分かっているのだろうが、今度は感覚がマヒしてくる。彼らは自分がどうしてやめられないのか、考えれば分かることを考えようとしない。

 そのことを考えられるのだとすれば、苛めなど、すぐにやめることができたであろう。

 苛めがやめられなくなるまでに、おそらく何度か、やめることができるというターニングポイントはあったはずだ。

 そのことに気づかないのか、やめようとしたがダメだったのか、後者ではないかと思うのだ。

 なぜなら、

「やめようと思えば思う程やめられなくなる。つまり、最初にやめることができなければ、それ以降は、どのようにしようが、やめることができないエリアに、入り込んでしまうからだろう」

 と感じるからだ。

 つまりは、苛めっ子だって、

「俺たちだって、やめられるものならやめているさ」

 と考えているのかも知れない。

 そう考えると、苛めっ子に、

「負のスパイラル:

 が付きまとっている気がするのだ。

 つまりは、螺旋階段状にクルクルまわりながら、ゆっくりと落ちていく。途中から加速がついて止まれなくなってしまうのだが、そこがすべてのスタートになるのだろう。

 要するに、

「苛めというのは、苛めっ子が、いじめられっ子をターゲットにして行うことから、すべてが始まった」

 といってもいい。

 だから、

「いじめっ子が悪い」

 ということになるのだ。

 何と言っても、最初に始めたり、きっかけになった人間が、その場においての責任なのだということになるのだろう。そういう意味で、苛めっ子というのは、これほど貧乏くじなものはない。

 ちょっとした承認欲求のようなものが、自分の中にある残虐性と結びついて、苛めという形になる、

 始めても、終わりというものを想像することができないのだから、終わりが見えないスパイラルに飛び込んでしまったということなのだろう。

 しかも、時間が経てば経つほど、深みに嵌っていく。苛めの恐ろしさはそこにあるのだった。

 そう考えると、

「いじめっ子も、彼らなりに辛い、いじめられっ子も、当然のことながら、被害を受けているのだから、最初から辛い。そして傍観者も、言い知れぬ恐怖に見舞われているという意味もあり、辛さから逃れられない」

 と思うと、

「誰が悪いというわけではないではないか?」

 ということになる。

 ということは、この問題は、

「自然発生」

 したということになるだろうか?

 最初は自然発生だったのかも知れない。ここまで昔の苛めはひどくなかったからである。だが、これが、連鎖的に発生したものであり、しかも、

「少し前と変わり、陰湿さがハンパではない」

 という形に変化しているとすれば、

「自然発生」

 という理屈も分からないことではないような気がするのだった。

 そう、苛めというのは、昔と変わってきている。昔から苛めという者はあったが、それなりに、

「ルールのようなもの」

 があったはずである。

 そういう暗黙の了解があることで、苛めは、社会問題というところまでこなかったのだし、今のような、

「引きこもり」

 というものを作らなかっただろう。

 ただ、今でいう

「引きこもり」

 というのは、苛めだけが原因ではない。

 不況による就職できなかった人たちが、そのうち、人に関わることが嫌になり、ゲームに逃げたりと、引きこもってしまうのだ。

 しかも、それは年齢に関係のないもので、中学生、高校生の子供がいながら、引きこもってしまうという、

「目を疑いたくなる」

 というような信じられない光景を見せられることになるのだった。

 そんな時代は、無数の社会問題が発生しては消えていく。それこそ、

「社会問題のバブル」

 というような時代があったのだろう。

 勝沢は、いじめ問題を考えた時、

「まるで三すくみのようではないか?」

 と考えた。

「じゃんけんや、ヘビ、カエル、ナメクジといった、自然界の生態系に関わる問題などがそれである」

 じゃんけんは、いうまでもないが、自然界の生態系として、

「ヘビはカエルを食べ、カエルはナメクジを食べる。そして、ナメクジはヘビを溶かしてしまう」

 という、この三角形は、それぞれの方向に、自分の強弱を置いているということになる。

 つまり、この問題は、実はそれぞれの抑止に働いているというのだ。自分が得意な方ばかりを攻撃していれば、せっかく、自分の弱い相手を抑えてくれているのに、その抑えが利かなくなる。しかし、だからと言って、自分が生きていくための食料を摂らないということは、自分の命取りとなるので、いかにうまく強弱のバランスをとるかというところが難しいのだ。

 しかも、ここでいうバランスは、もう一つの意味を持っていて、これは昔の探偵小説で、その時代の問題作となったものだったが、話は、入れ墨の話であった。

 最初読んだ時は中学生だったので、その理屈が分からなかったが、実は、この三すくみと、入れ墨という問題がうまく絡んでいて、これが、実はトリックの根幹となっていたのだった。

 トリックとしては、一種の、

「顔のない死体のトリック」

 と呼ばれる、

「死体損壊トリック」

 だったのだ。

 その犯罪はバラバラ殺人であり、

「密室の中に、胴体以外がある」

 というものだったのだ。

「どうして、密室だったのか?」

 というのも、大きな問題であったが、それよりも問題だったのは、

「どうして、この話に、入れ墨というものが使われたのか?」

 ということであった。

 何と言っても不思議なのは、

「普通ミステリーなどで、バラバラにする場合、首や特徴のある部分は、犯人が持ち去って、被害者が誰なのか分からなくするということがトリックの真髄なのに、何よりも身元が分かる首から上が残されていたのだから、被害者をごまかしたわけではないということだ。ただ、背中の入れ墨がないということは、入れ墨愛好家にその嫌疑が掛けられる。しかし、いくら入れ墨が欲しいからといって、有名教授という立場を捨ててまで、一つの入れ墨に固執するのもおかしい」

 その事件においていえることは、

「入れ墨が、三すくみであるということであり、その三すくみを本来は一人の身体には絶対に彫らないということは、絶対常識だったのだ。なぜなら、三つの強い力が働いて、掘られた身体を三つが絞殺すことになるという言い伝えがあったのだ。そんな言い伝えがあるのに、有名な刺青師が掘るわけがない。これが、今回の事件の肝だったのだ」

 結局は、三すくみと刺青というものが全体のトリックに絡むことで、この密室完全犯罪を完成させたのだが、その中での疑問を一つ一つ掘り下げていくことで、事件解決に役立てた。

 この時の密室も、実は単純なものであったが、それだけに、簡単に気づけないように、まわりのトリックが働いていた。それを作者は、

「心理の密室」

 と呼んだ。

 そう、これが、この事件のミソであり、すべてのトリックに、三すくみが絡んでいるのだった。

 三すくみは、それぞれがそれぞれをけん制しているという意味で、簡単には崩せない。そもそも崩していいものなのかどうか。そのあたりも難しいといってもいいだろう。

 それを考えると、

「三すくみというものは、攻撃しにくいし、防御は緩いのだが、相手を守らなければいけない場合があるので、これ以上、強固なものはないといっても過言ではないであろうと言えるのではないか」

 それを考えると、苛めの問題も、一筋縄ではいかないのも当たり前だといってもいいだろう。

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