34 夜明け

 この世に神様なんていない。

 立て続けだ。

 乙姫さんに続いて、明日香まで――。


 マイに自分を責めるなだなんて言っておいて、そんな意識は綺麗さっぱり吹っ飛んでしまった。

 いつ采配を間違えた。どこで作戦を間違えた。明日香は俺が守るって、決めたはずだったのに。


 でも、もしかしたら大丈夫かも知れない。虎二と同じように、NADにならないかも知れない。

 みんなも同じ気持ちだったんだろう。そんな都合の良い願いに縋るように、明日香が身を隠したロジータの前から、全員喋らず一歩も動けないでいた。



 ――どれくらい経っただろうか、朝日が差し込んで来た。


 ロジータの奥から足音が聞こえて来て、心臓が大きく跳ねた。

 一歩ずつ、近づいてくる。顔を上げるのが怖い。


「おい、鷹広。顔上げろ」


 現実を直視させようとしているのか、虎二が俺の名を呼んだ。

 だめだ、直視出来ない。見てしまったら俺はもう、立ち直れる自信は無い。


「見ろって!」


 虎二にぐぎっ、と首を起こされて、無理やり指で目を開かれた。そこには――。


「……明日香」


 変わらない涼しげで整った顔と、アップにまとめたポニーテール。

 膝上のスカートから伸びる細くて長い足は――ふらふらせずに、しっかりと地に足をつけている。


「えっと、なんか、すっごい最後の別れみたいなこと言っちゃったけど」


 瞳は、濁っていない。いつも通りの、綺麗な瞳。


「大丈夫、みたい」


 ――人間のまま生きた明日香が、そこに立っていた。



 ▼


 左頬が痛む。

 明日香が無事で嬉しくって、涙と鼻水で顔をぐしゃぐしゃにして思わず明日香に抱きついたら、変なところに触れたらしく鋭いビンタを喰らったのだ。


 俺達はいたずらにMASAHIKO達の不安を煽りたくは無いから、話し声が通らないように屋上へ場所を移した。

 無事だった明日香自身は、何を言ったらいいのか上手い言葉が見つからないようだ。「ご、ご心配おかけしました」とだけ言って、ネタを忘れた芸人みたいに気まずそうにしている。


「きっとスガ達との戦いで、NADと戦っている最中だと思います」


 流れの速い雲の下、風に暴れる髪を抑えてゆりが言う。

 傷口は浅い。戦闘に集中していて、その時は気付かなかったのだろう。

 しかし、しかしだ。考えるのも嫌だけど、噛まれた時間から計算すると、NADになっていてもおかしくは無い。――と言うか、客観的には、NADになっていないとおかしい。


「明日香、もう一回傷口を見せて貰っていいかな?」

「う、うん……」


 明日香がスカートを少しめくる。流石の俺でも、今やましい気持ちは無い。


「ち、ちょっと、見過ぎ」


 明日香が俺の顔面に手のひらを押し付ける。


「血は完全に止まってる。けど、もっと浅い傷で、発症した人を俺と虎二は知ってる」

「ああ、俺らの担任だな。覚えてるぜ」


 俺達の担任だった関谷先生は、傷とは呼べないくらい浅い傷でNADに変わってしまった。


「明日香が無事で嬉しいし、神様に感謝したいくらいだ。でも、なんでだろう。虎二といい明日香といい、そんな都合の良い話が……」


 ゆりがしばし口元に手を当てて考えた後、難しい顔のまま言った。


「虎二さんと明日香さんの共通点を探ってみますか。お二人とも、血液型は?」

「私はAB型」

「俺ぁB型だ」

「明日香も虎二もB型の血が入ってる……B型は発症しない、みたいな?」

「うーん、そうだとしたら、生存者はもっと多いはずですね」

「あんた達二人、実は血が繋がってて、なんか特殊な一族の末裔だとか」


 マイが真面目な顔で突飛なことを言う。多分無いだろうが、それでも何かを探る上で可能性を最初から切り捨てるのはナンセンスだ。


「お二人ともそういう、実は親戚かも、みたいな心当たりとかは無いでしょうか?」

「いやー、無いかな……。私生まれは北の方だし」

「俺も、女鹿めがって親戚がいるとかは聞いた事ねえな」


 他にもいくつか体質や遺伝に関連した質問をしたが、これだと思うものは無かった。


「それじゃあ体質ではなくて、その時の行動に要因があるのかもしれませんね。二人とも噛まれた直後、特に消毒とかの処置はしていなかったですよね?」

「あぁ、ゆりにしてもらうまでは特にして無かったな」

「私も、気付かなかったくらいだから」


 ここで流石のゆりも行き詰まったようで、腕を組んで考え込んだ。


「分からないですね……特に何の処置もせず、なんで発症しなかったんでしょう」

「やっぱり体質じゃないかな? 虎二君と明日香さんの抵抗力が強いとか」

「きっと違うわ健太。この単細胞は確かに丈夫そうだけど、明日香は普通の女の子よ」

「おいこらてめえ」

「てめえって誰のことよ単細胞」


 全然二人が発症しなかった理由が分からない。今のところ共通点は、学年は違えど二人とも十八になる歳である事と、納豆が好きな事くらい。


 そう、納豆が好き。納豆が……。


「二人とも、噛まれた日に何食べた?」

「んん? えっと、覚えてるのは噛まれた後、最期だと思って食った納豆くらいだな」

「私も、昨日の朝と夜に納豆……」


 いやいやいやいや、そんな事が。そんな都合のいい事があるわけない。だがしかし、今の所それくらいしか可能性は……。


「試してみますか」


 ゆりが眼鏡をクイっと上げた。


 ▼


 ゆりはロジータのキッチンで熱湯を用意し、コップに入れた。そこに納豆を五粒ほど入れてかき混ぜる。

 しばらくして納豆を取り出し、そのお湯を指して言った。


「このお湯に溶けたのが納豆菌です。NADの体内に入れてみたいと思います」

「へー、お湯に入れて菌は死なないのか?」

「はい。納豆菌は強いんです」

「でもどこでNADに? 外で野良を見つけてくるか?」

「いえ、鷹広さん。このモールには一体、まだNADがいるじゃないですか」


 ――地下の屋内駐車場。

 スガの捕らえた奴が、縛られたまま放置されている。


「ゆり、持ってきたよ」


 健太がおもちゃの水鉄砲を持ってきた。鉄砲と言うより、水遊びをしたら無双出来るようなごついライフルみたいなやつだ。


「ありがとう。じゃあこの納豆菌を装填して、行きましょう」


 この水鉄砲で、NADの口に納豆菌をぶちこもうと言う算段だ。


「経口摂取で何も変化がなければ、今度はNADの腕に注射してみましょうか」


 ゆりがすごい楽しそうだ。この子が博識な理由が分かった気がする。

 全員で地下に降り、屋内駐車場に着くと、縛られたNADが俺達の姿を認識して唸り始めた。


「さ、健太」


 ゆりが促すと、健太は水鉄砲を構えた。

 ピューーーーっと、意外に結構な水圧で納豆菌が発射されてNADの口に入った。

 全員が固唾を飲んで見守る。


「ア゛ァァァー! ……ア゛? ……ヴォエ!」

「わっ、なんか吐いた。きっと臭かったのよ! ねえこれ効くんじゃない!?」


 マイがなぜか無駄にテンションを上げる中、ゆりは顎に手を当てて、無言でNADを見つめている。


「ヴォエ! ヴォエ! ア゛アァァー! ……ア゛ッ……ァァ…………」


 NADの首ががくん、と力なく垂れて、動かなくなった。


「まじか!? 本当に、本当に納豆なのか!?」

「信じらんねえ、身近な納豆で」

「聞いた事があります」


 ゆりが毎度の如く、眼鏡をクイっと上げて言った。


「納豆菌。学名は、バチルス・サブティリス。百度で煮沸しても生き残り、真空状態でも生存する。強い酸である胃液に晒されても死なず、増殖も驚くほど速い。そのあまりの強靭さ故に、地球上のものではなく、宇宙から飛来した菌なのでは、と言う説すらあります」


 そんなに強い菌だとは知らなかった。もはやチートじゃんか、それ。


「そしてNADについて考えていたことがあるんですけど、みなさん新学期の朝、隕石、見ませんでしたか?」

「隕石? そんなの落ちたか?」


 全く覚えが無かったのでみんなに聞くと、俺以外の全員が頷いた。何で俺だけ気付かなかったんだろうか……分からない……。


「もしもですけど、その隕石によってNAD化するウイルスがばら撒かれたのなら、同じく宇宙から飛来した納豆菌が対抗できるのも……」


 グッ、と握りこぶしを作って、ゆりは続ける。


「道理!!」


 再びの沈黙。にわかに信じられない。でも、実際に目の前でNADに効いた。ってことは本当なのか……。本当なんだろうな……。


「プッ、ククク、あはは!」


 明日香が笑い出した。と同時に、全員が声を出して笑う。


「私達らしいじゃない? なんだかシリアスになりきれない、けど本気、みたいなところがなんて言うか」

「本当ね、もーバッカみたい。だけど、信じるしかないわね」

「僕もびっくりだよ。納豆好きで良かった」

「いやー納豆にはそんくらいの底力があると思ってたぜ!」


 これは希望だ。変わってしまったこの灰色の世界に、色を塗り直せるかもしれない。

 ――俺達は、この世界を救えるかもしれない! 

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