33 夜空に

 独りでただシャワーに打たれる。

 誰が見ている訳でも無いのに、そうやって涙を誤魔化している。


「さよならも、言えなかったな」 


 高校で俺を助ける為に囮になってくれたのが、乙姫さんの最後の姿。


「あの時も俺は泣き崩れるばかりで、みんなを危険に晒したっけ」


 蛇口をひねって止める。大きく鼻をすすって、俺はシャワールームを出た。

 何となく屋上へ上がると、月が嫌味なほど綺麗に輝いている。

 皮肉な事に、三日月だ。


 俺の視界の中に、フェンスに手をかけて、夜空を見上げる人影があった。


「虎二と健太がさ、お墓作ったって言ってたわ。駐車場の植木のとこ」

「……そっか」


 隣に立った俺に、マイは夜空の三日月から目を逸らさず、話し始めた。


「あたし、友達いなくってさ。一年の時なんて、クラスの誰とも話さなかったのよ。なのにいつの間にか。最初の会話なんて思い出せないくらい、本当にいつの間にか。乙姫がよく話しかけてくれて、たまに放課後お茶だってしてた」

「……仲、良かったんだな」

「乙姫はさ、きっと、誰かが独りでいるとじっとしてらんないのね。優しい子なのよ。どうせあんたも友達いなかったんでしょ。あたしと同じで」


 乙姫さんらしいなと思った。人当たりが良くって、笑顔がいつもキラキラしていて。そして誰よりも優しかった。


「正直、こんなクソみたいな世界でも、このモールでの毎日は楽しかったわ。あんた達とご飯食べて、寝て、探索して。こないだはバカみたいなラップバトルして」


 マイは少しの嗚咽を漏らして、フェンスの金網を強く握った。


「そうやってあたし達がのほほんとしてる間に、とっくに乙姫は!」


 宵闇にマイの慟哭が響く。俯いて、血が出るほどにフェンスにしがみついて、何も出来なかった自分を責め立てるように。


「怖かったでしょうに、痛かったでしょうに! 乙姫がそんな想いしてる時に、あたしは一体何をしてたの!? あんたや虎二のバカとふざけ合って、NADぶっ殺していい気になって! どうして、どうしてすぐ乙姫を探しに行かなかったのあたしは! あたしは……こんなに自分が嫌になった事ない!」


 そう叫んで金網を殴ろうとするマイの手を、俺は止めた。

 マイは、涙で溢れた真っ赤な瞳で俺を睨む。


「大元を辿ればあの時、高校でヘマして噛まれそうになったあたしが悪いのよ! そもそもあたしが追われてなければ乙姫は」


 なんでマイが自分を責めるんだ。そんなことして何になる。少し、頭に血が昇った。


「NADに追われるのは誰も悪くない! そんな事言うなら、虎二が噛まれた時に俺がしっかりしていれば!」

「確かにあの時あんたはポンコツのヘッポコだったわよ! でも、だけど、そうだとしても! もしも、もしもあたしがあの時アンディ持ってたら!」

「持ってなかったんだから仕方ないだろ! 何でそう自分のせいにするんだ!」

「あんただって同じよ! いたっ、ちょ、離してよ!」


 思わずマイの手を力一杯握っていた。だけど、離さない。


「忘れずに、生きることしかできない。自分を責めてちゃできないって、明日香が言ってただろ。自分を責めてちゃ、自分が生きられない」


 俺自身にも言い聞かせている。あの時こうしていれば、ああしていればと過去に囚われていたら、助けられたはずの、目の前の大切な何かを失う。


「今のマイは、虎二が噛まれた時の俺だ。自分のせいにして、それだけが頭の中に渦巻いて、生きる事すら忘れてしまう。この世界じゃ、それだけはダメなんだ」

「あたしがあんたと同じポンコツのヘッポコの変態だって言うのッ!?」

「いってえ!」


 思い切り脛を蹴られて、思わずマイの手を離して尻餅をついた。マイもその場にしゃがみこんで、俺が強く握り過ぎた手をさすりながら、鼻をすすって泣いている。


「なあマイ。自分のせいにするなよ。乙姫さんだって、そんなの悲しむ」

「……じゃあ、噛まれた虎二とあんたが悪い」

「人のせいにもするんじゃない」


 仰向けに寝転がって、再び三日月を見上げた。


 “生きてるって、感じがする”

 この世界に対してそう思った。

 その理由を、今知った。死がこんなにも身近にあるからだ。


 生きるって、元々こう言う事なんだ。この世界は、今までよりも野生の匂いが強いだけ。


「マイ。今は好きなだけ泣いて、泣き切っちゃえよ。明日から、乙姫さんを忘れず生きて行けるようにさ」

「わかってるわよ。……抱き締めようだなんて思わないでよ、変態」

「俺はまだ死にたく無い」


 それからしばらく、マイが泣き止むまで側にいた。


 ▼

   

 一時間くらいだろうか。それからしばらく屋上で、二人で夜空を眺めていた。


「はあ、明日香とゆりに謝んなくちゃ。殴っちゃったし、ひどい事言った」


 マイは気持ちの整理がついたようで、目は赤く腫れているが普段の振る舞いが戻ってきた。

 いつもはツンツンと当たり散らしているマイだけど、実は人一倍責任感が強くて、常に前線に立ってNADと戦い続けているのも、自分が仲間を守りたいからなのかな。


「みんなの所に戻ろう。心配してるかも」

「そうね。ちょっと、手貸して」


 腕を伸ばすマイの手を引いて立たせてから、屋上の出口へ歩き出した。

 ――その時。


「鷹広さん! マイさん!」


 扉を勢いよく開けて、ゆりが飛び込んで来た。


「ゆり、どうしたんだそんなに慌てて」

「明日香さんが――」 


 明日香が。ゆりは今にも泣き出しそうな顔でそう言った。


 明日香がどうした、何があった。胸がざわざわと荒れる。

 何かを考える前に駆け出した。体が勝手に動いていた。


「明日香!」


 駆けつけた場所は、俺達のダイニングルームであるロジータ。みんなは店内で食事をしていたはずだが、虎二と健太が神妙な面持ちで店の外に立っていた。

 店の入り口には、閉店時に降ろされる鉄格子のようなシャッターが降りている。

 その向こう側に一人、明日香が閉じこもっていた。


「明日香……? どうしたんだよ、そんな所で」

「鷹広。ごめん」

「何だよ。何で謝るんだよ」



「私、噛まれちゃった」



 明日香は困ったような笑顔を作って、スカートを少しまくって太ももを晒した。そこには、白い肌に似つかわしく無い赤い歯型。


 目の前の光景がよく分からなかった。明日香が、噛まれた。その意味が分からない。


「ねえ鷹広」

「……何? 明日香」

「初めてこのモールに来た時。シャワー覗きたいって、言ってたでしょ?」

「何の、話だよ」


 明日香が何を言っているのか、うまく頭に入ってこない。


「あの時、大丈夫だって思ったの。いや覗きは大丈夫じゃ無いけど」


 明日香の目が少しジトッとして、またすぐに目線を落とす。

 ……噛まれたくせして、なんで無理して普段通りに振る舞おうとするんだ。


「虎二君が死んだって思ってた時、鷹広が一番辛かったはずなのにああ言う感じで振舞って、私達を元気付けてくれた。自然とそんなことが出来る鷹広を、強いな、すごいなって思ったよ。みんな、そんな鷹広をリーダーだって思ってる」


「やめろよ、そんな話。なあ、ほんとは噛み傷じゃ無いかも知れない。出て来なよ」


「ううん。頭がぼやっとして来たから、きっともう時間が無いの。鷹広、みんなをよろしくね。マイも、鷹広のこと助けてあげて。頼んだよ」


 あまりに短く一方的な、さよならの言葉。

 明日香は笑ってそれだけ言うと、あの時の虎二みたいに足早に、ロジータの奥へと姿を消した。


 テーブルに置かれたままの食べかけの納豆ご飯が、「平和な時間は終わりだ」と、そう告げているように見えた。

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