6 パチン
「菜穂ちゃん」
乙姫さんが血だまりの中ぴちゃぴちゃと足を進めて、もう動かなくなった白鳥さんの上体を抱き上げた。
嗚咽を漏らしながら、見開かれた両目をそっと手のひらで閉じる。
皆、無言だった。
怖くなるくらい大量の血を流してしまった白鳥さんは、誰が見てももう手遅れだった。
どうしてこんな事になった。
変な奴らが突然乗り込んで来て、蟻塚に続いて関谷先生まで凶暴化して、人間を噛み殺すだなんて。
「ね、ねぇ、ちょっとみんな」
突然、何かに怯えるような乙姫さんの声。
整った綺麗な顔がみるみる引き攣っていく。
「すぐに、隣の教室に逃げた方がいいのかも」
乙姫さんが抱きかかえている白鳥さんの身体が、びくんびくんと痙攣を始めたのだ。
「乙姫さん、こっちへ!」
走り寄る間にも白鳥さんの痙攣は大きくなって、急にピタリと止んだかと思ったら、上体をゆっくり持ち上げて立ち上がった。
関谷先生と同じだった。白く濁って、完全に生気を無くした瞳。
恐怖に呑まれて立ち上がれない乙姫さんに、白鳥さんが牙を剥いた。
「ア゛ァァァァァァ!」
「ごめん、白鳥さん!」
俺は助走をつけて白鳥さんを蹴り飛ばし、乙姫さんの手を取って走り出す。
虎二は俺と入れ替わるように、前に出た。
「しんがりは俺に任せろ! 全員急げ!」
白鳥さんが体制を立て直して襲いかかる。
虎二は机を盾にして押し返す。
熊田と海老原を先頭に、俺達は隣の教室に走った。
「熊田、海老原! 後ろの扉を頼む! 乙姫さんは、俺とここで!」
教室後方の扉の施錠は熊田達に任せて、虎二が来たらその瞬間に、前の扉を閉めなければ。
「うおおおおお!」
虎二が勢いよく飛び込んできた。間髪入れずに、ぴしゃりと閉じて鍵をかける。
追ってきた白鳥さんが扉にぶち当たった。扉が外れるかと思ったが、俺と乙姫さんでなんとか押さえた。
白鳥さんは、いや、白鳥さんだったものは、ガンガンと扉を叩いて音を鳴らしている。
「虎二、怪我は!?」
「おお、何ともねえぜ。間一髪だ」
「よかった……。噛まれたらその時点でアウトみたいだ。関谷先生も傷とは言えないくらいの小さな噛み傷で、凶暴化した」
「そんな……」
乙姫さんは、白鳥さんの流した血で染まった両手を見つめて泣き出した。
突然、骨と骨がぶつかるような音がした。
虎二が、熊田を殴ったのだ。
「イッテェええ、何すんだてめえ!」
「気合い入ってんのは見た目だけかよ。鷹広を盾にしやがって」
「ま、まあまあ、熊ちんもいきなりで驚いたんだよ。勘弁してくれよ」
意外な事に、海老原がその場をなだめようと間に立った。
熊田は必死に虎二を睨むが、きっと力の差を理解しているのだろう、やり返すことは無く、しばらくしたら目を逸らした。
扉の外からは白鳥さんの呻き声が止まず、扉を叩き続けている。
このままだと、音を聞いた他の奴らが集まって来てしまう。
だけど今出来ることと言えば、白鳥さんがどこかへ行くまで息を潜めてじっとしているしか無かった。
クラスメイトと担任の先生が死んだ。
動いているのに、もう死んでいる。
訳がわからなすぎて、脳があれやこれやと考え出して、悲しみに暮れる余裕は今の俺には無かった。
▼
二時間ほど経っただろうか。
教室の外から白鳥さんの気配は消えた。
教室の時計を見ると、一四時を回っていた。
窓の外では、太陽が知らん顔で穏やかに照っている。憎たらしいくらいに。
「よっこらせっと、ただいま」
偵察に出ていた虎二が、窓から戻って来た。
「虎二、どうだった?」
「確認できる教室は窓から一通り見て来たけど、奴らはいなかったぜ。購買部とかある方へは、外からじゃあ行けなかったから油断はできねえが」
虎二に頼んだ偵察。それは、俺の考えた作戦を実行する為だ。
この机と椅子しかない教室に、ずっと篭城し続けることはできない。腹も減るし、喉も乾く。
生きるためには、動かなければ。
それには奴らの影が薄くなった今がベストだ。
「これからバリケードを張りに行こう。まず下の階からの侵入を防ぐんだ。階段にはきっと、防火扉があるはず」
「まずはこの三階全体を拠点にする感じだな。鷹広お前、なかなか頭回るんだな」
虎二は意外そうな顔をして言った。
変な言い方だが、俺も自分のその意外さを自覚していた。
追い込まれると、選択肢が頭の中にスムーズに浮かんでくる事がある。過去にも似たような事があった。
――小学生になったばかりの頃。
リクと二人、自転車で街を越えて遠出をしたら、知らない田舎で迷子になってしまった事がある。
辺りは真っ暗になり、民家も街灯も見当たらない未舗装の道を二人で彷徨い続けて、いつもはしっかりしているリクが弱気になり泣き出してしまった。
そんな中俺は、家に帰るための方法を考えることだけに不思議と集中できていた。
まずは広い車道を探した。夜の時間は、郊外から人口の多い市街地へ帰る人の方が多いはず。
幼いながらにそう予想し、車の流れに沿うように、ひたすら自転車を走らせた。
やがて知っている道へ戻る事ができた時、緊張の糸が切れて、今度は俺が泣き出した。
――そんな、幼い頃の綺麗な思い出とは比べ物にならない位にひどい状況だけれど。
今は生きるために腹を括って行動するしかない。
俺は落ち着いていた。あの時のように、選択肢を生み出す思考に頭を切り替えることができていた。
「奴らは音に敏感に反応するみたいだから、なるべく静かに。もし出くわしたら無理して戦おうとしないで、すぐに近くの教室に逃げ込んでくれ。もし教室内にも奴らがいたら、窓から外の足場に逃げるしかない」
そこで一人が挙手をした。背の小さい天然パーマの、海老原だ。
「なあなあ黒ちん。分担した方が効率よくね?」
海老原は熊田と違い協力的だった。熊田のパシリのイメージが強いが、割と頼りになるかもしれない。
話し合って作戦を練り、海老原の提案の通り、分担して防火扉を閉めに行く事にした。
虎二の偵察で奴らがいないと確認出来た区域を、熊田、海老原、乙姫さんチームが。
反対側の偵察が出来なかった区域は、俺と虎二の二人で向かう。
乙姫さんを熊田チームに入れたのは、できるだけ危険から遠ざけたかったから。熊田の人間性は正直あまり信用出来ないが、そこは海老原を信じるしかない。
「俺は鷹広とペアだな。ま、いざとなりゃ俺とお前で戦えば何とかなるしな」
「ああ、頑張るよ。よし、じゃあ、早速行こう」
強い虎二と並び立つような扱いが、嬉しかった。
しかし、先陣を切って皆に背を向けた瞬間。
「てめえが仕切んじゃねえよ。ケツ丸出しが」
ふいに熊田が悪態をついた。ケツ丸出し、とはどういう事だろうか。
「し、しーっ! 熊田君、空気読んでよ!」
乙姫さんが渋い顔で熊田に釘を差す。
何がどうしたのかと自分の尻を叩いてみると、パチン、と気持ちの良い音が響いた。
最初に虎二に助けてもらった時、尻ポケットを蟻塚に掴まれていたことを思い出した。
パンツごと持って行かれて、俺の右臀部が露わになっていた。
「す、すまねえ黒ちん。言っていいのかどうなのか、分からなかった」
「鷹広お前めっちゃ良い尻してんじゃねえか! ブハハハハ!」
虎二は今気づいたように腹を抱えて笑い出した。きっと、場を和ませる為に敢えて笑っている。
気配りの出来る良い男だ。俺も見習いたい。
「だは、ダハハハハ! なあなあ、もっかいパチンてやってくれよ! ブハハハハハ! ひーっ、ひーっ」
前言撤回。この男は、本気で笑っているだけだった。
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