5 感染

 改めてこの場にいる他の生徒達を視界に入れる。人付き合いの悪い俺に気を使ってか、乙姫さんが全員の名前を教えてくれた。みんな今年の俺のクラスメイト達だった。


 陽キャグループのボス格、熊田康平。

 子分のように付きまとっている背の小さな天然パーマのお調子者、海老原亮。


 そして――漆黒のボブカットに、長身の美脚とクールな美貌で男子からの人気が高く、スポーティさと併せてセクシーさも醸し出す陸上部の女子、白鳥菜穂。いろんな意味で、こいつぁエースだ!!


「黒沢、だっけ。この非常時にエロい目で見てくるな。大物かよ」


 白鳥さんから蔑んだ目でご褒美をいただいた後、乙姫さんに無言で脛を蹴られた。ふむ、乙姫さんと会えて少し気が緩みすぎたのか、秘めたる心が馬鹿正直に顔に出ていたようだ。


 乙姫さんの蹴りもご褒美と言えばご褒美だな、などと考えていたら、突然、熊田と海老原が関谷先生に詰め寄って叫びだした。


「おい関谷。テメェ、この状況どうすんだよ。責任取れよ!」

「そ、そうだそうだ! センコーだろ!」


 熊田は関谷先生の胸ぐらを掴んで、持ち前の恵まれた腕力で以って引きずり回した。


「ちょっと、やめなよ熊田君!」


 乙姫さんが止めに入るが、熊田は一切聞く耳を持たない。海老原は、乙姫さんと熊田を交互に見ながらオロオロとしている。


「俺ら、喰われて死ぬとこだったんだぞ! あの凶暴な奴ら、何なんだよ!?」

「すまない熊田君。先生も知らないんだ」

「うるせえなんとかしろ! このや……!?」


 関谷先生を殴りつけようと振りかぶった熊田の右拳。それは、関谷先生の顔面に当たる直前でビタっと動かなくなった。


 虎二が手のひらで熊田の拳を受け止めて、みしみしと音がなるほどに強く掴んでいる。


「威勢がいいな。だがよ、この先生は何にも知らねえ。俺と鷹広も聞いた」

「あんだぁてめえェ? トサカみてえな頭しやがって」


 熊田は虎二の手を振り払おうと身をよじるが、右拳だけその場で時を止めたかのようにピクリともしない。

 しばらくの間二人は睨み合って硬直し、やがて熊田はバツが悪そうに舌打ちをして力を緩めると、虎二も手を離した。


 諍いが終わると、我関せずと言った顔をしていた白鳥さんが口を開いた。


「黒沢と関谷先生。あとリーゼントのあんた。あたし達の他に、誰も見てない?」

「俺は、乙姫さんとリク達と離れ離れになって逃げて来た後は、誰も」

「俺も誰も見てねえな。生徒指導室にぶち込まれてたからなー。鷹広が追われてんの見つけて、こりゃやべえなと思って追っかけて、今に至るって感じだ」


「先生は、誰か見てないですか?」


 白鳥さんが関谷先生に話しかけるが、急にその場に座って俯いたままになった。電池の切れたおもちゃのように、体のどこにも力が入っていないように見える。


「先生?」

「あ、あぁ……」


 消え入るような声で、白鳥さんに返事をする先生。


「大丈夫っスか? 具合悪いスか?」


 虎二も心配して声をかけるが反応が鈍い。


「いや……大丈夫……なんでも……」


 明らかにおかしい。風邪でもひいていたのかと額を触って見ると、とても熱かった。


「先生、すごい熱じゃないですか! 無理しないで、しばらくここで休みましょう」

「……ァァ」

「体調やばいっスよ。横んなった方がいいっス」

「そうね。先生、水飲みますか?」


 白鳥さんは先生を寝かせ、介抱にあたる。


「ァ……アァ……ア゛」

「どうしました?」

「ア゛?」


 もう、嫌な予感しかしなかった。


「ア゛アァァァァ!」


 突然、眼を見開いた先生が白鳥さんに襲いかかった。


「あっ、あ゛ァァァっ! 痛い! 痛いっ!」


 一瞬の出来事だった。

 関谷先生が白鳥さんの細い首筋に歯を突き立てて肉の一部を喰い千切ると、そこから血柱が立った。


「菜穂ちゃん」


 乙姫さんがカタカタと震えている。

 唖然とする他なかった。

 徐々に悲鳴が途切れ途切れに小さくなり、口を開けたまま喋らなくなった白鳥さんをごとん、と床に放ると、関谷先生はゆらりと立ち上がって俺達を睨みつけた。


 その目は血走りながらも白く濁って、死んだ魚とよく似ていた。


「ア、ア、ア゛ァァァァ!」

「う、うわァァァァ!」


 悲鳴を上げたのは熊田だった。関谷先生は熊田へぐりんと顔を向けて襲いかかる。


「来んなよォォォぉ!?」

「えっ」


 熊田はいきなり俺の後ろに隠れた。そして背中に強い衝撃を感じたと思ったら、俺の身体は関谷先生の方向へと押し出された。


「鷹広君!」


 乙姫さんの叫び声が聞こえる。目の前には犬歯を剥く関谷先生。


 終わった――。


 いや、だめだ。乙姫さんがいる。 


 咄嗟に、噛みつきにかかってくる関谷先生の股の間を滑ってなんとか躱した。

 そこへ虎二の雄叫びが響く。


「おっらぁあああああ!」

「ア゛ッ!」


 虎二は足刀蹴りで、周囲の机や椅子もろとも関谷先生を壁まで吹っ飛ばした。

 追撃をするかと思ったが、虎二は凶暴化した先生のことなど眼中に無いかのように、熊田の方へ向き直って足早に詰め寄った。


「おいテメェ……鷹広のダチじゃねえのかよッ……!?」

「し、知らねえよ! 俺は悪くねえ!」


 ぶちん、と虎二の頭から音が鳴ったその時、起き上がった関谷先生が虎二に飛びかかった。そのまま馬乗りの体勢になるが、虎二は関谷先生の首と腕を掴んで持ちこたえた。


「こいつっ! 力強えぞ……!」


 関谷先生は虎二を噛もうと歯をガチガチ鳴らす。喉の奥から唸り声をあげ、髪を振り乱して唾液を撒き散らしながら。

 そいつはもう、関谷先生じゃなかった。


「鷹広ォ!」


 咄嗟の呼びかけに体が動いた。

 虎二は巴投げのような体勢を取り、俺は関谷先生の頭と腰のベルトを掴んだ。


「「うおおおお!」」


 二人で息を合わせて窓の外に関谷先生を投げ飛ばした。

 派手な音と共に窓ガラスを突き破り、関谷先生の唸り声が走り去る電車のように遠くなる。少しのタイムラグの後、ぐしゃりと嫌な音がした。



 心の中で、黒い絵の具が溶けて広がるような感覚を覚えた。

 人間を三階の窓から落とした。その事実に。


 いや、仕方ない。この状況だ。

 あれはもう関谷先生では無くなっていて、人間でもなかった。

 こうしなければ俺も虎二もやられていた。


 本当に仕方がないと分かっていたが、言い訳のように心の中でそう繰り返した。

 思えば虎二は蟻塚も含めて二人目だ。虎二の心は、大丈夫だろうか。



「鷹広、大丈夫だったか?」

「あ、あぁ……大丈夫。虎二は?」

「どこも何ともねえ」


 虎二は笑う。


「助けてくれて、ありがとな」


 そんな虎二を見て、心の中の黒い絵の具は薄くなる。

 虎二は何よりも、守ろうとしてくれたんだ。それだけを考えて戦っていたから、きっと迷いも後悔も無いんだ。


 何だろう、虎二には背中を預けたいというか、俺が背中を任されたいというか。

 そんな感情が、出会ってほんの少しなのに芽生え始めていた。

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