4 アニキ、見参

 蟻塚はもう、窓から落ちた。このトサカリーゼントの人は誰だ? いやそれよりも先に、この人は正常なのか。それとも、蟻塚達と同じく凶暴化しているのか。

 現状を認識するのに少し時間が欲しかった。なのに。


「゛アアアアアアアアア!!」

「!?」


 休む暇をくれる事なく、新たに二体の奴らが入って来た。


「しつっけえんだよ!」


 トサカの彼は鋭い前蹴りで二体まとめて部屋から弾き出すと、即座に扉を閉めて内側から鍵をかけた。

 扉を閉めて奴らと遮断されたという事実が、俺の頭を徐々に冷静にさせる。


「た……、助かった?」 


 俺は、直前まで感じていた絶命感と安堵感の振り幅の大きさに息を切らしながら、きっと今までの人生で一番間抜けな顔をしていた。


 追い出された奴らは、すぐにまた扉をガンガンと叩き出した。


「効いてねえのか……? なんだあいつら」


 この人は命の恩人だ。とにかくお礼を言わなければと、トサカの彼に向き直る。


「あ、あ、ありがとうございます! 助かりました!」

「オウ、気にすんな!」


 本気の本気で感情を込めてお礼を言うと、トサカの彼はニカっと笑ってそう言った。

 その様はまさにアニキ。そう、アニキだ。きっとこの人、アニキだ! 血の繋がりとかそう言うんじゃない。なんて言うかもう――アニキだ!

 

 現実離れしたアニキっぷりに感涙していたが、すぐに我に返った。

 慌てて窓から地上を見下ろした。真下には手足がひしゃげて動かなくなった蟻塚。


 その向こう側では散り散りに逃げる生徒達を、“あいつら”が追いかけ回していた。捕まった生徒は、悲鳴を上げながら身体を食いちぎられている。


「なんなんだよ……これ」


 夢だと思いたい。だが、全力疾走の後の息苦しさや、先程までの恐怖の余韻で微かに震える両膝が、これは現実だと俺に囁き続けていた。


 その時、隣の教室の窓から一人の男が顔を出した。

 担任の新任教師、関谷先生だった。


「先生!」

「黒沢君! それに、明堂くんか! 大丈夫か? 今そっちへ行く」


 関谷先生はそう言って窓から体を出して、細い足場を伝って来た。

 トサカのアニキが腕を伸ばして、俺達のいる物置部屋へと引き入れた。


「関谷先生、大丈夫ですか? 怪我とかは」

「ああ、少し噛まれたけど、傷は本当に浅い。ほら、食いつかれる寸前で腕を引いてギリギリ逃げられたよ」


 そう言いながら先生はワイシャツをまくった。細い傷口から少し血が滲んでいる。確かに、怪我だと言ったら大袈裟なくらい小さな傷だ。まず大丈夫だろう。


「なあ先生。この状況が一体どうなってんのか、知ってんスか」

「すまない明堂君。先生にも何が何だか。とにかく、無事で良かった。クラスメイト同士、助け合って頑張ったんだね」


 クラスメイト。数秒の思考の後、俺は気付いた。


「クラスメイトって、もしかして俺の前の空席」

「おっ、お前同じクラスか。いやー朝から生徒指導室にお呼ばれしててよ、今年のクラスの誰とも顔合わせてねえんだ俺」


 トサカ兄さんはなぜかドヤって胸を張っている。そして、大きく息を吸って言った。


「俺は明堂虎二。ダブって今年も二年生。よろしくな!」


 年上と知って少し安心した。同い年でこのアニキっぷりだったら逆に凹む。


「俺、黒沢鷹広。えっと、よろしくお願いします」

「同級生だし虎二でいいぜ。敬語も無しだ。やり直し」

「え、うん。じゃあ……よろしく、虎二」


 小声で語尾に「さん」を付けたら、虎二は笑ってくれた。見た目は怖いが、全然刺々しい感じがしない。人は見かけに寄らないって本当だ。

 俺と虎二は、固く握手をした。


 仲間も増えて少し安心した。三人いれば、この状況でもできることは多いはず。

 関谷先生に今まで起きたことを説明し、生き残った生徒を探す事にした。


 リクは、そして乙姫さんは無事だろうか。二人のことが心配で胃がキュッと締め付けられる。こんなにも危険が、それどころか死そのものが身近にあるなんて初めてのことだった。


 だからこそ、じっとしてなどいられない。


 関谷先生がこの物置部屋に移動して来たように、三人で窓の外の足場を伝って、他の教室の様子を探る。

 隣の教室はもぬけの空で、そのまた隣、さらに隣へと移動しながら虎二が言った。


「そういや、いつの間にか火災報知器の音止んだな」

「あ、確かに……それでかな。校庭で暴れ回ってた奴らが散り散りになってく」

「うーむ。物音を立てずに静かにしていれば、やり過ごせるかも……あ! いた!」


 先頭を行く関谷先生が、俺と虎二に手招きをする。

 教室の中を覗いて、思わず溜め息が漏れた。


 ――乙姫さんがいたからだ。


 神妙な面持ちで、じっと床に視線を落としている。コツコツと軽く窓を叩くと俺達に気付いて、その顔にぱあっと笑顔が灯った。


 乙姫さんが内側から窓を開けてくれて、俺達はその教室へ入った。


「鷹広君!」

「無事で良かった、乙姫さん」


 よほど怖かったのだろう。目に涙を浮かべながら抱き付いて来た乙姫さんの頭を、そっと撫でた。


「鷹広君、リク君は一緒じゃないの?」


 俺が聞きたかった事を、乙姫さんが逆に俺に尋ねた。この教室に、リクはいないのだ。


「乙姫さんと一緒にいてくれるといいなって、思ってた。はぐれてからは見てない」

「……無事なのかな」

「大丈夫だよ、リクは」


 きっと大丈夫だ。リクはいつも冷静で、頭だって良い。絶対に大丈夫。

 そうやって自分に言い聞かせている気持ちが半分。もう半分は、確信めいた直感。

 ――リクは大丈夫。今は乙姫さんを守ることだけを、考えよう。


「鷹広やるじゃねえか。お前の彼女か?」

「ち、違うよ虎二! そんなんじゃ」


 空気を塗り変えるように、ニヤニヤしながら虎二が茶々を入れたから、俺と乙姫さんは互いに気まずくなって離れてしまった。

 乙姫さんは冷静さを取り戻すように、咳払いを一つして言った。


「関谷先生も、無事でよかったです。それと、虎二さん、て言うの?」

「おう、よろしくな! 乙姫ちゃんよ」


 二人のやりとりに少し頬を緩ませると、意識の外から男の声が割り込んで来た。


「おうお前、よく無事だったな。確か同じクラスだったか?」


 声の主は、バスの車中でマイと言い争っていたガラの悪い男子生徒、熊田だった。


 乙姫さんしか眼中になくて存在に気がつかなかったが、そこは黙っておこう。

 ちょっとイヤだなと思ったことも、黙っておこう。

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