サバ、ダバダバダバ
「よぉぉぉぉぉし‼ やるぞぉぉぉぉぉぉ‼」
「だ、大地、もう少し時間がかかるから、楽にしていて良いからね」
「安心しろ‼ 俺はいつでも行けるからよぉ‼」
「あっ、う、うん……。なるべく急ぐけど、落ちないでね」
この空間のひと際高く、最も天井の海に近い場所へ立つ博と、桟橋の先端の淵ギリギリに立つ大地。作戦はプランBへと移行した。
博の考えたプランBとはこうだ。頭上に広がる水面。それは地球上のどこかの海と繋がっていて、あらゆる生物が泳いでいるのだと言う。つまり、天井の海を介して大量の魚を呼ぶことができたなら、それを大黒たち鮫との契約の対価にすることができるのである。
魚を呼ぶ方法としては、本に書いてある“魚の招来”という術を使い、もしもそれが成功したなら、後は当初の予定通り、“鱗の体”によって現在水最も水中を速く泳ぐことのできる大地が水晶を持って、水底の台座を目指す手筈となっている。
ただ正直に言うと、この作戦に俺は少し
そもそもこの方法は、三百年前に蒼蓮さんが実行した方法とは異なり、博が即興で考えたものだ。かつて魔術の達人だった蒼蓮さんは、呪文の力で鮫たちを従属させ、大黒たちや他の鮫を大人しくするように命令させることができたのだが、博では呪文を使う力が足りず、生贄無しでは鮫たちを従わせることができなかったが故のやむを得ない措置なのである。
次の問題は大黒たち鮫のこと。さっき大黒は、対価を用意さえすれば俺たちを襲わないと約束したし、大地も博もそれを信じたようだが、俺にはどうしても本心から信用することができないでいた。あの約束も、俺たちを騙す為の演技だったということも十分に考えられる。まぁそもそもそれを疑ってしまっては、ここから先へ進むことができないのだが。
そして何よりもこいつ。言わずもがな大地のことだ。仮に先の二つの懸念を完全にクリアすることができたとしても、最後まで何をしでかすのか分からないのが、この佐藤大地というやつなのだ。
泳いで水底まで向かい、水晶を置いて、この場所まで戻って来る。字面にしてみると、どれもかなり大変な作業だ。故に本来ならば、ちゃんと水底まで辿り着けるのだろうか、体調は大丈夫なのか、やはり鮫に襲われはしないだろうかと、そういった辺りのことを心配するべきだろう。が、こいつの場合、俺の想像を挟む余地も無いような、そんなとんでもないことをやらかすんじゃないかという懸念の方がずっと大きいのである。
クソ、どうして俺じゃないんだ。蒼蓮さんから魔導書を託されたのが、鱗の呪文を使い、水底へ潜るのが俺だったなら……。
………………。
いや、仮にそのどちらの役割を与えられても、きっと俺は二人よりも上手くやれはしなかっただろう。普段冷静なように振舞っているけれど、実際には博よりもプレッシャーに弱いことは自分でも分かっているし、本番以上を求められるこの場面なら、例え呪文の効果が無くたって、決して物怖じしない大地に勝てなかった筈。
どんなに辛くて苦しい状況でも、挫けそうな俺たち常に鼓舞し、ここまで引っ張ってきた大地。プレッシャーの掛かるこの状況で一歩前へ踏み出し、代案を思いついた博。なのに、俺だけが何もしてない。と、心の中で深い無力感に苛まれそうになっていると――。
「それじゃあ、やるよ!」
博の声を張り上げるような開始の宣言で、俺はハッと我に返る。いけない、駄目だろ隼人。こんなときにこんなことを考えてちゃ。これから先、何が起こるか分からない。予想外のことが起こるかもしれないし、その場合、俺にもできることがあるかもしれないだろ。弱気になってどうするんだよ。
「……スーッ……、『来たれ! 来たれ! 来たれ! 潮に乗り、波に乗り、風に乗って、地図無き道を、原始に刻まれた定めを
洞窟へ響く博の声から一瞬の静寂の後、頭上に広がる水面が僅かに静止したかと思えば、淡く光り、ゆらりと一つ大きく波打つ。すると、どこからともなくごうごうと水が唸るような音が鳴り始め、この場へ何かが迫って来るような気配を感じさせる。これはまさか、大量の魚がやって来て――。
ちゃぽん。という音と共に、頭上の水面が小さく波紋を打つと、そこから何かが地面に落ちてきた。目を凝らして見ると、そこには小さな魚が一匹、ピチピチと元気に跳ねていた。あれは、
鰯。魚類。ニシン目。ニシン亜目。煮ても焼いても刺身にしても美味しい魚。古くは
えっ、これだけ? いやいやいや、あれだけ盛大な呪文を唱えておいて、鰯一匹? 待ってくれよ博。大黒たちへの生贄には、体重四十キロ分の生贄を与えなくちゃいけないんだぞ。いくらなんでも、これじゃあ……。
チラリと大黒の方を向く。すると大黒は無言で、「いくらなんでもそりゃあ無いじゃろう……」とでも言いたげなやるせない顔をしていた。とは言え、本人にそう言われたのではないし、表情が変わっている訳でもないので、実際にはどう思っているのかは分からないのだが。
「どうしたー⁉ まだかー⁉ まだ俺は飛び込んじゃいけないのかー⁉」
水辺に立ち、スタンバっている大地が俺たちに問う。あいつは既に体を折り曲げて尻を突き出す、水泳で言うところのグラブスタートの、しかも飛び込む直前の構えを取っているので、こっちの様子が見えていないのだ。
もしも大地がこの様子を見たなら、あいつはどんな顔をするのだろう。いつものようにガハハと大声を上げて笑うのだろうか。それとも、今の俺たちと同じように、やるせない表情を見せたりするのだろうか。もしそうだったら、なんだかすごく申し訳ない気持ちになってしまう。
「ま、まだだ‼ まだ飛び込むんじゃないぞ‼」
とりあえずそう指示を出しておかねば。あんな体制では、一秒後に水の中へ飛び込んだっておかしくはない。だってその姿勢、絶対に辛いだろう。ちょっと想像してほしい。立った状態で体を前屈させ、両足を揃えて膝は曲げ、腕を後方に逸らした飛び込む直前の姿勢で待機しているのだ。まず楽である筈がない。
というか、もっと楽にしていろよ。それ、絶対に待機するのに適した姿勢なんかじゃないだろ。ていうか大地、お前よくそんな姿勢で今普通に大声を出せたよな。
「おう‼ 任せとけ‼」
元気に返答する大地。良かった、どうやらあのアホの心配はする必要が無いようだ。まぁあのアホのことは一旦放っておこう。
それよりも、「おい博、どうなっているんだよ⁉」と、そんな思いを込めて博の方へ視線を向ける。すると、博の顔は真っ白、唇は真っ青に染まり、歯はカチカチと震え、今まで見たこともないほどに動揺の表情を浮かべていた。
あっ、駄目だ。これは失敗だ。間違いない。
どうするんだよこれ。今からもう一度やり直せるのか? だけど、あんなにも自信満々に呪文を唱えてこの有り様なら、今の限界寸前なコンディションでは、とても成功なんて――。
そのとき、どこからかざわざわと言う音が鳴り始める。音の出所を探してあちこち見渡していると、その出所と、ある変化に気付いた。沢山の何かがこの場所へ近付いて来る気配。次第にザバザバと音を立てて天井に広がる水面が激しく波打ったかと思えば、そこから一匹、二匹、いや何十、何百という数の魚が、この空間に降り注ぎ始めたのだ。
サバにアジ、ブリやハマチなどの出世魚の面々や、サケに大きなマグロ。その他、長いものやカラフルなものと、今までに見たことも無いような、ありとあらゆる魚が降り注いでは、大黒たち鮫の回遊する水の中へと落ちて行く。
「痛っ、痛っ‼ 痛ってぇ‼ すげぇ‼ すっげぇ‼ すげぇよ博‼」
この空間の最も中心に近い場所へ立っていたことで、大地の全身に何匹もの魚が激突する。だけどその姿勢は全くぶれてはいなかった。あいつ、どれだけ強い体をしているんだ。いや、今はそれよりも――。
「博‼ 成功だ‼ 合図しても良いんだな⁉」
「ま、待って‼ …………、『知れ、陸に住まいし者どもよ。空気浅き水の中、
自動で高速に捲れる魔導書のページ。それが捲れ終わるよりも先に呪文の
「おっ? …………、…………ッ⁉ カッ、クァ……、息、苦し……な、これ……」
「大地‼ 早く水の中へ飛び込んで‼」
「お、お、う……。だぁッ‼」
大地はざぶんと音を立て、ありとあらゆる魚が入り混じった水の中へと飛び込む。そこには一切の恐怖や躊躇いも無かった。だけど、大地が一瞬見せた苦悶の表情。あれは――。
「博、今のは……」
「大丈夫。あれは“水中呼吸法”っていう術。水中で呼吸ができるようになる代わりに、一時的に陸上で呼吸ができなくなるものなんだ。今頃大地は、ちゃんと水中で呼吸ができている筈だよ」
「なるほど、だからあいつ、あんなに慌てるように……。……ん、今頃水中でっ、て……あっ、そうだ‼ 大黒、契約は⁉」
「心配すんなや、これだけありゃあ上等も上等よ。そうさなぁ、これだけの血と肉となりゃあ、百の間は襲わんでおうてやるわい。それでええな?」
「良い‼ 良いから‼ そんなことよりも早く‼ 早くやってくれよ‼」
「おう、分っとるわい。…………、おぅおどれら‼ そんガキは儂との契約を果たした客人じゃ‼ 供物の魚は好きにしてもええが、ガキは儂が百数えるまでは絶対に襲ったらあかん‼ ええな‼」
大黒の発する声は、衝撃となって広い洞窟内へと響き渡る。俺と博は急いで水辺へと近付き、大地の安否を確認せんと中を覗き込んだ。
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